インド紀行 

  仏蹟巡礼、

  サマンバヤ・アシュラム、

  「死を待つ人の家」訪問

                            土屋正道

 

 2月6日より14日まで9日間、インドを訪れました。増上寺山内寺院の研修旅行で、私は十六年前に続き二回目の仏蹟参拝です。釈尊成道(悟りを開かれた)の地ブッダガヤ、初転法輪(初めて法を説かれた)の地サールナートのほか、王舎城の跡地ラジギール、仏教大学の遺跡ナーランダなどにおとずれました。このほかサマンバヤ・アシュラム(最下層の子供たちのためのガンジー主義の学校)、マザー・テレサの「神の愛の伝道教会」訪問(「死を待つ人々の家」、孤児院見学)、バングラデシュ難民(チッタゴン丘陵ジュマ族)の方との出会いなど、アーユス=仏教国際協力ネットワークの勉強旅行でもありました。

 

2/6

あかつきの のりあいバスは 空港へ いずこにいかん 異邦人たち

十時間 先人の苦労 味あわず 二五〇〇年 遡る我

飛行機で 半袖目立つ インド行き 念仏称う 雲海の上

釈尊の 平等思想 受け継げど 発展途上 人類の夢

 

 朝早く、空港までのリムジンバスには様々な肌の色、服装の外国人が乗っていました。どんな思いを秘めて日本を離れるのでしょうか。沈黙の中、バスは成田へ。タイのバンコクを経由して十時間でインドの首都デリーへ到着。二千五百年の歴史の流れをわずか十時間で遡ってしまう。

仏教伝来のための先人の苦労は味わうことはできません。インドは思っていたよりも涼しく、デリーの朝は冷えました。釈尊が生まれ、ガンジーが生まれたインド、平等思想を受け継ぐはずですが未だ発展途上、様々な問題が山積しています。

 

2/7 デリー

君照す 同じ日の出に 手を合す はるか異国の 幸祈るなり

独立に 命捧げし ガンジーの 不害の教え 世界に広げん

 

 今年はインド独立五十周年にして、独立の父ガンジーの暗殺五十年目にもあたります。「アヒンサー」=不害の教えこそ人類の夢、全世界に広がることを祈念しました。

 デリーからバスでヒンズー教徒の聖地バラナシへ。ヒマラヤの雪解け水を集めた大河ガンジス、その流域ヒンドスタン平原が、お釋迦さまが生まれ、悟りを開かれ、伝道され、涅槃に入られた場所です。    

 

バラナシ

菜の花の 黄色い花を 眺めつつ 異国の母を 思うバラナシ

サールナート(鹿野苑)

一心に 真言称う チベット人 ダメーク搭の 周りを巡る

赤児抱き もの乞う少女 10ばかり 目を合せずに NOという我

 

北西から東へ流れるガンジスの中間に位置するバラナシは、流れが南から北へと蛇行する場所で世界各地のヒンズー教徒が沐浴に訪れます。バラナシから車で三〇分程の所に、サールナートがあります。ここはお釋迦さまが初めて説法をされた、初転法輪の地です。一行は博物館でアショーカ王の石柱(仏教王国の基礎を築いた王様が釈尊の遺跡に碑文を刻んだ柱を立てた。)や、世界で最も有名な初転法輪の像を見学して、当時、修行者が集まっていたという鹿の園(鹿野苑)の仏搭、ダメーク・ストゥーパに行きました。レンガを積み重ねた大きな搭の周りを、チベットの方でしょうか、お経を唱えて一心に回る人、一心に礼拝する人、敬虔な姿に感動を覚えました。

 そこに私の娘、はるかと同じぐらいの赤ん坊を抱いた一〇歳ぐらいの子供がいました。彼女は貧しい身なりで、しきりに手を出し、口で食べる真似をします。「お金を下さい。食べていないのです。」こう訴えかけてきます。しかし私は断りました。日本人の安易な施しが、かえってケンカの元になったり、自立を妨げる行為になったりすることを聞いていたからです。でも子供の顔をまともに見らませんでした。

 夕方、舟に乗り、ガンジス河のガート(沐浴場)を見学。サリーを着た女性や、腰布一つの男性が濁った水に身体を浸しています。頭を洗う人、歯を磨く人、すぐそばで洗濯する人、火葬場には六つの火が見えました。灰は河に流してしまうのです。

