終着駅
土屋正道
「いいですか、この話はどうか貴方だけの胸にしまっておいてください。」ある日、Sさんは私に言いました。
「私は○○歳を迎えて普通なら体力が衰えるはずなのですが、最近何かに突き動かされるように、念仏をさせて頂いています。明け方、仏前に自分なりの座法で四十五分座ります。丁度お線香が一本分です。その後また四十五分、礼拝が勤まるようになりました。不思議なことです。これは仏様が私にさせていただいているように思われます。仏様の御意志に背かぬよう、もし、粗相をしたら申し訳ありませんから、充分に注意をはらっています。でも私のことですから、何が起こるか判りません。どうか私を見守っていて下さい。いつまで続くか判りませんが、コレは仏様が私を通して念仏して下さるように思えてしかたありませんので、続く限りいたしたいと思います」
Sさんは繰り返し御自身の、現在進行中の体験を感激の面持ちで語られました。真摯な、敬虔な態度に、彼の両手を握ってお話を伺う私まで目頭が熱くなる思いでした。
自分自身の行いを如来の聖行として拝んでいらっしゃる。そこにはSさんの念仏でありながら如来様のほとばしりを感じさせていただきました。
人間の身体がもつだろうか?私は自問しましたが、たとえSさんの寿命を縮めることになっても、お止めしてはいけない。いや止められないと感じました。
「とうとう終着駅になりました。」 一月後、顔を合せたとたん、Sさんは笑顔で言いました。すぐ後ろにいらしたKさんは、それを聞いて
「いやいや、まだこれからですよ」と仰います。私も
「そうです。通過駅じゃあないです か」と申し上げました。
Sさんは聞えたのか、聞えなかったのか、ただ微笑して静かに食堂に歩いていかれました。
Sさんは自分の死期が迫ったことを告げられたのだ、と感じました。
人間同士のお別れが近いことをとても寂しく感じながら、そうだ“永遠の生命”じゃあないか。Sさんはマダマダこれから、と思っているに違いないと思いました。そして私もそういう“信仰の終着駅”とでもよべる心境になりたい、とあこがれながら、静かに念仏を称えました。
願わくばSさんができる限り長生きされ、私の道のりを見守っていただけることを祈念いたします。
*Sさんより私が先に召されるやも 知れず、あえて御紹介をいたしま した。悪しからず。 合 掌