山王さんのう山王さんのう山王

いいもんですね。昔をたどることは、未来をたどることと同じ時間の旅です。
そしてそこには確かな人の営みやいぶきがあったんですね。

それでは山王の街をご案内します。

「山王」の起源  ・大森山王の歴史と由緒について  ・大森貝塚   ・ 荒藺ヶ崎   ・ 八景坂

歴史と統治   ・ 義民6人衆 ・ 馬込文士村山王区域の神社 ・山王遺跡    ・山王散歩    


               これが私たちのまち山王です

「山王」の起源

 私たちの山王はもとは新井宿という村の一小字で、その地名の起源は、現在 の山王1丁目にある日枝神社の旧称である山王権現の山王が地名となったもので す。(約300年前)

 ちなみに「山王」と名の付くところは多く、関東付近でも17カ所ぐらいあ るそうです。(山王小学校・故宇田川校長先生のお話)


 また池上通りはもと平間街道といい古の東海道の本道であり、奥州街道とも 相州鎌倉街道(鎌倉古道)とも呼ばれた時代がありましたが、江戸時代に徳川家 康が海沿いの街道を整備してからは脇道となり「池上街道」となりました。

自治会のしおりより

大森山王の歴史と由緒について

 山王に住むことに価値を感じ、自分たちの住んでいる土地に愛着をもつことは素晴らしいことです。そのために、この土地のことを簡単ご紹介します。そして皆さんがもっと詳しく知ることができたら、きっとますます好きになります。これから一緒にその文化を共有していきましょう。なお、編集にあたり郷土資料館および大田区図書館にある各種の資料を参考にしました。

大森山王悠久の歴史は大森貝塚から始まります。1877年モースによる貝塚の発見から、この付近はかなり古くから人類の営みがあったことがわかりました。また大田区では久が原遺跡に次いで有名なのが、この付近の山王遺跡で弥生中期の遺跡や遺構が数多く発見されています。北は日枝神社から南は熊野神社付近までの緩やかな台地が全体の遺跡とみられており、いくつかの分類がありますがそのひとつに大森望翠楼ホテル址弥生式遺跡があります。平成10年にも山王二丁目から山王遺跡にかかる遺跡が発見されています。

 

 

 

 

 

 

山王を含めた大井郷は、延暦三年(784年)中納言豊人が武蔵守として下向して、この地に移住した折、その長臣であった某が守護職に任じた、すなわち姓を大井氏と唱え代々世襲して435年間この職にありました。

鎌倉時代の承久年間(1220年)大井氏一族が伊勢の国に移り、次いで源頼朝の代に梶原家がこの地の地頭職として移ってきました。初代地頭職は宇治川先陣争いで有名な梶原景季の子、梶原景望で荏原、豊島、多摩の三郡を領地として大井郷に居館を構え統治しました4代目基景までは大井村に居館を持っていましたが、5代目経祐の代に菩提寺の万福寺(現南大井5丁目)が全焼したため以降の居館は馬込に移しました。鎌倉時代に書かれた古い記録のなかに「大森」の地名が見られます。このあたりをそう呼ぶようになったのはこの頃からのようです。室町時代には北条早雲に小田原城から追われた「大森氏」が今の山王あたりまで逃げてきました。その一族がこの地を開拓してのち、農村地帯として発展していきました。

 大永4152411代梶原信景のとき、応仁の乱で敗れたため北条家の家臣となって領地が減り、以降は12代梶原助五郎の代は馬込村を領し、その弟、梶原日向守が荏原六郷のうち新井宿村(大井郷新井宿村)を領しました。新井宿とはもとは荒藺宿と書かれ古くより名勝地荒藺ヶ崎で駅馬の置かれた宿場という意味があります。

 天正181590年豊臣秀吉は小田原北条家を攻めこの遺領を徳川家康に与えました。家康は関東下向の節、遠州山名木原村の木工作事の旗本木原七郎衛兵吉次にこの新井宿の地頭職を命じました。以後300年木原家がこの新井宿を治めてきました。木原吉次は代々大工の棟梁にて家康に仕えるに在名を鈴木から木原に改め普請方を勤めました。家光の日光山御創立のときも御作事奉行となりました。また木原家の屋敷は、今の暗闇坂から熊野神社の裏手までの高台で木原山と呼ばれ、この付近は、将軍の鷹狩など狩場ともなっていました。