綺麗、汚いではなく、浄不浄の世界が混然一体となった不思議なところです。

 

2/8 バラナシ

喧騒を 抜けて降り立つ ガンガーの 川面静かに 清濁流す

ゆうゆうと 彼方を望む インド牛 不害を知りて 穏やかなるか

白布に おおわれし おさな子を ガンガに流す 小舟いっそう

火葬場の すぐお隣が 沐浴場 用を足す人 歯をみがく人

 

 翌朝もう一度舟に乗りました。

昨日の火葬場は既に火は消えて黒い炭の中に、お供えのオレンジ色の花が鮮やかに混じってみえました。若い男女が乗った小舟がいっそう、静かに沖を目指します。やがて手にした白い包を水に沈めました。子供は

火葬をせずに布で包んで水葬するのです。音もなく二人を乗せた舟が川岸に戻ります。夜汽車で移動の予定が、急遽バスでブッダガヤを目指します。総選挙が近いのでカラのバスを走らせると乗っ取られる危険があるとの事です。

 

    ガヤへのバス (G.T.ロード)

釈尊の 歩みし道を 遡る バス8時間 ガヤを目指して

牛ふんを 丸めて干して 燃料に 幼き子らも お手伝いする

 

    ビハール州へ

配られし 一杯の水 ひんやりと ノドを潤す 州ざかい

僧院に 名前由来す ビハール州 最も貧しく 人心蝕む

小作人 親の借金 子に及ぶ ビハール州の ボンドレーバー

 

    検問所

美しき サリーを見れば なつかしい たおやかなりし 君の面影

 

    デコボコ道

釈尊の み跡慕いて 幾人の 弟子この道を 往来せしや

 

 バラナシからブッダガヤまで二四〇キロ、東京から浜松ぐらいだそうです。ブッダガヤはお釋迦さまが悟りを開かれた地で、仏教第一の聖地です。悟りの内容を伝えようと歩かれた道を、恐れ多いことに、クーラー付きのバスでたった八時間で遡ろうというわけです。G.Tロードと呼ばれインドの国道1号線とも言える真っ直ぐな道。大きなトラックかが行き交い、舗装が剥がれてデコボコです。常に震動が伝わり、知らないうちに窓が明いてしまいます。私はマスクをしてホコリに備えました。

「この道を幾人のお弟子たちが通っ て行ったのだろう。」と考えますと、二五〇〇年の仏教伝来の歴史が

身近に感じられます。道端の家には相変わらず牛のフンがせんべいの様に張り付けられて干されています。釈尊の頃とあまり風景は変わっていないのではないでしょうか。休憩でバスが止ると、田舎の子供たちが珍しそうにやってきますが物ごいをするわけではありません。州境を越えるとビハール州、農業中心のインドで最も貧しい地帯だそうです。ビハーラ(僧院)に由来する名を持ちながら、犯罪の多発地帯だといいます。

大地主と小作人の関係が温存され、年貢が納められないと、一生奴隷として扱われるという。勿論法律では禁止されているが、親の借金が子に及び、人身売買が横行している(ボンドレーバー)というのです。政治家も金まみれで、マフィアそのものが行政に食い込んでいることも珍しくないそうです。ああ、成道の聖地さえも人間の煩悩によって晦く、苛まれているとは…。

 

    ブッダガヤ

我もまた いつか必ず 悟らんと ブッダガヤにて 誓い新たに

 

    ブッダガヤ スジャータホテル

釈尊の 願い助けし スジャータは 時空を超えて 我を迎えり

 

 ガヤから郊外のブッダガヤへ(現地ではボードガヤ)は割りあいいい道が続きます。一六年前とずいぶん変わった気がします。「観光収入でこのあたりは豊かなのではないか?」

そんな予感がしました。日が沈み夜のブッダガヤへ到着。聖地に足を踏み入れた感動が徐々に湧いてきました。ところが立派なホテルにビックリ、二年前にできたスジャータホテルです。主人は関西弁を流暢に話すインド人、どうやら大もうけして京都と大阪に料理屋を経営しているそうです。スジャータといえばお釋迦さまが悟りを開くのを助けた少女の名前です。仏教との願い「“成仏”をいつかきっと…。」と誓いを新たにしました。

