学(まなぶ)明治25年(1892年)〜昭和28年(1953年)

 雋達の四男として杵築で生まれた。少年時代から文学、歴史に親しんだ。中学 5年の時、待遇改善のストライキ発起人となり、校長に弾劾文を起草して退学となる。東京麻布中学5年に転入学し、東大法学部政治学科を卒業した。在学中から 労働運動に関与し、大正8年東大新人会の創立に参画、日本鉱夫組合を創立し たほか、特殊部落民の解放に論陣を張り、大正11年の水平社創立に貢献した。大正8年から年まで満鉄東亜経済調査局に勤務。次で早大講師となり経済史及び経済学を担当し、社会主義研究ほか、特に近世日本社会史、経済史の研究に先鞭をつけた。

 大正11年7月、日本共産党の創立に際して中央委員となり、翌12年6月、第一次 共産党事件に連坐して検挙前にモスクワへ亡命した。大正14年から第二次共産 党の再建に活躍し、大正15年3月から年末まで、第一次入獄。昭和2年末から日本共産党中央委員長を務めた。昭和3年再びロシアに渡り、 夏より国際共産党本部常任執行委員となる。昭和5年上海にて検挙され、昭和 18年10月まで前後14年在獄した。その間、昭和8年日本社会運動の独立を叫ん でモスクワとの絶縁を表明した「転向声明書」を発表してセンセーションを捲き起こ した。以後共産主義に対する批判を進め、更に東洋と日本の研究に力を注ぎ、東洋的日本的個性をもつ東洋的社会主義の建設に独自の境地を開いた。第二次大戦後、昭和21年労農前衛党を結成し、委員長となる。昭和22年夏からは党を解散し、直接の政治運動から引退して日本政治経済研究所を創立した。 そのかたわら、懇望されて早稲田大学教授となる。昭和28年3月9日、肝臓病にて63才で死去。

 

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