延宝元年(1673)徳川四代将軍家綱のころ、このあたりは干ばつにみまわれました。翌年には多摩川が氾濫して田畑は水をかぶってしまいました。この地域いったいは大飢饉となり農民たちの暮らしはとても苦しくなってきました。この苦しみを何とかしようと立ち上がったのが6人の村役人です。延宝51226日夜半に将軍に直訴する計画で熊野神社に集合した6人は江戸に発ったのですが、これが捕らえられ処刑されました。いまも善慶寺の境内には、村人が父母の墓という名目で建てた墓石に墓参すると、義民六人衆を同時に供養できる工夫がされています。都指定文化財

 木原家の菩提寺である桃雲寺は江戸末期廃寺となり馬込の万福寺に引き継がれ、その境内にあった薬師様のみが現在の山王三丁目に「木原氏先榮の碑」とともに保存されています。その隣には天保3年(1832年)に、富士講の中興の祖といわれる食行身禄の没後百年を記念した碑が建っています。正面に富士山の尊称である「仙元大菩薩」、その下方に行衣を着た猿などが刻まれています。

なお当時の新井宿村は現在の山王3、4丁目から中央1~4丁目にかけての一帯で村高は458石、戸数は117ほどの村でした。

また池上通りはもと平間街道といい古の東海道の本道であり、奥州街道とも相州鎌倉街道(鎌倉古道)とも呼ばれた時代がありましたが、江戸時代に徳川家康が海沿いの街道を整備してからは脇道となり「池上街道」と呼ばれていました

明治から大正

明治7年の新井宿村は戸数145、人口800人、隣の大井村とは比較にならない小さな村でしたが、明治から大正に世はめまぐるしく変化していきました。大正14年人口千人同士の新井宿村と不入斗村が合併し入新井村となりました。

日本最初の鉄道は明治5年に開通した新橋横浜間ですが、この鉄道は当時民家の少ない山王台地の裾野を通っていました。明治95番目の駅として大森駅が開設すると、明治17年天祖神社付近の高台に八景園と呼ばれる遊園地が造られ、矢口の梅園、蒲田の菖蒲園とともに郊外有数の行楽地となりました。ちなみに平安朝に詩に詠まれた八景とは笠島夜雨、鮫洲晴風、大森暮雪、羽田帰帆、六郷夕照、大井落雁、袖浦秋月、池上晩鐘です。明治22年には本郷向ヶ丘から射的場が大森に移され、民間の射撃場として昭和12年まで運営されていました。大正2年西口改札所ができ、町はますます発展し望翠楼ホテル・大森ホテル(現在の山王公園:明治から昭和初期まで営業、内外要人でにぎわったホテル)などもできました。大正13年には八景園のあとが住宅地として売り出され文化的建築を誇る別荘地になっていきました。

徳富蘇峰が移り住んだ翌年の大正14年、入新井第三尋常小学校(現山王小学校)ができ、このころより昭和のはじめまで馬込や山王に多くの小説家や詩人が住むようになりました。いつしか馬込文士村と呼ばれるようになりました。当時はまた田園風景が広がる住宅地で自然林や畑も多く、尾崎士郎や室生犀星を中心に天祖神社の階段にあるレリーフにある多くの文化人が集まっていました。

絵地図写真,明治9年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ここで町名の話。私たち山王三・四丁目自治会の区域は江戸時代から明治22年まで六郷領新井宿村でしたが、明治22年に町村制がひかれ不入斗村と合併し入新井村となり、この周辺は入新井村大字新井宿字根岸14231571および字木原山15721763でした。大正8年の町制により入新井村は入新井町となりました。

昭和7年東京市として大森区が発足し、字根岸と字木原山は大森区新井宿二丁目となりました。昭和22年3月15日に当時の「大森区」と「蒲田区」が合併して「大田区」が誕生し大田区新井宿二丁目となりました。昭和40年4月1日の住居表示実施に伴い、山王二丁目・三丁目・四丁目となり現在に至ります。ちなみに山王という地名は延宝年間(300年前)日枝神社の山王権現の山王の名を地名に入れて新井宿山王村という過去帳の記録がもっとも古いもののようです。

山王三・四丁目自治会は旧新井宿西二丁目から再編して、昭和18年(1943年)5月18日、山王三・四丁目自治会として発足しました。

薬師堂のこと

 もとは木原吉次が拝領したときにあった陣屋敷に古ぼけた薬師堂があり、それが鎌倉にあった医福山滝泉寺であると伝えられている。吉次はこれを中興し、その死後寛永3年木原家の菩提寺としてその法名をとり桃雲寺と改称されました。明治3年火災により桃雲寺が消失して薬師堂のみが残り、そ10年後の明治13年廃寺となった桃雲寺から薬師様を現在の地に移して王山薬師堂として維持しておりましたが、昭和205月の戦災でこの薬師堂は消失しました。