 

 

インド紀行 その2

  仏蹟巡礼、

  サマンバヤ・アシュラム、

  「死を待つ人の家」訪問

                            土屋正道

 

2/9 サマンバヤ・アシュラム

クレヨンで 名前をかいて 誇らしげ アシュラムの子供 瞳輝く

はるばると 奉仕に来る アシュラムの 笑顔美しき デンマークの女

 

    ブッダガヤ 大菩提寺

大搭に 五体投地の 人の群 日本の人の 姿見られず

我が声に 思わず涙 わきあふる 大搭の中 念仏称う

大搭の 時代は巡る 金色に 塗り直されし 仏も宝座も

 

 インドの旅も四日目。釈尊が悟りを開かれた地、ブッダガヤの早朝です。昼は参拝客や、物売りで騒がしい町も、まだ静かに眠っています。

サマンバヤ・アシュラム(最下層の子供たちのためのガンジー主義の学校)を訪れました。インドにはカースト(職業身分制度)の最下層、あるいは不可触民といわれ差別されてきた人々が多く暮しています。ガンジーは差別されてきた彼等を「ハリジャン(神の子)」と呼んで、不平等を非難しました。彼の思想を引き継ぐドアルコ・ジーという人物が、この地で貧しい小作人の子供たちの教育をしています。一月にテレビで放映された沢木耕太郎原作の「深夜特急」でも紹介されたのでご存知の方もいらっしゃるかも知れません。

通訳兼添乗員のトム・エスキルセンさんは大学を出てからこのアシュラムで二年間過ごしたことがあり、彼の案内でやってきたのです。

 暝想、いのり、体操、歌などを上級生の指導でみんな一緒に行っていました。日本からもっていったクレヨンや画用紙をあげますと、子供たちが自分の名前を書いてくれます。彼等は両親も文盲の方が多いので、この学校でやっと字をおぼえるのです。ドアルコさんの深いまなざしと、

デンマークから来たという若い女性の澄んだ瞳が印象に残りました。

 アシュラムのまん前が大菩提寺。釈尊成道の聖地です。早朝にも関わらず沢山の方々が、中央の大搭に向い礼拝をなさっていらっしゃいます。

東洋の人、西洋の人、国は違っても仏教に引かれた様々な人々です。しかし日本人の姿は見られませんでした。大搭の中で法要をいたし自分の声を聞きますと、こみ上げるものがありいつしか泣いていました。

 御本尊は電飾が施され金ピカに塗られています。東南アジアの趣味なのでしょう(近年改修されたそうです。)、日本人の私にはちょっとなじまないものを感じました。

 

    ドアルコ・ジーと昼食

ドアルコは 深き瞳で 語りたる 国父ガンジー 今の釈尊

サマンバヤ 科学と精神 融合し 調和を目指す 新運動

 

 朝食後、日本寺へ。幼稚園や施薬院など地元の人々に親しまれているようすがわかりました。しかし若い日本人僧の話によりますと、立ち寄る参拝客は年々減少しているそうです。各国の寺がどんどん建てられ町は活気に満ちていますが、なにか敬虔な気持ちとは裏腹な人間の欲望が充満する町に変貌したような気がしました。

 ドアルコさんと昼食をとりながら話をしました。彼はガンジーを尊敬「彼こそ現代の釈尊である。」と語ります。サマンバヤとは科学と精神の融合を意味している。「日本は科学は進歩したが精神を忘れてしまった。インドは精神を大事にするが科学をないがしろにしてきた。車の運転に例えると、日本はハンドルを握らず目いっぱいアクセルを踏んでいるようなものだ。インドはハンドルはしっかり握りながらちっともアクセルを踏まないようなものだ。ハンドルとアクセルその調和こそ大切なことだ。」

 

    ネーランジャラー川(ニレンゼンガ)

不衛生 前正覚の 山かすむ ニレンゼンガの 河岸汚染

はるかなる 対岸の木々 生い茂る ネーランジャラー スジャータの里

 

    散歩

ブッダガヤ 一人歩きて 念仏す ぬかるみはまり スニーカー洗う

 

