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「挑み続ける意義」。あなたは「継続は力なり」と言う言葉を聞いたことがあるだろう。また、この言葉を使う人も多いことだろう。 物事は続けていくことによって力が付くと言う意味である。タイキブリザードは、そんな言葉を体現するような馬だったように思う。 目的を達成する力を付けた時、彼は何を見たのであろうか。 彼がデビューしたのは、ちまたがバレンタインで沸き返っていた1994年の2月14日。 彼はチョコレート色のボディを輝かせて東京競馬場を走った。彼はデビュー戦を見事勝利で飾った。 しかしそれだけではごく普通の勝ち上がり方である。ここで注目していただきたいのは、2着にはカネツクロスだった事である。 しかし彼の昇級戦は次のレースが凄かった。相手には後に凱旋門賞に挑戦する予定だったサクラローレルらの名前があった。 この時期の500万クラスにこれだけの馬が揃うことは滅多にないことである。 彼の前には走り出した直後から大きな壁が次々とそびえ立っていた。だが、彼はこれを次々とクリアしていった。 ここまでは順調な出世街道だった。しかし彼はここで躓いてしまった。強敵相手の条件戦を勝ち上がり、ホッとしたのだろうか。 OPENに上がって直ぐの彼は冴えなかった。いや、相手を見てこれぐらいの走りで充分だろうと気でも抜いたのだろう。 彼のポテンシャルを持ってさえすれば、4歳のうちに重賞を2,3つ制していてもなんの驚きもない。 それ程のものは秘めていたはずだ。しかし彼はその時の能力で満足し、努力する事を辞めていた。 彼の4歳と言う時期はそのまま終わってしまった。 年が明け、6ヶ月ぶりに彼はターフに戻ってきた。緒戦の谷川岳SをOPEN特別では格が違うと言わんばかりの走りを見せた彼は、 安田記念に出走する事を決めた。そのレースがこれからの自分と数奇な関係を持つとは知るはずもなく。 その年のレースは外国馬・ハートレイクの快勝で幕を閉じた。彼は3位。能力の片鱗をFANの前に見せただけで終わってしまった。 いや、それがその時の彼のBestを出し尽くした結果だったのだろう。何かが足りていない馬が強豪が集うG1を易々と獲れるわけがない。 次の宝塚記念でも好走はしたものの彼にはまだ何かが足りなかった。 そのような状態が続いた彼は久しぶりにOPEN特別でも苦杯を舐めさせられた。5歳を終えた時点でも彼には重賞のタイトルは一つもなかった。 1996年、彼は競走馬としての転機を迎えることとなる。 この年の緒戦で重賞初制覇をあげた彼は、その勢いを残したまま自身2度目の安田記念に出走する。 相手はマイル戦無敗のトロットサンダー。彼らはゴール前まで壮絶な戦いを演じた。結果は僅かな差。 軍配は無敗の王者を指した。しかし彼はこの時、何かが変わった。 同年、BCクラシックに出走するためにアメリカへと旅だった。 彼は日本を代表する馬として3番人気に推された。だが、結果は全く歯がたたずに惨敗。 それは彼の前に大きく立ちふさがった新たな壁だった。 日本に帰ってきた彼にもう足りないものは何もなかった。 持てる力を出し切らなければ始まらない。そう外国で学んできたのであろうか。彼は東京の長い直線を駆け巡った。 そして遂に3度目の安田記念で彼はG1勝利を収めた。 その走りはそれまでのあの独特のフォームからジリジリ伸びてくるものとは全く違った。 吹雪が通り過ぎる様な速さで前を行く馬を次々と交わしていったのである。 最後はジェニュインを鼻差だけ押しのけて努力を実らせたのであった。 彼はこの安田記念に出るたびに人々に力を付けたことを示し続けた。 それは努力の積み重ねによって得られた結果であろう。彼の前にあった一つの壁は崩れ去った。残るは海外制覇のみ。 彼は再びアメリカへと飛び立った。 前哨戦を3着で終えた陣営は悩んでいた。 BCマイルかBCクラシックに出走させるかで。BCマイルは登録馬が多く、当時の最強マイラー・スピニングワールドの登録もあった。 一方、クラシックは少数頭立てが予想され、なおかつ昨年の汚名返上するにはもってこいの舞台であった。 最終的に陣営はクラシックを選択する。だが、結果はついてこなかった。しかしである。この行動は決して無駄ではないはずだ。 同じ事を達成するまで何度も挑戦し続ける事。それは彼が安田記念を制した一番大きな要因だ。 そしてこの挑戦し続けることが持っている意義が大事なのだから。 彼が最後まで崩せなかった壁。それは世界最高峰のダートを制すること。しかしこの壁もいつかは打ち砕かれる日が来るはずだ。 彼の努力を受け継ぐ馬によって。 一つの事をやり遂げる意志を持つこと、それは彼がターフを駆ける存在意義だったのかもしれない。 |
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