昭和27年、当時の記録に詳細に記録されているように薬師堂世話人一同の献身的な努力により、近隣の人たちが合計約70坪の土地を寄進し、また更に建築のための費用を非常に多くの方からの寄付で再建されました。これらの土地と薬師堂は引き続き桃雲寺を引き継いだ万福寺に受け継がれており、現在は自治会会館として借り受けて自治会が管理しています。また薬師堂には二つの石碑が並んでいます。桃雲寺再興記念碑と富士講碑でともに大田区の指定文化財となっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

弁天池と島神社、花清水公園

大森駅から馬込に暗闇坂と並行にもう一本南の道をたどると、弁天池があります。池の回りは児童公園になっていますが、池の中央には「小野小町の宮」厳島(いくつしま)神社の祠があります。かつて付近の田畑に豊富にわき水がいきわたるように水の神である弁財天を祀ったと思われます。厳島の由来はご祭神が市杵島姫(いちきしま)の女神(ひめみこ)で、その後小町弁天と呼ばれたそうですが創建は不明です。この弁天池の厳島神社は総代会とともに地域の皆さんが町会の枠を超えて維持管理のために奉賛会を組織しており、毎年春には祭礼が行われています。

防災協力隊の倉庫の奥の方には、花清水公園があります。ここにも祠があって、御神水、弁天池源泉とかかれています。現在飲料には適していません。この場所はかつて鶴田氏の敷地でしたが区に寄贈されてから公園として整備され、現在では花清水公園を愛する有志の皆さんで維持管理がなされています。

公園にはミツマタ、ザクロ、イヌマキ、ミツバツツジ、クラマゴケ、タマイブキ、ベルガモット、ローズマリー、アジュガ、ロウバイ、花ショウブ、セキショウ、アセビ、ブルーナルビラ、ヤブコウジ、ウグイスカズラ、アジサイ、ミヤギノハギなど、野草を含めて百種近く植えられています。

春は京都から移植された緋桜や染井吉野、枝垂桜、梅、桃、草花などで百花繚乱と咲き乱れます。園内の池では子どもたちがザリガニ取りに夢中になって挑戦しています。また湧水もあり弁天池の源泉となっていますが残念ながらこんこんと湧く状態ではありません。花清水公園は東洋と西洋の融合である文化庭園で区内ではめずらしく、休憩所はガゼボ(西洋式のあずまや)を置き高台にはベンチとテーブルがあります。


熊野神社

鎌倉時代の征夷大将軍源頼朝の御家人梶原景時が新井宿を拝領した後、葦の田んぼだった土地を開墾のために紀州から招かれた四氏(橋爪、富田、鈴木、長田)が当地に故郷の熊野権現のお社を祀ったところから始まったといわれています。その後相模街道の要衝、荒藺崎にあって新井宿村の総社として尊崇されてきました。紀州の熊野三山、すなわち本宮、速玉、那智の三社の御分祀であり、国の祖神・(伊弉册命)いざなぎのみこと、武の神・速玉雄命(はやたまのみこと)、殖産興業の守り神・事解雄命(ことさかのみこと)をお祀りしています。

熊野神社の社伝によると現在の鉄筋コンクリート造の本殿の奥に安置してある木造の本殿は、元和年間161524年に江戸幕府の初代の大工頭・木原吉次が日光東照宮の総指揮を勤め上げた際、その余り木を払いうけて屋敷内に建てたものと伝えられています。大田区内の神社建築では最も古く、また境内東口の鳥居は寛政8年建立と記され、区内で2番目に古いものです。その他境内には石段、手水石、庚申塔、狐碑、力石、狛犬などいずれも古い歴史を伝える記念物が数多く残されています。定例の諸行事には除夜祭、歳旦祭、節分祭、水無月と師走の大祓、例大祭、七五三詣でがあり、なかでも節分祭と例大祭ではお子様のお楽しみのお祭り広場が設けれられます。また元旦の午前零時からお詣りの方には仲睦会のご奉仕による歳餅や御神酒の授与とお汁粉の振る舞いが行われています。



大森貝塚

大森貝塚遺跡庭園 品川区大井6-21
1872年明治5年5月新橋と横浜の間に鉄道がひかれました。明治10年山王の台地の すそ野を堀削った所から、アメリカ人の動物学者モースがたまたま発見されたの が、日本考古学発祥の地「大森貝塚」です。
3000年前の遺跡といわれています。

