観智院の歴史

 観智院は、戦国時代末期に開祖徹公上人が武蔵野国箕田の郷に一院を構え誠諦院と号したのに始まります。後に徳川家康が増上寺を建立し観智国師を迎えたおり、時の庵主吟察上人が国師に深く帰依してその子院の一つに列しました。やがて国師が当院に隠棲したことから、その院号を普光院さらに観智院と改称しました。江戸時代には大本山塔頭寺院、また諸大名の宿坊、勅使接待所にも当てられた由緒格式あり寺院です。特に浅野家ゆかりの寺だったので、歌舞伎「忠臣蔵」の舞台にも登場します。

 しかし明治になって徳川家の庇護を離れ、維持するにも檀家も少なく、住職が無住や兼務という苦難の時代もありました。たまたま昭和16年に請われて観道上人が第21世住職となり、再度の修復さらに戦災復興また全面改築とご苦労されました。爾来、観智院はわが真生運動の本部、また月例の念仏会・写経会、また秋の全国大会の道場として今日に至りました。

 

普光観智国師墓(東京都港区指定文化財・史跡)

 観智国師は源誉存応といい、天文13年(1544)に武蔵国に生まれ、元和6年(1620)に増上寺において77才の生涯を終えた。

 増上寺住職となったのは天正12年(1584)で、慶長4年(1599)には後陽成天皇から紫衣の勅許を得たほか、同15年7月には家康の斡旋により国師号を授けられ、この以後、観智国師とよばれた。浄土宗としては異例の厚遇であり、この頃から増上寺は京都の本山知恩院と相並ぶ寺院として重んぜられるようになった。また、この間、慶長10年から17年にかけて、増上寺三門、本堂、経蔵などの堂宇の造営に努め、家康から寺領千石の寄付や、大蔵経3部の寄贈をうけ、徳川家菩提寺である増上寺を、政治的にも経済的にも確固たるものにした功績者である。

(安蓮社内・昭和55年11月15日 東京都港区教育委員会)