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築城に関しては諸説あって定かではない、16世紀に蘆名氏と二階堂氏がこの城を巡って争っている。後に上杉氏によって改修され、徳川家康を迎撃するための本陣が置かれた。現在は丘の上が城址公園と雑木林、丘の下は学校と宅地と畑になる。
年代 | 出来事 |
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1260年頃 | 長沼隆時が城を築いて長沼古舘(北古館)より居城を移した言い伝えがある。 |
南北朝時代 | 長沼晴忠が城主の時、白河の結城氏の攻撃を受けて落城したという。ただ、帯郭にある『化け石』の伝説では石が兵に化けて戦い、守りきったことになっている。 |
14世紀頃 | 下野国の長沼宗秀が陸奥国岩瀬へと移り住んで長沼城を居城としたという。 『下野国誌』 |
15世紀頃 | 長沼宗秀の5代後の長沼憲秀は岩瀬の長沼から会津の田島へと移り住んだ。 『下野国誌』 |
1541年 | 蘆名盛舜が隠居城として長沼城を築いたとされるが、1553年の完成とともに盛舜が死去したため、普請を担当した富田右馬允と桑名掃部がそのまま城代に命じられている。 |
1547年8月 | 蘆名盛高は会津から岩瀬郡に侵攻し、長沼にて二階堂盛義と戦っている。 |
1565年 | 蘆名盛氏は会津から岩瀬郡に侵攻して二階堂家臣の須田氏が守る長沼城を攻撃したが、城を落とせずに帰還している。 |
1566年 | 二階堂盛義は蘆名盛氏に降伏し、岩瀬郡の長沼を蘆名氏へ割譲した。以後、長沼城には蘆名家臣の新国貞通が城代として置かれた。 |
1576年 | 長沼城は佐竹義重と田村清顕の連合軍に包囲されたため、蘆名盛氏は伊達輝宗に援軍を要請している。 |
1589年 | 蘆名氏が伊達政宗によって滅ぼされると、新国氏は伊達政宗に降伏したため、長沼は伊達領となった。 |
1590年 | 奥州仕置きの為に会津へ向かう途中の豊臣秀吉が長沼城に立ち寄り、城主の新国貞通より接待を受けて当初は所領安堵の予定だったが、貞通の訛りが酷かったのか不機嫌になり所領没収となったという。 『関東古戦録』 |
1590年 | 奥州仕置きにより伊達政宗は会津を失い、会津には蒲生氏郷が新たに入った。この時、岩瀬郡もまた蒲生領となり、蒲生郷安が城代として長沼城に入った。後に郷安から郷貞に交代となる。 |
1598年 | 蒲生氏郷の死後、蒲生秀行が宇都宮に転封されると会津には上杉景勝が入り、長沼城には上杉家臣の島津月下斉(忠直)が城代として置かれた。 |
1600年 | 上杉景勝は徳川家康を白河付近にて迎撃するために長沼城を整備し、7月には徳川先陣が大田原へと着いたとの報告を受けて本陣をこの城に移した。しかし、下野国まで来ていた家康は7月24日に石田三成と戦うために上方に引き返したため合戦は実現しなかった。 『北越軍記』 |
1601年 | 上杉景勝は会津と仙道の諸郡を没収され、会津には再び蒲生秀行が移されることになった。この時、長沼城には蒲生家臣の玉井数馬が城代として置かれた。 |
1615年 | 一国一城令により城は破却された。 |
城は江花川と簀ノ子川に挟まれた山地の東端にある日高見山に築かれており、唯一山続きの西側は堀切で切って縄張りを形成している。山の最も高い場所に本丸を置き、西の1段低い場所に二の丸、南北の2段低い場所に腰郭、東の3段低い場所に三の丸を設けており、山の麓の南北と東に水堀で区画された外郭を展開している。