雪 姫 幻 想

(下)



   〔5〕 交  流

 あまりありがたくはないが、雪姫様に気に入られたようだ。
 というよりも、ヒマを持て余していた姫様にとって、またとないおもちゃが転がり込んできた、ということかもしれない。

 困ったことがある。
 姫様のいうことはほぼ理解できるが、こちらの言葉が半分以上通じないことだ。現代語と若干発音の仕方が違うことは、しょせん日本語の範囲内だからなんとかなったが、問題は物の名前、つまり名詞である。
 こちらがなんの気なしに話している現代語の中には、当時は存在しなかったモノの名が大量に含まれていて、いちいちそれを説明しなければならない。

 たとえばシャシンにしてからが、現物を見せれば理解が早かろうと思ったのが間違いで、どうすればそういうものができるのか、はじめから説明しなければならなかった。姫様始め、東斎さん、老女さまも一生懸命聞いてくれたが、結局わからなかったのではないだろうか。
 第一、説明している本人が、小学校でならったピンホール映像くらいの知識しか持ち合わせていないのだから。

 カメラがあれば、実演して見せることで少しは理解が深まったかもしれない。
 車に戻れば、銀カメ、デジカメが大小あわせて6台も転がっている。銀カメは、現像が出来ないから役に立たないが、デジカメのほうなら、ハンディプリンターもあるので、記念写真を配ることも可能だ。
 もっとも、うっかりそんなものを見せて、「献上」させられてはたまらない。
 腕時計と違って、こちらは、たとえば FinePix 4900 なんぞ、周辺部品やメディアなどで大枚9万円以上払って買ったものだ。むざむざ召し上げられてなるものか。
 ……志乃ちゃんか、老女さまなら、考えぬでもないが。
 いや、だめだ。バッテリーが持たない。

 ま、それはともかく、文書が好き、という雪姫様だけあって、文庫本がいたく気に入ったようだ。
 もちろん、ひらがながまだ定着していない時代だし、漢字も略字はわからない上、使い方が違う。数字、カタカナは全滅だ。したがって内容はほとんど理解できないのだが、それだけに知識欲を強く刺激させられたらしく、わかる文字をつなぎ合わせて、だいたいなにが書いてあるのかを探り始めた。


 時計と写真、文庫本の説明だけで、あっという間に一日が過ぎ、暗くなってから無一庵を辞した。
 雪姫様の知識欲は旺盛で、わからないことはおぼろげにでも理解できるまで、質問攻めの手を緩めなかった。
 シャシンも結局、乏しい知識をふりしぼってピンホールの暗箱を作り、障子に映像をうつだしてとりあえず納得してもらった。もっとも、障子の映像をどうすれば保存できるのか、という肝心な点については、「いずれまた……」とごまかすしかなかった。
 雪姫様は、このまま無壱庵に泊り込むよう希望し、東斎も老女さまもそのつもりだったようだし、空き部屋などいくらでもありそうだったが、こちらにも都合があった。
 このままずっとこの時代で生きてゆくなら別だが、自分の時代に戻らねばならない身だ。そのためには、赤坂邸の総門を離れてしまうわけにはいかない。
 いつ何時、時系調整が可能になるか知れないからだ。

 「どうじゃな? 姫様は貴公を気に入られたようじゃ。このまま姫様のお相手を務めてくれんかの? 貴公さえその気なら、今すぐというわけにも行かんが、いずれ扶持、いや所領についても伊豆守様に願ってみるが……」
 晩飯を食いながら、東斎は、しきりに雪姫様御相手役になるように口説き続けた。
 冗談じゃない。
 なにも好き好んでこちらの世界に来たわけじゃない。何かの間違いでここに来てしまい、たまたま戻れなくなっているだけで、本心は今すぐにでも自分の家に帰りたいんだ。

