尚長(なおなが)宝暦元年(1751年)〜文化11年(1814年)


 幼名は團示、後に尚長、字は玄長、そして父尚貞の没後に玄知と改めた。享和3年

江戸へ出たが、その頃江戸では麻疹が大流行しており多数の死者が出ていた。他

の医者が患者を隔離し厳重な食事療法を行っていたのに対し、尚長は病室を開放し

寒温は患者の意に従い、禁忌を作らなかった。これで数百人を治療して一人も死者

を出さなかったので、美談として伝えられたという。杵築に帰り、文化元年から侍医と

なるが、同年秋から脳卒中にて右半身不随となる。文化8年に 侍医を退いたが、そ

の後も公君のための調薬を命じられていた。活け花、造園に長けていたという。64歳

で没した。

 

 

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