    ドアルコ・ジーと夕食

人生の 目的何か 真剣に 問われてうれし ブッダガヤの夜

 

 午後は、釈尊が6年間の苦行をやめ汚れた身体を清めたというネーランジャラー河へ。悟りを開く前に訪れたという前正覚山が遠く霞んでいました。しかし河原は異臭に包まれています。家畜は勿論、人間の大便があたり一面散乱しているのです。人口の増加がこんな所に環境汚染を引き起こしているのでした。対岸の風景はおそらく二五〇〇年前とほとんど代らないことでしょう。村娘スジャータがいまでも私たちを迎えてくれる、そんな気がしました。

 自由行動の時間に町を散策しました。念仏となえて歩き回っていたのですが、ぬかるみにはまってしまいました。「念仏申していたのに…」

などと思ってもどうしようもありません。ドロドロの足でホテルに帰り靴の洗濯です。

 夜はまたドアルコ師と食事です。

師「お釋迦さまの悟りの内容は何?」

私「互いに関係しあって存在してい  る、縁起だと思います。」

師「あなたの人生の目的は何ですか」

私「人格の完成だと思います。」

ドアルコさんは真剣に、仏教の事、人生の問題に質問をしてきます。私は日本でも経験のない真剣な質疑に緊張しながらも、とても嬉しく感じていました。会食の最後にドアルコさんにお金を託しました。それは、

「TreeWorldプロジェクト」

という植林事業への献金です。「娘の遥の名前でお願いします。彼女が無事1年を過ごせたことに感謝して。できれば“はるかの木”と命名して下さい。」と申しました。ドアルコさんはとてもよろこんでくれました。

「日本人がいまやるべきことの一つは、収入の一部を献金することではなく、支出の一部を献金することだろう。」無駄遣いをしない。彼の言葉は、私の生活をもう一度考え直すキッカケです。せめてインド旅行中は実践したいと思いました。

 

インド紀行  その3

  仏蹟巡礼、

  サマンバヤ・アシュラム、

  「死を待つ人の家」訪問

                            土屋正道

 

 2/10 早朝礼拝

隣室の ヒゲそりの音 聞きながら ビスケット食う ブッダガヤの朝

早朝の 礼拝人の 仲間入り 大搭の中 声響きけり

 

 翌朝、四時すぎに起床。有志で大搭の中で百礼拝をすることになり、

トムさんと若い仲間たち合せて七人とまだ暗い道を歩いて行きました。

五時、大搭の扉が開かれると同時に御本尊の前へ。六畳ほどの広さの中にチベットやブータンの方々とともに二列に並び礼拝を行じました。それぞれの祈りの声の中、「なーむあーみだーぶ、なーむあーみいだーぶ」

と五体投地を繰り返します。最初遠慮がちだった声も次第に熱がこもり、

ブッダガヤの町に響いたことでしょう。

 

    ラジギール(王舎城あと)

王舎城 フト見上げれば 霊鷲山 徒歩40分 竹林精舎

父殺し 母悲しませ 病を得 アジャセ太子の 業の深さよ

ラジギール ヒンズー寺院 建設の 資金集めの 通行料

 

    ナーランダ

異教徒に 破壊されし 大学の 廃墟に立ちて 往時を忍ぶ

 

    七葉窟(第一結集地)

釈尊の 滅後に弟子が 集まりて 七葉窟で 如是我聞

 

    法華ホテル

満月に あと一日の 王舎城 月輪三昧 アジャセを救う

 

 ブッダガヤを後に、観無量寿経の舞台、ラジギールへ。釈尊に帰依した大国マガダ国の王様ビンビサーラが息子アジャセに幽閉された監獄あと。ビンビサーラ王が寄進した竹林精舎あと。物語の舞台が歴史的事実として認識され、釈尊の行動が実際に目測される現地に足を運べることは二〇世紀に生きるお蔭でしょう。さらに世界最大の仏教大学、ナーランダ大学遺跡へ参りました。その途中バスが若者の一団にとおせんぼをされお金を取られました。ヒンズー寺院の建築資金の調達とか、いかにもインド的です。ナーランダより戻り七葉窟へ。釈尊の滅後弟子が集まったところと言われています。この

