ウイニングチケット 
生涯成績 14戦6勝
詳細情報

「勝利の切符」。これは彼の名前を日本語に訳したものである。

しかしそれは同時に、彼の生涯をも意味する ものとなっていった。

また彼を語る上では、一人の騎手「柴田政人」抜きでは考えることが出来ない。

彼と柴 田騎手の間にはとてつもない深いつながりがあったように思える。

いや、彼は柴田氏の目標を達するために生ま れてきたような馬だったのかもしれない。


4連勝で向かえた皐月賞。前走でナリタタイシンを相手に完勝を演じた彼は1番人気に押されていた。

だが、レ ースは散々な結果に終わる。前走では追い込んでの勝利だったのに対して今回は好位から伸びなかったであ る。

ダービーに向けて不安のある出発のように思えた。

しかしこれは、本番へ向けてのデモンストレーションで しかなかった。彼らの手の中にはまだ他の人には見えない物が隠されていた。


そしていよいよダービーがやってきた。

マスコミの柴田騎手に対する報道は激化の一途であった。

そのような騎 手に対する期待の現れだろうか、皐月賞で完敗したにも関わらず、彼は再び1番人気に押された。

そのような 人気を背負った彼らは運命のゲートを出た。生涯一度の栄冠に向かって彼は走り始めたのである。

彼らは皐月 賞と同様に好位につけた。前走では全く不発に終わった位置に再び…。

勝負の第4コーナーで彼らの前には広 い道が広がっていた。

それは柴田氏が前日に酒を酌み交わした相手、小島騎手が馬場のいい外に騎乗馬を持 ち出したために出来たものだった。

同時にこの時、ドージマムテキの影響を受けてビワハヤヒデは少し外に振ら れていた。

柴田騎手はこの一瞬のチャンスを彼に託した。

内側の芝はかなり荒れていたが、彼はその期待に応 え長い東京競馬場の直線でTOPを守りきったのである。

それは騎手生活27年のベテランが初めて味わう最高の 勝利の瞬間となった。


ダービーを制した後、彼は京都新聞杯で改めてその力を示した。

後方から驚異的な脚を使って他馬を抜き去っ ていったのである。

しかし2冠を狙った菊花賞では完成の域に達したビワハヤヒデの前に歯が立たなかった。

そ の後、JC−有馬と古馬と戦うも疲れからか、今ひとつの成績に終わってしまった。


年が変わると同時に彼の背中に柴田政人騎手は乗っていなかった。

その光景は何故か物寂しい感じを受けるも のであった。

今になってみるとそれは新しい時代へと動き出す前触れだったのかもしれない。

彼はその年の天 皇賞を最後にライバル、ビワハヤヒデと共に脚の故障が原因でターフを去って行った。

奇しくもそれは柴田騎手 が落馬事故で引退を決意したのと同じ年である。

しかし彼らの手の中には目映く光る大きな栄冠があった。

ウイニングチケット、それは柴田騎手を最後の最後に名実共に超一流ジョッキーとした馬に付けられた栄光を獲 ると言う意味の名前である。


余談

  1. 有名な柴田騎手の「ダービーを取れたら騎手を辞めるぐらいの気持ちで、全力を尽くします。」というセリ フがある。

    (どこでどうなったか知らないが、「ダービーを勝ったら、引退」と言う方が有名になってしまって いるが。)

    このセリフは彼が私淑していた野平祐二氏の言葉を聞いての発言である。

    野平祐二氏とは騎手時代 に1339勝をあげ、調教師としてはシンボリルドルフを育て上げた人物である。

    またそれだけでなく、現在の海 外進出への道を明確に作り上げた近代日本競馬の先駆者の一人と言ってもいいだろう。

    そのような野平氏だが 不思議にダービーを勝つ事は出来なかった。

    よって「騎手時代には、ダービーを勝てたら引退してもいいと思 っていた。」の様な発言が野平氏の口から出たのだ。

    また彼がこう言ったから「マサトの名ゼリフ」が生まれた のであろう。

    柴田氏のこの発言にはただ一人の思いだけではなく、競馬に関わる人全ての目標が集約されている。

  2. ダービーに関する柴田騎手のセリフにはもう一つ有名な物がある。

    それは、「私が第60回日本ダービー を勝った騎手です。と世界のホースマンに言いたい。」と言う発言です。

    これがどういう意味なのかは、私な どが言う事までもない事でしょう。


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