![]() ![]() | |
|
|
「時代の到来を告げし者」。 漆黒の、いや純黒と言っても過言ではない色をした馬体を誇る一頭の馬が、日本 の名門牧場である社台ファームに降り立った。 その後に降り立つ事となる神からの使いの先陣を切って。 彼が初めて脚を踏み入れた競馬場は地方の新潟競馬場であった。 中央ではなく、地方で静かに彼の競走馬生 命の幕が切られたのは、如何にも不気味な気配がにじみ出ていると感じる。 人気も2番人気とこれからデビュ ーしていく一有力馬でしかなかった。だが、たった一走で彼に対する評価は別次元のものとなったのである。 新馬戦にも関わらず、スプリント戦で1分9秒台を軽々とマークしてしまったのだから当然の事であろう。 しか もそのレースは出遅れていたのである。以後、彼は常に人々の注目を集める存在となった。 続く、もみじステークスでは紅葉と同じ橙の枠からの発走となった。 鞍上にはノースフライトで完璧な騎乗を見 せていた角田晃一が迎えられ、ここに最強のコンビが結成されたのであった。 中団からレースを進めた彼らは 直線で後のダービー馬、タヤスツヨシを突き放し全く問題にもせず、レコード勝ちを収めたのである。 そのような彼らは当然、朝日杯でも群を抜いた人気を背負う事となった。 中山の急坂で彼は一頭の馬と凌ぎを削っての叩き合いを演じていた。翌年ケンタッキーダービーに挑戦したスキ ーキャプテンとである。 追いつめられはしたもののと、着差以上に強い内容でG1制覇を果たしたのであった。 年が明けて彼は、皐月賞トライアル弥生賞に望んだ。 その日の空は晴れていたが、馬場状態は重馬場であっ た。 そのような状況下でその年の3冠を全て好走した重馬場得意のホッカイルソーを子ども扱いして敗ってしま ったのである。 弥生賞をも圧勝した彼は、三冠馬になる馬として人々から多くの期待を集めていった。 しかし弥 生賞を獲った彼には悪夢が忍び寄って来ていた。 それは競走馬には致命的な病である屈健炎であった。 彼はそ の名が示すような富士の高嶺を制すると言う奇跡的な出来事を達成する事なく、現役を去っていった。 しかし彼は父・サンデーサイレンス時代の幕が明けた事をその身をもって知らしめたと言ってもいいだろう。 その活躍ぶりはこれから出てくる父の産駒の躍進を凝縮したかのようであった。 |
|
|