あたりはめずらしく温泉が湧き、ジャイナ教の教祖マハーヴィーラの遺跡、ヒンドゥー教の寺院も多く、多くの参拝客を集めるところです。ホテルは日本の企業の経営だったのですが、資金繰りに困りインドに売り渡したそうです。とても善いところだけに二〜三年後の管理が心配です。

 この日は満月の一日前、美しい月が拝めました。悩めるアジャセ太子がお釋迦さまを訪ねたのも、こんな夜だったに違いありません。

 

 

 

インド紀行 その4

  仏蹟巡礼、

  サマンバヤ・アシュラム、

  「死を待つ人の家」訪問

                            土屋正道

 2/11 霊鷲山

夜明け前 ホテルを出でて 霊鷲山 金星輝く 山道登る

16年 前の記憶が よみがえる 山頂めざし 念仏申す

不精進 聖地に致り 悔やみなん 観無量寿経 おとなえできず

 

 インドの朝は冷えます。山道に備え重ね着をしました。まだ暗い道を釈尊説法の地、霊鷲山を目指します。

バスを降りて緩やかな階段を登り、山頂へ。釈尊やお弟子方、沢山の信者たちも登った道です。暁の明星は今も変わりなく輝いています。

 二五〇〇年前、シャカ族の王子ゴータマ・シッタールダは、故郷カピラ城から出家しました。南東に向った彼は、当時の最強国マガダ国の都ラージャガハ(王舎城、後のラジギール)に入ります。この文化の中心地には、バラモン教に満足できない多くの求道者が集まっていたようです。国王ビンビサーラはシッタールダを一目見て、その高貴な姿にうたれ出家を思い止まるように伝えますが、シッタールダの決意は硬く、国王は彼の庇護を約束し、成道後の説法を依頼します。

 ラジギールを囲む5つの山波の東南の一角、城壁から程近くの所に霊鷲山があります。悟りを開かれた釈尊は、ここで法華経はじめ多くの説法をしました。国王ビンビサーラも足繁く通ったと伝えられています。 山頂で法要を務めます。この地は観無量寿経の舞台となった場所ですが、日頃の修養が足らず暗唱できません。しかたなく他の経文を拝読いたしました。ご来光を仰ぎ念仏申しておりますと、時を超えて釈尊の弟子とさせていただいた喜びが湧いて参りました。

 

    法華ホテル

旅先の 人の親切 いたみいる 整腸薬を くれし友情 

 

 旅も後半に入りました。一六年前と比べますと快適さは雲泥の差です。

それでも緊張と、温度差で体調をくずす方が出てきました。そんなとき同行の方の優しい心遣いは本当に有難いものです。さらに親切を施させて頂くことも感謝できるようになりたい、と思うようになりました。

 

    パトナへの道(パータリプトラ)

選挙戦 死者何千人 でる国も 世界最大の 民主主義国

パトナまで 乗せろとすごむ 警察官 強き抗議に バス折にけり

7.5 キロメートルの 橋渡る パトナ潤す ガンガの流れ

 

 ラジギールを後にパトナ(旧パータリプトラ=マガダ国の首都)へ。出発しようとすると警官が3人ほどバスに乗込んできます。「選挙があるのでパトナまで乗せて行け。」というのです。ガイドは身の危険を感じ強く反対できません。同行のトム・エスキルセンさんがヒンドゥー語でまくしたてると彼等は渋々降りて行きました。ふだん穏やかなトムですが、とても頼もしく思えました。内容を聞くと、「私たち外国人は政府から許可を得て入国している。もし何かあれば母国がだまっていない。あなたたちが無礼を働けば大臣に手紙を書く。」といったそうです。

 パトナはビハール州の州都で大きな町ですが、マフィアの暗躍が取りざたされ、前州知事は今監獄の中、字を書けない奥さんが今の知事なのだそうです。ガイドは「選挙で不正がおこなわれ、沢山の死者が出るけれどインドは世界最大の民主主義の国なのだ。」と言います。仏教が広まったこの土地で不正が行われる事実を残念に思いますが、それだけ人間の煩悩の深さを考えさせられました。

 

    ヴァイシャリー(ヴェーサーリー)