近くにもう一つの貝塚「大森貝虚」の碑があります。
NTTショールーム脇を降りた線路際 山王1-3

Digital Museum 2000
http://www.um,u-tokyo.ac.jp/

大森貝塚公園と現存する遺構

名勝荒藺ヶ崎(あらいがさき)

 「草陰の荒藺の崎の笠島を見つつや君が山路越ゆらむ」
 大森駅周辺の高台がその昔荒藺ヶ崎といわれ、その直ぐ下までが海で名にし おう名勝地だったのです。770年頃の律令「延喜式」で、この山王の地区は大 井郷の大井駅(新井宿)がありました。


八景坂

天祖神社の前を通る池上通りの坂は、昔は雨が降ると土が削れて薬研のようであることから「薬研坂」と 呼ばれ、これがなまり「はけい坂」「はっけ坂」となりました。別名八景坂 (旧称 薬研坂)
またこの坂上か らの8つの勝景がすばらしくこれを近江八景になぞらえ大森八景としました。
 この八景を刻んだ「八景碑」が、大森駅前の天祖神社の境内に現存していま す。江戸時代の文化13年、この地の名主大野貫蔵が建立したものです。
 この八景とは「笹島(鈴ヶ森付近)夜雨」、「鮫洲晴嵐」、「大森暮雪」、 「羽田帰帆」、「六郷夕照」、「大井落雁」、「袖浦秋月」、「池上晩鐘」です 。なんとかつての情景が偲ばれる気がします。


闇(くらやみ)坂

闇坂 

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歴史と統治

 延暦3年(784年)中納言豊人が武蔵守として下向した節、その長臣が改 姓して大井氏と唱え、山王を含めた大井郷を435年にわたり世襲守護職として 任じました。
 承久年間(1220年)源頼朝の代、梶原景望を初代として、梶原家が荏原 、豊島、多摩の三郡の地頭職をこの大井郷に居館を構え統治しました。(6代目 以降の居館は馬込)
 応仁の乱以降、戦いに敗れ領地が減り、12代梶原助五郎の弟梶原日向守が 荏原六郷のうち新井宿(大井郷新井宿村)を領しました。
 天正一八年 豊臣秀吉は小田原北条家を攻めこの遺領を徳川家康に与えまし た。家康は関東下向の節、遠州山名木原村の木工作事の旗本木原七郎衛兵吉次に この新井宿の地頭職を命じました。以後300年木原家がこの新井宿を治めてき ました。木原吉次は代々大工の棟梁にて家康に仕えるに在名を鈴木から木原に改 め、普請方勤めました。家光の日光山御創立のときも御作事奉行となりました。
 また木原家の屋敷は、今の暗闇坂から熊野神社の裏手までの高台で木原山と 呼ばれ、この付近は、将軍の鷹狩など狩場ともなっていました。
 木原家の菩提寺である桃雲寺は江戸末期廃寺となり馬込の万福寺に引き継が れ、その境内にあった薬師様のみが現在の山王三丁目に「木原氏先榮の碑」とと もに保存されています。
 明治から大正に世はめまぐるしく変化していきました。大正14年人口千人 同士の新井宿村と不入斗村が合併し入新井村となりました。