 結論は、結局、昨夜と同じ。あくまでも自分の世界に帰れるようになるまでの間、他にすることが無いから姫様の話し相手になる、ということだった。
 翌日から日課が決まった。
 起き抜けから自分の仕事、つまり総門から出入りして、時系調整の方法を見つけ出すこと。午前10時?には、雪姫様のもとに行き、夕方までお相手をすることだった。
 ニチヨウビのない生活が1ヶ月以上に及んだ。
 最近雨が多いのは梅雨に入っているせいだろう。

 時計はなくなってしまったが、何日かするうち体内時計が時間の経過を覚えてしまった。もともと人間にはそういう能力が備わっているものらしい。
 この時代の人は、寺の鐘で時刻を知ったというが、どうも逆でないかと思う。もう間もなく寺の鐘が鳴るぞ、ということがかなり正確に予知できるようになった。
 時計という文明の利器が、便利にはなったのだろうが、人間の持つ本来能力を衰退させてしまったに違いない。

 この間に、いろいろなことがわかった。
 第一に、雪姫様は、自分が「ブス」であることを自覚していたことだ。
 引く手あまた、というのは、伊豆守との縁をつなぐために、娘なら誰でもいいから貰い受けたい、という政略的な「引く手」であったようだ。
 姫様はそれを嫌い、自分の将来を捨ててわがままを通したものだった。
 伊豆守も醜い娘の気持ちを哀れんで、雪姫の思うがままにさせたのだろう。

 第二に、風鈴涼之進は、雪姫様の問題が起こる前は、赤坂家(当時はまだ松平姓であったが)に婿入りし、志乃と夫婦になる約束が出来ていた、ということである。
 風鈴涼之進は、姫様お相手に選ばれたごとく、これも文書が好きで、暇さえあれば書物を開いていたらしい。
 志乃と最初に言葉を交わしたとき「以前にもそうおっしゃいました」と言ったが、未来の夫が言った言葉をしっかりと覚えていたためだったようだ。

 第三に、これが一番重要なことだが、平林寺境内を歩いていて、ひとりの修行僧がすれ違いざま会釈をしたことがあった。つまり、こちらの存在を認識したか「見えた」に違いない。
 ということは、このときは修行僧と同じ時系の中に居たということで、このときの前後関係を詳細に調べれば、時系調整への道筋が開ける、ということである。

 もうひとつ、ちょっと困った問題もあった。
 どんなブスだろうと、1ヶ月以上、席をともにし、親しく語り合っていれば、自然に心が通じあってしまうことだ。

 先にも述べたように、雪姫様のお気に入りは文庫本だった。
 タイトルは「隠された十字架」、著者は哲学者の梅原猛博士で、「法隆寺は、聖徳太子の鎮魂の寺である」という仮説の哲学的な論証を試みたものである。
 この文庫本を読みこなすために、雪姫様にひらがなから始め、カタカナ、数字、アルファベットを教えた。
 まず、「いろは」のひらがな、カタカナの対比表をつくり、い←以、ろ←呂、は←波というように、もとになった漢字を当てはめた。もっとも、こういうことの知識があるわけではないので、かなりいいかげんなものであっただろう。むしろ姫様に文字の使い方を聞いて、推測した方が多かったと思う。

 この作業で困ったのは、「筆」である。
 軽装でやってきてしまったので、ボールペンの持ち合わせがない。やむなく毛筆を使う破目になったが、小学校の「習字」の時間以来、筆を手にしたことがない身にとって、これは実に厄介であった。

 次に本文に入り、一文一文、理解を確認しながら読み進めていった。
 あ、ここでちょっとお断りしておかねばならない。
 最初に「この本を何度も読みかけては居眠りをしてしまい、面白いかどうかわからない」と志乃ちゃんに言ったが、雪姫様と一緒に読み始めてみて、居眠りどころか徹夜しそうになるほど面白い本だということに気づかされたことだ。
 以来、私は梅原ファンになり、続いて刊行された「水底の歌」(柿本人麻呂論)など、あさって読むようになった。さらに、本を読むだけでは飽き足らず、たびたび奈良を訪れ、古寺、史跡めぐりを趣味とするようになってしまった。