手を振りて バスを迎えん ヴァイシャリー 往時はいかに 聖者迎えて

アショカ搭 天空つきて そびえたつ 2300 星霜重ね

観音の 涙のごとき ガンジスの 輝く水面 我を癒せり

 

 大河ガンジスに面したパトナは沐浴場を持つ聖地です。七.五キロの橋を渡り、ヴァイシャリーへ。

バスは小さな村の中を縦横無尽に走ります。小さな子供たちが笑顔で手を振ってくれます。釈尊を諸候たちが争ってもてなしたそうですが、名もなく貧しい多くの民衆こそ、彼の到来を待ち望んだに違いありません。

 アショカ王は、釈尊の入滅二〇〇年後に、インド全土を治めたマウリヤ王朝最盛期の王様です。彼は仏教に大変帰依し、国を治める礎としました。釈尊の遺跡に石柱を建て仏教の隆盛をきすとともに、経典を整備しました。ヴァイシャリーには彼が建てた石柱が唯一完全な姿で立っています。二三〇〇年風雨に晒されたのに表面は美しい姿で天空に直立していました。何十万、何百万の人が触ったのでしょうか?私も冷たい柱に触れながら釈尊を偲びました。

 

 

インド紀行  その5

  仏蹟巡礼、

  サマンバヤ・アシュラム、

  「死を待つ人の家」訪問

                            土屋正道

 2月11日 夜

 ヴァイシャーリーからパトナにもどり空港へ。夜の便でカルカッタへ向います。旅のハイライトが終り私たち一行も疲れてきました。

 

    パトナ空港

パトナ発 カルカッタ行き 飛行機を 待ちながら見る 別れの涙

クレヨンを 渡し忘れて カルカッタ 運びて送る 郵便局で

何本の ビールが消えし 腹の中 まだ幸いに おなか壊さず

空港の 仲むつまじき 三兄妹 疲れ気遣う 姿美し

旅仲間 背中の荷物 ソット開け 盗難危険 教えてくれる

    カルカッタ

カルカッタ 深夜の空港 降り立てば ほこり立ちこめ 満月かすむ

 

 夜の空港では出逢いと別れの場面に遭遇します。飛行機を待つ時間、ゆっくりと人々を思う時間が持てたことは収穫でした。

 今日は満月です。夜半過ぎ到着したカルカッタは何か空気がどんよりとしています。月の光も乱反射してボーと霞んでいます。サマンバヤ・アシュラム(最下層の子供たちのためのガンジー主義の学校)に寄贈するつもりだったクレヨンを持ってきてしまい、カルカッタでおくることにしました。

 

2/12 カルカッタ タージベンガルホテル

初めての 海外旅行も マイペース 頼もしきかな 元気な若人

まといつく 子にもニコニコ 挨拶す 熱さに負けぬ すがすがしき人

橋架かり 昔の雑踏 なくなりて 何やらさびし カルカッタの町

 

 カルカッタのホテルは最高級、おそらくインドで一番のホテルだそうです。外国旅行が初めてという若いお仲間も大都市にきて一安心でしょう。ガンジス河の河口に近く、古くから東の玄関口としてインド第一の都市であったカルカッタ。「世界で最も貧しい町」と言われた町は驚くほど様変わりしていました。以前、ブータンへの乗り入れ口として2度訪れておりましたが、とにかく人があふれかえり、不衛生で混沌とした町という印象でした。ところが今回行ってみますと一見きれいなのです。そこかしこにあったスラムが見当たりません。人口もムンバイ(旧ボンベイ)などに抜かれて第4位になったそうです。どうやら行政が町の美化、治安のために下層階級の人々を追い出したようです。しかし難民(自国に留れなくなった人々)や郊外からの流入者が多く集まることは今も変わりありません。

 

 ジュマ族の 難民となる 青年は 10年ぶりに 母と再会

 

 この町でジュマ族の難民ムリナル・カンティ・チャクマ氏にお会いしました。彼は、アーユス(仏教国際協力ネットワーク)会員の知りあいで、今回マザーテレサのもとを訪れる準備をして下さいました。