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義民6人衆


義民六人衆の墓(山王3丁目善慶寺)
    -東京都指定旧跡-  新井宿義民六人衆について  
大森駅を降りて池上通りを環七通り交差点に向かうと、大森郵便局の前に大きな常夜灯が一際目立ってたっています。その奥に、今から七百五年前、正応五年(に建立された日蓮宗善慶寺があります。この常夜灯は義民六人衆にまつわる灯で、今から三百二十年前に遡ります。
 現在の山王の地は、その昔武蔵国荏原郡新井宿村と呼ばれ、徳川時代に不正な検地による無理な年貢取り立てが行われていました。悪いことに延宝元年の早魅、翌年の六郷川氾濫、翌三年は飢饉となり、江戸では救助米が施行された程でした。村での年貢に追い立てられる窮状は言語に絶するもので、子女は奉公に出して日減らしをし、高い金利の金を地頭から借りてまで年貢を納めなければならず、その借金が返済できずに田地を取り上げられたり、家や馬を手放す者もいたのです。
こうした暴政に耐えかねた村人の代表六人は死を覚悟し、徳川4代将軍家綱老中へ駕籠訴えをするか、奉行所の自州へ駆け込み願をする他なしと、義挙の行動を起こすことになりました。そこで延宝四年十二月に江戸表に赴き、浅草烏喰町の武蔵屋に泊り、訴訟の機かがったのです。しかし役人に密告する者があり、六人はあと一息のところで正月二日宿に乗り込んできた役人に捕えられ、ついに延宝五年一月十一日、むごい斬首に処せられたのです。  村に帰った六人の遣骸は、直訴の罪を犯した大罪人として葬儀や法事、墓を立てることも許されず、家は断絶、財産は没収となり、菩提寺も引き取ることさえためらったのです。そこで善慶寺二十世日応上人が六人の遺体を引き取り、当時の禁を破って墓域に葬り、供養に心がけの後間宮藤八郎が、ひそかに葬られていた六人衆の骨を拾って、かめに入れ供養したのです。この墓は、藤八郎の父母の法名が正面にあり、他人の目を避けるように、墓石の裏面に六人の法名が刻まれています。墓の台石には、四方に花立てと水人れが掘られ、その間をくり抜いて、前に手向けた水が裏側にも巡って、人知れず供養ができる仕掛けになっています。
 なお、十九ヶ条からなる訴状帖は、写しが間宮太郎兵衛分家の子孫の家より明治三十四年に発見され、郷土史料の貴重な文献として、昭和三十九年四月二十八日に都の文化財に指定されました。現在では高等学校の教科書にも掲載され、広く義挙の精神が今に伝えられています。 善慶寺住職 もたい様伝 
弁天池
大森駅から馬込に暗闇坂と並行にもう本南の道をたどると、弁天池があります。池の回りは児童公園になっていますが、池の中央には厳島神社の祠があります。創建由緒は不明ですが多分大正時代後半に、当時の付近の田畑に豊富にわき水がいきわたるように水の神である弁天を祀ったと思われます。
防災協力隊の倉庫の奥の方には、花清水公園があります。ここにも祠があって、御神水、弁天池源泉とかかれています。現在飲料には適していません。

 


馬込文士村

 大森駅向かいの天祖神社の階段にたくさんの人の顔が彫ってあります。大正末 から昭和初期に馬込や山王を中心に活躍した小説家や詩人たちがたくさん住んで 活動をしていたという由緒ある地域です。有名な人たちは、尾崎士郎、川端康成 、北原白秋、三好達治、萩原朔太郎、室生犀星、徳富蘇峰などです。


山王地域の神社

熊野神社

厳島神社

天祖神社

日枝神社


山王遺跡

 山王2丁目、天祖神社近くの元三喜旅館跡地にて山王遺跡(弥生中期) が再度発掘されました。(平成11年4月)

赤と青が溝の跡地です。左手下が現在地 溝。手前が左側(南側)です 奥に焼けたあとがあります。住居跡は現在4つです。
発掘された土器類 凝った模様の装飾物の天蓋部分と思われる


山王さんぽ

去る平成11年3月7日(日曜日)山王小学校PTA行事とし て行われました。山王小学校を出発して、約2時間で次のようなコースを回り、当日81歳を迎えられた後藤浅次郎先生から貴重なお話を伺うことができました。

主なお話の内容

大森貝塚遺跡庭園 発見は1877年です。1929年当時は殿村平右エ門というかたの屋敷の中でした。
隣には来島澄江というみずき流の方の家でした。
近くには美容室「紅」、増井家、糀屋、大井桜井家があり山王小の上野初代山王小学校長が関心へのきっかけ
山王橋 暗きょになる前は、西大井原の水神と滝王寺池を水源とする川が流れていました。
日枝神社  江戸時代は山王権現で地名の起こり。神仏分離、戦災、神楽殿、稲荷、庚申塔、道標、伊勢参り、山門、社等の話
円能寺 鶴塚、鶴匠、鷹匠、徳川吉宗、澤田交差点、渡り鳥 餌付け、鎮守様
天祖神社 八景碑、大井落雁、羽田帰帆、伊勢参拝、神明社、 旧清浦伯爵邸、大森クラブ、鎧掛け松、八景園、 遊園地、久我邦太郎、鉄道唱歌、
山王公園 大森ホテル、魚銀主人、暗闇坂
山王小学校

 

「山王さんぽ」は、現在もときおり地域有志や関係の方々により開催されております。 
   

<この出典は、郷土の歴史家「魚銀主人」故後藤浅次郎翁の名著「大森山王とそ の周辺の歴史を探る」を中心に山王小学校70周年記念誌「山王の歴史ものがた り」を参考とさせていただきました。>  

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