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伊達政宗が築いた山城で、檜原制圧後の拠点となった。現在は山林だがハイキングコースが整備されている。
年代 | 出来事 |
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1585年 | 蘆名氏家臣の穴沢氏を攻め滅ぼして檜原を制圧した伊達政宗は、小谷山に新たに城を築いて檜原を押さえるための拠点とした。 『檜原軍物語』 |
1585年5月12日 | 城はまだ築城途中だったが、伊達政宗は蘆名氏家臣の関柴備中を調略して会津盆地に向けて侵攻した。だが、関柴氏との連絡にミスがあって作戦は上手く行かず、政宗は檜原に撤退している。 『檜原軍物語』 |
1585年6月14日 | 穴沢善七郎は檜原に侵入し、馬場(檜原城外構の内部?)で馬上にあった伊達政宗を暗殺しようとしたが上手くいかず、結局矢文を撃って引き揚げている。 『檜原軍物語』 |
1585年 | 伊達政宗は米沢へと引き揚げ、城には城番として後藤孫兵衛(後藤信康)が置かれた。 『檜原軍物語』 |
1589年 | 「摺上原の戦い」で蘆名軍を打ち破った伊達政宗は、会津の大部分を制圧し、これによって境目の城であった檜原城も役目を終えることに成った。城代であった後藤信康は北方城へと転任している。 |
1888年7月15日 | 磐梯山が噴火して山体崩壊し、土石流で猪苗代と檜原との間の谷が埋め尽くされた。これによって河川が塞き止められたため、数日で檜原は水没し、桧原湖が誕生した。この時、小谷山城外構跡も低い部分が水没してしまった。 |
城は桧原湖の北東にある小谷山に築かれており、山の上の詰城と山麓の外構から構成されていたが、外構の一部は桧原湖に水没している。詰城は堀切で分断された連郭式の縄張りで、斜面には横堀が設けられている。