 インドの東どなりはバングラデシュ(旧東パキスタン)です。インドと共にイギリスより独立しイスラム教信者が大半を占める世界で最も貧しい国の一つです。毎年サイクロン(台風)や森林伐採の影響による大洪水にみまわれ、国土の4分の3が水没するほどの信じられない被害を受ける地域です。この国のチッタゴン丘陵地帯に住んでいたのが仏教徒のジュマ族です。一九九二年以来、政府軍とベンガル人によって虐殺が行われ、ある調査では人口の2割約10万人が殺されたといわれます。現在約6万人が国境を越え難民となっています。

 私の一つ年上のムリナルさんは、支援を国際的に呼び掛け難民の問題を訴えています。彼は穏やかな表情で話してくれました。戦闘で友人を目の前で殺され、生き別れとなった母親に10年間会えなかったことを。また妻や娘(はるかさんと同じ歳)とは1年に1度ぐらいしか会えないことを。幸い、一九九七年一二月両国の和平協定が結ばれインドから難民が戻れる道筋ができたそうです。しかしバングラデシュ国内の定住が進まず、生活は困窮している状態でこれからが正念場だ、と静かに話す様子が印象に残りました。

  

 

インド紀行  その6

  仏蹟巡礼、

  サマンバヤ・アシュラム、

  「死を待つ人の家」訪問

                            土屋正道

 2/13 ミッショナリーズ・オブ・チャリティー(神の愛の宣教者たち)の礼拝

早朝の 白きサリーの 礼拝は 百数十人を 数えたり

騒音の 中に祈りの 声響く マザーの跡継ぎ 清楚な横顔

礼拝の 最後列に 老婆あり マザー・テレサの 彫刻いませり

一心に 祈るサリーの 聖女たち 君に逢いたり 異国の地にて

 

 朝五時二〇分ホテル出発、まだ暗い霞んだ市街をマザーテレサの教会へタクシーで向います。トム・エスキルセンさん(アメリカ人)、ムリナル・カンティ・チャクマさん(バングラデシュ人)と私の3人が朝の礼拝に参列しました。

 マザーテレサは昨年の夏に神に召されましたが彼女の表札は残っています。彼女の率いたミッショナリーズ・オブ・チャリティー(神の愛の宣教師たち)は世界に千を越える支部を持ち、多くの信者、賛同者をかかえていますが、本部は質素な建物でした。二階の礼拝堂に入りますと白いサリーをまとった聖女たちが集まってきます。世界中からやってきた老若男女も一緒に祈ります。六時より賛美歌、外のトラックの音が容赦なく室内の祈りの声をかき消します。彼女たちは入れ替わり立ち替りお祈りをしては、掃除、家事などそれぞれの仕事に戻って行きます。まさに祈りの中に生活があるのです。先程から最後列で、腰を屈めて合掌する老婆に目が止りました。よく見るとマザーでした!木彫りの等身大のマザーテレサが二〇〇人ほどの人々と共に祈りを捧げているのでした。

 

    死を待つ人の家

カルカッタ 死を待つ人の 家で見る 様々な国 若きボランティア

憔悴し 布にくるまり 横になる ところせましと 青き寝台

 

    カーリーガートのスラム

みどり子が アキカン抱きて 泣き叫ぶ たった独りの スラムの路上

ポスターや 壁書き目立つ 選挙前 マークで選ぶ 当選者

 

    バングラデシュ難民スラム

バクシーシ 要求もせず 穏やかな 川のほとりの 難民の子ら

 

 午後から全員で「死を待つ人の家」

に行きました。誰にも顧みられること無く路上で死んでいく人たち。自らを呪い、神を恨んで息をひきとる貧しい人々。一九五二年、マザーテレサは「神の愛の宣教者たち」を創立し、彼等の最期を見取ることを始めます。「あなたの人生は無駄ではありません。神様はありのままのあなたを愛して下さっています。」彼女の小さな行為は一九七九年、ノーベル平和賞受賞で世界中に知れ渡ります。外国人であったにもかかわらずマザーの葬儀はインド国葬となり、

各国元首から名もない人々まで一〇〇万人が参列したそうです。

 「死を待つ人の家」は川近くのスラム街の一角にあります。中には青いベッドが所せましと並んでいました。ジロジロ見るのは憚れましたが、合掌して微笑む方もいらっしゃいました。現在は末期の方ばかりではなく回復して出て行く方もいるようです。台所にも世界各国の若いボランティアが溢れていました。日本人の若者は笑顔で病人の足をさすっていました。彼はマッサージを勉強するうちここにたどり着いたのだそうです。何かとてもうれしくなりました。