 さて、言葉というものは、人の心を他の人に伝える手段である。その言葉が姫様との交流の中心に据えられたのだから、互いの心に結びつきが出来てしまうのは当然だった。

 もともと高貴の姫君だから、雪姫様は上品で穢れを知らなかった。
 その上、容貌へのコンプレックスから出発した周囲へのこまやかな心遣いも持ち合わせていた。つまり、その容貌の点を除けば、雪姫様とともに過ごすひと時は、楽しく、また安らぎを感じられた。

 ……とここまで書くと、姫様と仲良く並んでお勉強をしている感じだが、実は、姫様は一段高い御座所にいて、こちらは下座、いつも約2メートルの距離があった。しかも、脇には老女様がいつも控えているので、形としてはそれほど親しい雰囲気はなかった。

 こんなことがあった。
 Tシャツに綿パン、麻のブルゾンを引っ掛けただけの姿でこちらの世界へきてしまったので、二、三日で着替えが欲しくなった。
 まるでその気持ちが通じたように、下帯を含めた着物一式を、姫様から賜った。うそかほんとかわからないが、持ってきた老女さまは、「着物は姫様お手ずから縫いあげた」といった。

 着物なんて、ウールのアンサンブルが長年タンスで眠っているが着たことはない。だから、どうにか着ることは出来たのだが、なんとも歩きにくい。
 もそもそ歩いて、どうにか姫様の御前にたどり着いた途端、裾が足に絡まって転んでしまった。このとき左腕を擦りむいてしまったのだが、姫様はすぐさま駆け寄って、ご自分の手巾で血止めをしてくれた。薄紅に染め上げた絹の手巾で、香を炊き込めてあった。

 姫様の息遣い、香りを感じて悪い気がしなかった。
 これで美人だったら言うことはないのだが……

   〔6〕 消  滅

 日曜日がないので、「勤務」に休みがないと思っていたら、思わぬところで休暇が貰えた。
 法事である。
 日常の仏事のほかに、どういうサイクルかはわからないが、定期的に先祖供養の法要が営まれているらしい。
 松平家の法要は、城下の寺、喜多院で行われるが、「死んだ」雪姫様は出席するわけに行かない。そこで、庵に僧を呼んで、ひっそりと行う。
 大切な行事だから、異世界からやってきた「馬の骨」はもちろん出席を許されない。たとい許されたって、ご免こうむるところだ。

 東斎はもちろん、志乃も法事に出かけていった。
 新原邸の総門から平林寺境内へ偵察に出るのは、いつもなら早朝だけなのだが、この日は午後からも出てみた。

 石門から出ると、目の前に参拝客らしい二人連れが居た。めったにないことなのでドキッとしたが、こちらには全く気づかない様子だった。念のため、二人の目の前でひらひら手を振ってみたが反応はなかった。
 やはり時系が違うので見えないらしい。もしかしたら、何分か、あるいは何時間か後に、石門から出てきた変なヤツが手をひらひらやっているのが見られるかもしれない。

 そろそろ時系調整の方法を見つけないと、向こう側の人間として一生を送ることになりかねない。近頃は、いろいろ不便ではあるがそれもいいかな、と考えることも多くなっていた。

 この日は、梅雨の晴れ間とやらで、真夏を予感させる強い日差しが降り注いでいた。
 いつものベンチにひっくり返って、あの修行僧に挨拶されたときのことをよく考えてみた。

 総門を出て、しばらく墓所石門付近を歩き回り、このベンチに腰掛けてしばらく考え、その後、本堂のほうまで散歩に行ったものだ。そして修行僧に会った。
 修行僧に出会った以外は、いつもと変わったことはしていない。
 人に出会ったことは何度もあるが、認識されたのはあの時だけだ。なぜか?

