私の名を呼ぶ声

            土屋正道

 「由恵さん、ありがとうございます」「遥さん、ありがとうございます」

私は、なるべく妻と娘に感謝の言葉を言うように心掛けております。

 娘にはまだ言葉の意味はわからないでしょう。五月二九日でやっと満六カ月になったばかりです。日に日に表情も豊かになり、カワイクなってまいりました。まだ善悪の区別のつかない、自分では、ほとんど何もできない赤ちゃんです。それでも朝、目を覚まし、ニコっと笑い、お乳を欲しがり、写真や洋服の模様などに興味を示します。

 そんな我が子を見つめながら、最近私は自分のことを考えることが増えたようです。 「私もまた、赤ちゃん以下の、善悪の区別に迷う存在ではないか?」

 我が子の、一点の曇りもない瞳を通して、私を見つめる存在に心を至らすようになりました。

 ミルクを吐き出し、おしっこをしても「いい子だねぇ」と育てて下さった両親や、有縁の方々に自然と感謝の念が呼び起こされました。まさに「子を持って知る親の恩」です。

 いったい親が子を思う心はどこからくるのでしょうか?それは両親の愛情の形を通して、宇宙の本源が私を愛し育んで下さることに違いありません。自分では成長して大人になったつもりですが、いつまでたっても大宇宙の恩寵をうける赤ちゃんに違いありません。

 「遥さんも、いつかこの御光に気づく人生を送ってほしい」

との思いが湧いてまいります。

 私が「遥さん…」と呼びかける声を彼女はおそらく覚えてはいないでしょう。私も赤ちゃんの時の記憶はありません。

しかし今、「遥さん…」と呼びかける声の中に、「正道さん」と現に呼びかけて下さっている御声を感じさせて頂けるようになりました。これも両親が呼び続けて下さったお陰ではないかと思います。

 「遥さん…」

と呼ぶ声が、そのまま私を呼ぶ声でもありました。

 その声に気づく時、私もまた御名を称えずにはいられない。親子や夫婦がそんな関係になれたならば、どんなにすばらしいでしょう。

娑婆の世界に暮すお互いですから、いがみ合うこと、傷つけ合うこともありましょう。しかし我が娘であり、我が妻でありながら私に如来の慈光を思い出させる“観音の化身”との思いが少しでもあれば、念仏の中に拝みあう気持ちを取り戻せるのではないでしょうか。