 外はスラム街、ちょうど娘と同じぐらいの赤ちゃんが泣いています。

路上にすっ裸でアキカンが置かれています。親が物乞いをさせているのでしょうか、かわいそうで悲しくなります。バスに乗り最も貧しいバングラデシュ難民の住む一角へ行きました。小さな川沿いに土色をしたほったて小屋が並んでいます。しかし誰も物乞いをしません。観光客も来ないところです。私たちが珍しいのでしょう子供たちが寄ってきます。そこには貧しくとも懸命に生きている人たちの姿がありました。

  

インド紀行  その7

  仏蹟巡礼、

  サマンバヤ・アシュラム、

  「死を待つ人の家」訪問

                            土屋正道

 2/13 マザー・テレサの孤児院

子供らの 無邪気な笑顔 胸をさす 善き里親が 見つかるように

傷害を 持つ子をあやす ボランティア マザーを慕う 若き日本人

 

 旅も後2日、名残惜しい気がしてきます。「死を待つ人の家」につづき孤児院も訪ねました。ここにも各国のボランティアの人々にまじって日本人の若者が働いていました。彼等は黙々と働いています。ある人は、家具のペンキ塗り、ある人は精神障害の子供の世話をしていました。孤児院には、生まれたての(と思えるほどの)子供もいます。シスターの説明では親が養育できない子供も預っているそうです。小さな子供の泣き顔を見ますとカメラのシャッターを押せなくなります。早く里親が決まってほしいと願いました。シスターやボランティアは一人で何人もの子供の世話をしています。しかも二十四時間交代で付き添わなければなりません。しかし働いている日本人看護婦の笑顔を見て、安らぎと頼もしさを感じました。

 いよいよインドの旅も終りに近づきました。旅の仲間もカルカッタ博物館に行ったり、買物をしたり、荷物整理をしたり、それぞれの過ごし方をしています。中にはタクシーに乗ったら同じ車で2度も接触事故をおこされた方々もいたようです。最後の思い出を胸に空路タイのバンコクへ向いました。

 

     バンコク

9日間 離れただけの 日本が なぜか遠くに 感じられるなり

入国し すぐ出国の バンコクで 席未確定 みんなで走る

眠りたい 少し疲れた バンコクの 出発時刻 夜中2時過ぎ

 

 バンコクには夜中に到着、すぐ乗り換えて成田行きです。到着と同時にみんな走ります。少しでも早く入国して出国カウンターへ急ぎます。

実は最後の最後、成田行きの飛行機の席が確保されていないのでした。

旅に精通した仲間が、日本から、インドから八方手を尽くしても確定がもらえなかったのでした。もし全員が乗れない時には、誰が残るかまで

話し合っていました。入国をすませてバラバラに出国カウンターに集合しますが足を痛めた方が、なかなかやってきません。何人かがあわてて探しに行き、やっと見つけて間に合いました。タイの友人の手配が旨くゆき、お陰でさまで全員一緒で帰れることになりました。

 

    バンコク空港待合室

釈尊の 偉大な御跡 参拝し 我も解脱の 決意新たに

我が娘 忘れたるかも 旅先で 一度も声を 聞かず過ごせり

 

 旅の終りにインド巡礼の旅を回想しますと、十七年前とは比べものにならないほど快適な旅行でした。しかし余裕があった分、色々な問題を考えさせられました。そして釈尊の教えが現在も必要とされていること、いや私自身の問題として改めて感じられました。

 私は結婚し、子供を授かり、曲がりなりにも父親になりました。しかし釈尊が示された真実の道を求め続ける決意を今一度誓わねばなりません。念仏に精進し、いつかは仏となる時を祈念してインドの旅を終りました。

 

2/14 成田へ

    美しき 女の姿に 君思う 時は止れり 悠久のインド

 

 成田は早朝の到着。異邦人とともに出発した東京へ、今度はインドの想いを抱いて帰ってまいりました。

再会を祈念して、さようなら…。完

 

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