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小谷山城 おだにやまじょう

別名
檜原城
時代
安土桃山時代
分類
中世山城
規模
標高:954m、比高:約120m
現状
山林
場所
福島県耶麻郡北塩原村桧原
最終訪城日
2012年10月27日

伊達政宗が築いた山城で、檜原制圧後の拠点となった。現在は山林だがハイキングコースが整備されている。

城史

年代 出来事
1585年 蘆名氏家臣の穴沢氏を攻め滅ぼして檜原を制圧した伊達政宗は、小谷山に新たに城を築いて檜原を押さえるための拠点とした。 『檜原軍物語』
1585年5月12日 城はまだ築城途中だったが、伊達政宗は蘆名氏家臣の関柴備中を調略して会津盆地に向けて侵攻した。だが、関柴氏との連絡にミスがあって作戦は上手く行かず、政宗は檜原に撤退している。 『檜原軍物語』
1585年6月14日 穴沢善七郎は檜原に侵入し、馬場(檜原城外構の内部?)で馬上にあった伊達政宗を暗殺しようとしたが上手くいかず、結局矢文を撃って引き揚げている。 『檜原軍物語』
1585年 伊達政宗は米沢へと引き揚げ、城には城番として後藤孫兵衛(後藤信康)が置かれた。 『檜原軍物語』
1589年 「摺上原の戦い」で蘆名軍を打ち破った伊達政宗は、会津の大部分を制圧し、これによって境目の城であった檜原城も役目を終えることに成った。城代であった後藤信康は北方城へと転任している。
1888年7月15日 磐梯山が噴火して山体崩壊し、土石流で猪苗代と檜原との間の谷が埋め尽くされた。これによって河川が塞き止められたため、数日で檜原は水没し、桧原湖が誕生した。この時、小谷山城外構跡も低い部分が水没してしまった。

縄張り

城は桧原湖の北東にある小谷山に築かれており、山の上の詰城と山麓の外構から構成されていたが、外構の一部は桧原湖に水没している。詰城は堀切で分断された連郭式の縄張りで、斜面には横堀が設けられている。

【枡型虎口】
この城の一番の特徴で、一言では言い表せない複雑な形をしている。基本的に道は何度も直角に折り曲げられており、土塁に囲まれた道を曲がると堀によって狭められた道を曲がらされ、今度は堀底のような道を曲がらされてやっと二の丸に辿り着くという構造になっている。

【堀切】
本丸と二の丸の間は堀切で分断され、枡型虎口から南側にかけては2重に渡って堀切が設けられており、これによって全体的に連郭式の縄張りを形成している。

【主郭跡】
主郭のある場所は城の北端で最も高い場所だが、木々が茂っているため展望は悪い。主郭には土塁が残っており、南東部に虎口が設けられていた。恐らくここから二の丸に向けて橋が設けられていたと思われる。ちなみに面積は二の丸の方が広い。

【横堀】
山の上層部の斜面には横堀が設けられており、枡型虎口南側の堀切と繋がってほぼぐるりと山腹を一周している。

関連施設

【桧原歴史館】
米沢街道桧原宿の戦国期から水没までの歴史と民俗を展示。食堂併設。
<開館時間>9時~17時
<休館日>火曜日
<入館料>100円
<駐車場>無料
<場所>福島県耶麻郡北塩原村大字桧原字芋畑沢1034-19

アクセス

関連リンク情報