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鴫山城 しぎやまじょう

別名
南山城、田島城
時代
南北朝時代~江戸時代
分類
近世山城
規模
標高:749m、比高:約200m
現状
県指定史跡/愛宕山(山林)、史跡公園?
場所
福島県南会津郡南会津町田島字根小屋甲
最終訪城日
2011年11月5日

南北朝時代頃に長沼氏が愛宕山に築いた山城で、長沼氏代々の居城。蒲生・上杉氏が領主の頃に麓を中心に大改修され、江戸時代の初頭まで使用された。現在は山頂に愛宕神社がある山林だが、道などが整備されている。

城史

年代 出来事
1192年 長沼宗政が奥州合戦の戦功により南山の地頭となり、下向して鴫山城を築いたと伝わっているが、発掘調査等からは鎌倉時代の築城は否定されている。
南北朝時代頃 城址の発掘調査から南北朝時代頃に築かれたとされている。
1459年 山ノ内越中と白川氏(結城氏)に城を攻められて落城したという。その後、蘆名氏の援助で長沼氏は城を奪還した。 『塔寺八幡宮長帳』
1521年 蘆名盛舜が蘆名氏の当主となると長沼実国は蘆名氏と対立するようになり、峠を越えての小競り合いでは長沼氏が敗退し、その後の数度の戦いで鴫山城まで攻め落とされた。だが、蘆名軍は内訌が発生したために撤退し、長沼氏は失地を回復できたという。
1561年 長沼実国は蘆名盛氏に田島まで攻められて降伏し、以後は蘆名氏に従属したという。
1589年7月 伊達政宗と蘆名義広の決戦となった「摺上原の戦い」は蘆名軍の敗北に終わったが、長沼盛秀は元々伊達派であったため、真っ先に伊達政宗に臣従している。
1590年3月頃 長沼盛秀は城中にて急死したが死因は記録されていない。同年の河原田氏との戦いによる戦傷が原因とも考察されている。
1590年8月 豊臣秀吉の「奥州仕置き」により伊達政宗は会津を没収され、長沼氏も小田原に参陣していない上に伊達一派とみなされた為、南山の所領を没収されて没落した。なお、長沼氏の子息は後に仙台藩の藩士となった。
1590年 会津一帯は蒲生氏郷に与えられ、南山の鴫山城には蒲生氏家臣の小倉行春が城代として置かれた。城はこの時に改修されて石垣等が築かれたという。
1598年 蒲生氏は御家騒動により下野国に転封され、会津一帯は新たに上杉景勝に与えられることになった。そして、鴫山城には上杉氏家臣の大国実頼が城代として置かれた。
1600年 徳川家康の会津征伐に備えて上杉氏領内では軍備増強が実施され、この時に鴫山城も大改修されたという。
1601年 「関ヶ原の合戦」後、上杉景勝は会津の所領を没収されて米沢へと移り、会津には再び蒲生氏が入ることになった。そして、鴫山城にも再び小倉行春が城代として置かれることになった。
1627年 蒲生忠郷の急死によって蒲生氏は伊予国に移され、替わって会津には加藤嘉明が入った。この時、城は「一国一城令」に従い破却され、行政機能は新たに建てられた田島陣屋に移されている。

縄張り

城は田島の街の南に聳える愛宕山に築かれており、山頂には詰城の本丸があって、北側山腹にかけて曲輪が設けられている。詰城を基点に北東と北西の尾根に塁壁が伸びており、その間の麓に内城の本丸、二の丸等の近世の郭が設けられ、全体で馬蹄型の縄張りを形成している。

【大門跡の石垣と土塁と堀】
大門は武家屋敷があった外郭から城内の中心部へ入る箇所にある大手門で、蒲生氏・上杉氏時代に造られた城門の石垣が修復復元されている。門跡の前には喰違いになった堀と土塁が設けられており、堀は一部水堀のようにもなっているが、基本的に空掘である。

【御平庭】
御平庭は近世の城の中心部で、政務を取り仕切る役所などが置かれていた。現在はなだらかな斜面だが、井戸の跡が残っている。御平庭の西隣には近世の本丸とされる千畳敷の郭がある。

【愛宕神社(詰城本丸跡)】
愛宕山の山頂には愛宕神社が祀られており、中世にはここが詰めの城の本丸であった。狭い平場に神社の本殿が建っているため、まるで展望台のような状態になっており、ここからの景色は絶景だった。

【主水曲輪の石垣】
山の上層部中腹に主水曲輪があり、ここには崩れててはいるものの野面積みの石垣がよく残されていた。山の上層部は近世には利用されなかったため、長沼氏時代の特徴がよく残っているとされているが、この石垣だけは上杉氏の時代に会津征伐に備えて補強されたもののようだ。

【東外壁塁】
山の上の詰城から北東の麓付近の八幡神社まで伸びる長い土塁が築かれている。この土塁の外側には空堀が設けられており、部分的に比高二重土塁構造となっている。

【西外壁塁】
東同様に西側にも山の上から伸びる長い土塁が築かれており、こちらは土塁の線上に門跡や櫓台がある。ただ、東側と違って土塁の外側には空掘と言えるようなものは見当たらなかった。

【櫓台跡】
西外壁塁の線上にあるピークは櫓台跡と伝わっており、ここからの景色は視野は広くはなかったが、眼下に街が見えるなかなかの眺めだった。

【土門跡】
西外壁塁の線上で、櫓台と詰城の間の鞍部になった箇所には土門跡があり、外枡型の土塁がよく残されていた。この門跡から外に続く山道は踏み跡が途中で判らなくなっているが、恐らく丸山出城跡に続いていたと思われる。

【外郭外掘跡】
外郭外掘は西外壁塁の北端から東外壁塁の北端を繋ぐように造られていたとされているが、現在は西外壁塁の北端付近にしか明確な遺構は確認できず、他は民家などで埋もれている。なお、残っている堀の跡も崩した土塁の土で埋められたため、浅くなっている。

アクセス

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