 あの修行僧が特別であったのか?
 平林寺には、たくさんの修行僧がいて、日常的に境内の清掃や保守作業を行っている。寺域の疎林は広いので、バイクにまたがって移動する作務衣姿の修行僧もいれば、ひたすら草むしりに精出す修行僧などがそこここに見られる。
 そういう僧たちに認識されたことは無い。

 また、袈裟衣に身をつつんだ高位の僧に出会ったこともあるが、無反応であった。
 ということは、こちらの姿が見えるのは、修行の深度とか霊的な問題ではなく、あくまでもあの時のタイミングにあったのだろう。
 つまり、どういう理由からか、あの時はあの修行僧と同じ時系の中にいた、と考えられる。

 考えているうちに寝込んでしまったようだ。
 人の気配を感じて目を覚ました。
 黒服を着た十数人と袈裟衣の僧がひとり近づいてくるところだった。平林寺は寺だから、松平家墓所とは別に、一般墓地もあり、そちらで法事が行われる様子だった。

 なに!
 僧が、こちらに目を向けて、会釈した! つられて集団の中の何人かも!
 明らかにこちらを認識している!

 「見えるんですか? 私が!」
 思わず僧の腕をつかんで、そう聞いてしまった。トンチンカンな問いかけに僧は、キョトンとした目つきになったが、すぐに答えた。
 「もちろんですよ。どうかなさいましたかな?」

 戻った! 戻ったんだ! 正常な時系の中へ!

 そうか。簡単なことだったんだ。
 時空のひずみは、松平家墓所の石門付近で起きている。そのために時の壁が断裂し、300年の時を超えた往来が可能になっている。つまり、あの石門付近は時系のねじれがもっとも濃密であり、離れるほど希薄になって行く。
 海底への潜水を例にとれば、平林寺山門付近を海面とすれば、石門付近は海底。このベンチ付近は中間、つまりこちら側の時間との中間地点になる。ということは、このベンチである程度時を過ごすことは、いわば減圧装置に入ったのと同じ状態になるということだ。

 これさえわかればもう何も心配は要らない。
 時空のひずみによる向こう側との接点が、いつまた離れるかという問題はあるにしても、1ヶ月余を過ごした向こうの世界に区切りをつけ、雪姫様始め、東斎さん、志乃ちゃん、老女さまに別れの挨拶をしてくるぐらいは何とかなるだろう。

 向こうの法事もそろそろ終わる頃だ。いまから行けば、みんなに挨拶を済ませて今日中に自分の家に帰れるだろう。ある意味で楽しかった向こうの世界に、ちょっと後ろ髪をひかれる思いはあるが、人はそれぞれの時代に生きてこそ、歴史の中での役割を果たせるというものだ。

 これが最後の時空往来だな。
 石門をくぐるとき、感慨が胸一杯に広がった。

 腰を屈めて石門をくぐり、顔をあげた。
 ない! 赤坂邸がなくなってしまった!
 石門の内側は、外側から見た通り、石塔と多宝塔が並んでいるだけだった。

 時空のひずみが解消してしまったようだ。
 予想されたことではある。が、これほど早く、突然にやってくるとは思わなかった。
 終わったな。すべて終わったんだ。

 尻切れトンボになってしまったので、向こうの世界に思いが残る。
 雪姫様は、突然消えうせた異邦人のことをどう思うだろう。最近は、この姫様となら、ずっと一緒にいてもいい…… そんな気持ちになりつつあったが。姫様はどう思っていただろうか。
 老女さま、きれいな人だったなあ。まだ若いのに、未来を捨てた姫様に従って、あのまま生涯を終えるんだろうか。
 東斎さん、気持ちが通じ合い、何でも話せる人だった。もともと高い地位にいた人のわりには物分りがよく、心の広い人だったなあ。
 志乃ちゃん、風鈴涼之進を2回も雪姫様と神隠しに取られちゃって…… でもあの美貌だもの、お似合いのいい人がすぐに見つかるさ。

