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南北朝時代頃に長沼氏が愛宕山に築いた山城で、長沼氏代々の居城。蒲生・上杉氏が領主の頃に麓を中心に大改修され、江戸時代の初頭まで使用された。現在は山頂に愛宕神社がある山林だが、道などが整備されている。
年代 | 出来事 |
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1192年 | 長沼宗政が奥州合戦の戦功により南山の地頭となり、下向して鴫山城を築いたと伝わっているが、発掘調査等からは鎌倉時代の築城は否定されている。 |
南北朝時代頃 | 城址の発掘調査から南北朝時代頃に築かれたとされている。 |
1459年 | 山ノ内越中と白川氏(結城氏)に城を攻められて落城したという。その後、蘆名氏の援助で長沼氏は城を奪還した。 『塔寺八幡宮長帳』 |
1521年 | 蘆名盛舜が蘆名氏の当主となると長沼実国は蘆名氏と対立するようになり、峠を越えての小競り合いでは長沼氏が敗退し、その後の数度の戦いで鴫山城まで攻め落とされた。だが、蘆名軍は内訌が発生したために撤退し、長沼氏は失地を回復できたという。 |
1561年 | 長沼実国は蘆名盛氏に田島まで攻められて降伏し、以後は蘆名氏に従属したという。 |
1589年7月 | 伊達政宗と蘆名義広の決戦となった「摺上原の戦い」は蘆名軍の敗北に終わったが、長沼盛秀は元々伊達派であったため、真っ先に伊達政宗に臣従している。 |
1590年3月頃 | 長沼盛秀は城中にて急死したが死因は記録されていない。同年の河原田氏との戦いによる戦傷が原因とも考察されている。 |
1590年8月 | 豊臣秀吉の「奥州仕置き」により伊達政宗は会津を没収され、長沼氏も小田原に参陣していない上に伊達一派とみなされた為、南山の所領を没収されて没落した。なお、長沼氏の子息は後に仙台藩の藩士となった。 |
1590年 | 会津一帯は蒲生氏郷に与えられ、南山の鴫山城には蒲生氏家臣の小倉行春が城代として置かれた。城はこの時に改修されて石垣等が築かれたという。 |
1598年 | 蒲生氏は御家騒動により下野国に転封され、会津一帯は新たに上杉景勝に与えられることになった。そして、鴫山城には上杉氏家臣の大国実頼が城代として置かれた。 |
1600年 | 徳川家康の会津征伐に備えて上杉氏領内では軍備増強が実施され、この時に鴫山城も大改修されたという。 |
1601年 | 「関ヶ原の合戦」後、上杉景勝は会津の所領を没収されて米沢へと移り、会津には再び蒲生氏が入ることになった。そして、鴫山城にも再び小倉行春が城代として置かれることになった。 |
1627年 | 蒲生忠郷の急死によって蒲生氏は伊予国に移され、替わって会津には加藤嘉明が入った。この時、城は「一国一城令」に従い破却され、行政機能は新たに建てられた田島陣屋に移されている。 |
城は田島の街の南に聳える愛宕山に築かれており、山頂には詰城の本丸があって、北側山腹にかけて曲輪が設けられている。詰城を基点に北東と北西の尾根に塁壁が伸びており、その間の麓に内城の本丸、二の丸等の近世の郭が設けられ、全体で馬蹄型の縄張りを形成している。