奥羽古城散策
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長沼城 ながぬまじょう

別名
千代城、牛臥城、丑ケ城
時代
南北朝時代~江戸時代初頭
分類
中世平山城
規模
面積:東西300m×南北200m、標高:367m、比高:約40m
現状
市指定史跡/長沼公園・雑木林・宅地
場所
福島県須賀川市長沼字日高見山
最終訪城日
2013年4月14日

築城に関しては諸説あって定かではない、16世紀に蘆名氏と二階堂氏がこの城を巡って争っている。後に上杉氏によって改修され、徳川家康を迎撃するための本陣が置かれた。現在は丘の上が城址公園と雑木林、丘の下は学校と宅地と畑になる。

城史

年代 出来事
1260年頃 長沼隆時が城を築いて長沼古舘(北古館)より居城を移した言い伝えがある。
南北朝時代 長沼晴忠が城主の時、白河の結城氏の攻撃を受けて落城したという。ただ、帯郭にある『化け石』の伝説では石が兵に化けて戦い、守りきったことになっている。
14世紀頃 下野国の長沼宗秀が陸奥国岩瀬へと移り住んで長沼城を居城としたという。 『下野国誌』
15世紀頃 長沼宗秀の5代後の長沼憲秀は岩瀬の長沼から会津の田島へと移り住んだ。 『下野国誌』
1541年 蘆名盛舜が隠居城として長沼城を築いたとされるが、1553年の完成とともに盛舜が死去したため、普請を担当した富田右馬允と桑名掃部がそのまま城代に命じられている。
1547年8月 蘆名盛高は会津から岩瀬郡に侵攻し、長沼にて二階堂盛義と戦っている。
1565年 蘆名盛氏は会津から岩瀬郡に侵攻して二階堂家臣の須田氏が守る長沼城を攻撃したが、城を落とせずに帰還している。
1566年 二階堂盛義は蘆名盛氏に降伏し、岩瀬郡の長沼を蘆名氏へ割譲した。以後、長沼城には蘆名家臣の新国貞通が城代として置かれた。
1576年 長沼城は佐竹義重と田村清顕の連合軍に包囲されたため、蘆名盛氏は伊達輝宗に援軍を要請している。
1589年 蘆名氏が伊達政宗によって滅ぼされると、新国氏は伊達政宗に降伏したため、長沼は伊達領となった。
1590年 奥州仕置きの為に会津へ向かう途中の豊臣秀吉が長沼城に立ち寄り、城主の新国貞通より接待を受けて当初は所領安堵の予定だったが、貞通の訛りが酷かったのか不機嫌になり所領没収となったという。 『関東古戦録』
1590年 奥州仕置きにより伊達政宗は会津を失い、会津には蒲生氏郷が新たに入った。この時、岩瀬郡もまた蒲生領となり、蒲生郷安が城代として長沼城に入った。後に郷安から郷貞に交代となる。
1598年 蒲生氏郷の死後、蒲生秀行が宇都宮に転封されると会津には上杉景勝が入り、長沼城には上杉家臣の島津月下斉(忠直)が城代として置かれた。
1600年 上杉景勝は徳川家康を白河付近にて迎撃するために長沼城を整備し、7月には徳川先陣が大田原へと着いたとの報告を受けて本陣をこの城に移した。しかし、下野国まで来ていた家康は7月24日に石田三成と戦うために上方に引き返したため合戦は実現しなかった。 『北越軍記』
1601年 上杉景勝は会津と仙道の諸郡を没収され、会津には再び蒲生秀行が移されることになった。この時、長沼城には蒲生家臣の玉井数馬が城代として置かれた。
1615年 一国一城令により城は破却された。

縄張り

城は江花川と簀ノ子川に挟まれた山地の東端にある日高見山に築かれており、唯一山続きの西側は堀切で切って縄張りを形成している。山の最も高い場所に本丸を置き、西の1段低い場所に二の丸、南北の2段低い場所に腰郭、東の3段低い場所に三の丸を設けており、山の麓の南北と東に水堀で区画された外郭を展開している。

【本丸跡(日高見稲荷神社)】
山頂の本丸は今は稲荷神社の境内になっており、梅の木が植えられて東屋が東側の隅に設置されている。当時は石垣で囲われており、今も本丸周囲の土塁の中に石垣の残骸を見ることが出来る。

【本丸西門跡】
稲荷神社の社殿の裏には当時は本丸大手口に相当する西門があったが、今は門跡が埋められて周囲も石垣の残骸と共に土塁の一部にされている。

【本丸東門跡】
東門跡は西側と違い完全に石垣が撤去されて門跡の面影すら無くなっているが、発掘調査によると画像の箇所から石垣と門の跡が出土している。

【二の丸跡】
二の丸跡は土塁が残っているが全体は雑木林となっている。本丸と二の丸の間は埋められて塞がっているため、南帯郭からしか入る道が無い。なお、二の丸よりも西側は完全に藪と雑木林で、「散策マップ」では立ち入り禁止となっている。

【東三の丸跡】
本丸、南帯郭と共に公園化されている郭で、公園入口(当時の坂下口、搦手口)から登ってきて最初に入る大きな郭が東三の丸となっている。余談だが、北側に貯水施設を隠すために不自然に植えられた木々がある。

【惣堀跡】
山の麓の外郭の周囲には水堀が張り巡らされており、東側の一部は三重堀にもなっていた。これらは上杉氏が改修した時に増設されたものと伝わる。ただ、窪地や畑になって堀跡は残されているが、今も水を湛えている箇所は見当たらなかった。

アクセス

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