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棚倉城 たなくらじょう

別名
亀ケ城、近津城
時代
江戸時代
分類
近世輪郭式平城(丘城)
規模
面積:72270㎡
現状
亀ケ城公園・住宅地
場所
福島県東白川郡棚倉町棚倉
最終訪城日
2012年10月8日

丹羽長重が築いた棚倉藩の藩庁で、丹羽氏が白河に移った後は藩主がめまぐるしく替わるが、幕末まで藩庁として使用された。。現在は本丸跡が公園となり、周囲は棚倉の街に埋もれてしまった。

城史

年代 出来事
1622年 棚倉へと5万石で移封された丹羽長重は最初は赤館に入るが、山城で不便だったため新城の築城願いを幕府に提出したという。
1625年 幕府の許可を得た丹羽長重は都々古和気神社の社殿を遷宮し、その跡地に新たに平城を築いた。築城がある程度進んだ所で、居城を赤館から移したという。
1627年 城は主要部分は完成していたものの、まだ工事が残っている中、丹羽長重は白河へと転封となり、棚倉には替わって内藤信照が移された。
1705年 内藤弌信が駿河国の田中へと転封となり、棚倉には替わって太田資晴が移された。
1728年 太田資晴が上野国の館林へと転封となり、棚倉には替わって松平武元が移された。
1746年 松平武元が上野国の館林へと転封となり、棚倉には替わって小笠原長恭が移された。
1817年 小笠原長昌が肥後国の唐津へと転封となり、棚倉には替わって井上正甫が入ることになったが、正甫は病気を理由に棚倉へと赴くことは無かった。
1836年 松平康任が棚倉転封となったため、井上正春は上野国の館林へと転封となった。
1866年 松平康英が武蔵国の川越へと転封となり、翌年の1月に棚倉に替わって阿部正静が移された。
1868年 戊辰戦争では棚倉藩主の阿部正静は会津に居り、城代の阿部内膳は白河口に出兵していたため、城には守備兵がほとんど居なかったという。6月24日、城は激しい攻防の末に落城し、その後に棚倉藩は新政府軍へ降伏した。なお終戦後、藩は4万石減封されている。
1871年 廃藩置県により城は破却された。

縄張り

城は久慈川の支流に挟まれた台地の上に築かれた平城で、土塁と水堀で囲まれた本丸の周囲に二の丸を展開して輪郭式の縄張りを形成している。二の丸の北西外側には三の丸があるが、規模から見て後から増設した出丸のように見える。

【本丸跡】
本丸はほぼ方形に近い形で周囲は大きな土塁で囲まれているが、建物関係の遺構は見られない。現在は図書館と広場になっているが、以前は城を意識したような形の中央公民館もあった。どうやら、しばらく見ないうちに解体されてしまったようだ。

【本丸外枡型】
本丸にある二箇所の虎口のうち大手とされる南の虎口は外枡型になっている。なお、北の虎口は内枡型となっている。

【本丸水堀】
本丸の周囲には水堀がハッキリ残っており、本丸の土塁と相まって城跡らしい雰囲気をよく残している。

【二の丸石垣】
棚倉城は基本的に土塁と堀が主体の土の城だが、二の丸跡西側の斜面上部にのみ石垣が築かれており、恐らく斜面保護のための鉢巻石垣のような用途で築かれたと思われる。今は民家が建っているため石垣が観察し難いのが難点。

【二の丸北門番所跡付近】
二の丸はほぼ街に埋もれてしまったため西の石垣を除くと見所があまり無いが、北門の番所があったあたりがちょっとした広場になっており、一応井戸が見られる。

【長久寺山門(旧二の丸南門)】(移築)
城跡には建物の遺構は残されていないが、1707年に太田資晴が長久寺に寄進して移築された旧二の丸南門が今も寺に残されている。この門が棚倉城唯一の築城時から残る建築遺構とされる。

アクセス

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