緒方洪庵 おがたこうあん 1810〜63 

佐野家との縁:雋達(1841-1913)が蘭学と西洋医学を学んだ。

 

  江戸後期の蘭学者・蘭方医。名は章、通称は三平といい、洪庵・適々斎・華陰と号した。備中国足守(あしもり)藩士の子に生まれる。父とともに大坂にでて医学の道をこころざし蘭方医の中天游(なかてんゆう)にまなぶ。31年(天保2)には江戸の坪井信道に師事、宇田川玄真にもまなんだ。

  1836年長崎に遊学、38年大坂にもどると瓦町に蘭学塾「適々斎塾(適塾)」をひらき、医業のかたわら門人に蘭学をおしえた。塾はのち船場過書(せんばかいしょ)町にうつるが、全国から入塾者があり、大村益次郎・佐野常民・橋本左内・大鳥圭介・福沢諭吉らの優秀な人材を輩出した。

  除痘館(じょとうかん)をもうけて種痘の普及に尽力したり、1858年(安政5)にコレラが流行するとコレラに関する医学書を刊行するなどの実績ものこしている。62年(文久2)幕府の要請をうけて奥医師兼西洋医学所頭取に就任した。適塾は現在、国の史跡に指定されている。

Microsoft(R) Encarta(R) Reference Library 2003. (C) 1993-2002 Microsoft Corporation. All rights reserved.

偉人達へ戻る