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小田山城 おだやまじょう

別名
時代
南北朝時代~安土桃山時代
分類
中世山城
規模
標高:372m、比高:約130m
現状
公園・山林・墓地
場所
福島県会津若松市門田町大字黒岩
最終訪城日
2011年11月26日

蘆名氏が14世紀頃に築いた山城で蘆名氏代々の詰城。現在は公園として整備された山林となっており、墓地も多い。

城史

年代 出来事
1384年頃 蘆名直盛は小田垣館(小高木館)を築いて新たな居館とし、この頃に有事のための詰城として小田山城が築かれたとされている。
1561年 蘆名盛氏は岩崎山に向羽黒山城を築き、蘆名氏の詰城としての役目を小田山城から向羽黒山城に移したという。このため、小田山城はこの頃に事実上廃城となったとされる。
1600年2月 上杉景勝は黒川城に替わる新たな居城として盆地の中央に近い神指ヶ原に神指城の築城を開始するが、これは小田山城跡を敵に抑えられた時に黒川城は砲撃の良い的になってしまうことを懸念したのも影響しているという。
1868年 戊辰戦争における奥羽越列藩同盟軍(東軍)と新政府軍(西軍)の戦いは新政府軍の優位で進展し、10月には同盟軍の会津藩本拠地の若松も戦場となった。この時、小田山城跡を占領した新政府軍はここに大砲を設置し、若松城の天守閣を目印にして砲弾を撃ち込んだという。

縄張り

城は湯川左岸の小田山に築かれており、山頂は物見台で、頂上よりやや西側に主郭と目されるやや大きな郭があり、主に西側中腹に腰郭が何段も展開している。現在は墓所や公園となっており、山道が整備されているため簡単に登れる。

【郭跡】
小田山の頂上よりも西側には比較的広い郭跡があり、今は田中玄宰や丹羽能教の墓所となっている。いずれも会津藩の名家老として名を馳せた人物だが、市内を一望できる場所にこれだけの敷地を使ってデカイ墓を立てるというのは少しやり過ぎな気もする。

【模擬城門】
山の中腹には模擬の城門が設置されており、城の説明板もここにある。城門というよりはオブジェに近いもので、裏側は見ないほうがいいかもしれない。

【物見台】
田中玄宰の墓所から奥に尾根伝いに進むと最も高い山頂に物見台跡がある。ここからは市街地の東側や磐梯山が良く見えてなかなかの絶景である。

【西軍砲台陣地跡から若松城を望む】
山の中腹北西部には戊辰戦争の時に西軍(官軍)がアームストロング砲を設置した陣地の跡がある。ここからは若松城が良く見え、「天守閣を目印に砲弾を撃ち込んだ」というのも納得できる景色が見られた。

【堀切】
物見台からさらに奥の青木山に向かって尾根伝いに進むとやがて堀切が見られる。

アクセス

注意

【熊出没注意】
小田山の登り口に『熊出没注意』の張り紙があり。この年に熊が出たことも書かれていた。(2011年11月26日現場確認)

関連リンク情報