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「幻のダービー馬」「スーパーカー」。彼を称える言い方は、全てその桁違いの能力の高さと不遇さを表した ものである。 8戦8勝、2着馬との合計馬身差61馬身。彼の凄さがまざまざと分かる成績だ。 レースで平均 7馬身以上離す事が、彼の自己主張の方法だったのだろうか。 いや、そうするしか自分の実力を証明する事が 出来なかったのである。 彼は持ち込み馬だった故に外国産馬として扱われた。無論、クラシックなどは出られ るはずもなかった。 中野渡騎手がダービー前に 「大外でもいい。賞金もいらない。他の馬の邪魔は一切しませ ん。だからダービーに出させてくれ。この馬の能力を確かめたいだけなんだ。」 と懇願したエピソードはあまり に有名である。 そのようなマルゼンスキーだが、彼はレースで全能力を使い切っていたわけではなかった。 当 歳の頃の事故で前足が外向になった。そのために調教で目一杯追えず常に6,7分の出来で出走していたと言 うのである。 彼は、怪我と制度と言う二つの足かせを付けられた中で戦い続けた。 そのような中でも彼は、自 分の実力を示し続けた。後に菊花賞馬になるプレストウコウを日本短波賞で7馬身後に切り捨てたのである。 彼には同世代の馬などなんの問題でもなかった。彼が目指したのは、その当時の3強、TTGを下す事だけで あった。 彼が名実共に日本最強馬であることを知らしめるには、それしか残っていなかったのである。 しかし そのレースになるはずだった有馬記念を彼は迎えることはなかった。怪我という足かせが彼の動きを完全に封 じてしまったのである。 その足かせは同時に海外進出という目標もかなわない物にした。 彼が海外に飛び出し ていれば日本馬初の海外GT馬になった可能性は十分にある。 海外の雑誌で 「もしマルゼンスキーがアメリカ で生まれていたらシアトルスルーの三冠達成は難しかったかも (マルゼンはアメリカからの持ち込み馬で同年の 生まれ)」 とまで評されているのである。 彼はその裏付けさえも自分の脚で作り出していたのである。 それは 彼の最後のレースになった短距離S(ダ1200)をレコードタイムで駆け抜けた。 彼は実力を証明する最高 の環境を与えられずともその力をアピールし続けたのである。 持ち込み馬の扱いが変更されたのは、彼が引退した7年後の事であった。 悲劇に見回れ続けた持ち込み馬の 歴史はここに幕を下ろしたのである。 |
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