 みんな、さようなら。
 鼻の奥がツーンとなって、石塔や多宝塔が揺らめいて見えた。

 ……待てよ。よく考えてみるとおかしいぞ。
 この不思議な体験は、あのベンチで居眠りをしているときから始まった。そしてあのベンチで目覚めたときに終わった。
 これ、全部夢だったんじゃないかな。

 振り仰ぐと、明るい日差しがこずえを照らしていた。
 そうだ。夢だったんだ。
 それにしてもおもしろい夢だったなぁ。
               (おわ・・・・)

 ポケットのハンカチで汗を拭こうとすると、ほのかに雪姫様の香りがした。
 手の中に、薄紅色の絹の手巾があった。

                (おわり)

 これが最後の時空往来だな。
 石門をくぐるとき、感慨が胸一杯に広がった。

 赤坂邸は、いつものとおり静かだった。
 これが最後と思うと、涙が噴出しそうだった。長くも短くもあったこちら側での生活…… それも今終わろうとしている。

 東斎父娘は、まだ戻っていなかった。
 1ヶ月余、寝間として使っていた部屋に入ると、自分の家に帰ってきたように感じた。寝転がって部屋中を眺める。
 床の間にかけた掛け軸は、雪姫様の書を表装したものだ。
 「本来無一物」と書かれているというが、庵の掲額同様、達筆すぎて、読めない。

 花は、志乃が生けたものだ。年端も行かない少女のわりには、スケールが大きく、のびのびとした構成だ。
 鹿の角で作った刀架けがあって、大小二刀が架けられている。東斎が、「この時代に居る以上必要だ」といってくれたものだが、重くって…… あんなもの差して歩けるわけがない。
 第一、こっちはチャンバラ映画は好きだが、剣道の心得がない。

 片隅の衣桁には、姫様にいただいた着物がかかっている。
 着物を着ると動きにくいので、洗濯の時しか着たことはないが、身体に馴染んだ「自分の着物」であった。
 羽織、袴もあるが、暑苦しいので着たことはない。
 着流しで庵に行くと、老女さまが怒ったなあ……

 雪姫様……かあ。あははは、それにしてもブスだなあ。
 オレが居なくなったら、さびしがるだろうなあ。東斎や老女さまじゃぁ、わかりきったことばかりで、珍しい話は何にもないからなあ。
 そうだ! 文庫本、まだ最後まで読んでなかったっけ……
 ひとりで読みきれるかなあ、姫様。

 帰り方がわかったんだから、もう少し、せめて文庫本を読み終えるまで、こちらに居ようかなあ。
 でも、あの時空のひずみがいつまでもあのままってことも考えられないからなあ。あそこが塞がれてしまったら、時空の孤児になってしまう。
 ……孤児といっても、ここに、雪姫様のもとに居れば、ねぐらと食い物には不自由はしないなあ。
 でもなあ、人生は食って寝るだけじゃないしな。

 帰る方法は見つかった。帰らねばならないことも確かだった。
 が、思いは乱れる。

 ふと気づくと、すでに日が翳っていた。
 今日中に向こう側の家に帰れると思っていたが、この時間からでは、雪姫様に挨拶に行けない。
 この時代の人々は、早寝早起きだ。明るいうちになすべきことをなし終えて、暗くなると寝てしまう。
 やむをえない、すべて明日のことにしよう。

 そう決めたとき、東斎父娘が帰ってきた。
 夕食をともにしたが、向こう側へ帰る方法が見つかったことは言わなかった。まず雪姫様に話さねばならないと思ったからだ。
 なんとなく浮かない様子が伝わったのか、給仕をしながら志乃が不安げにこちらを見つめていた。東斎は、何も言わなかった。

 翌朝、日課にしていた総門の出入りはしなかった。
 着物を着て、羽織、袴をつけた。好き勝手に振舞ってきたけれど、別れの挨拶のときくらい、きちんとこちらのしきたりを守ろうと思った。
 刀も大小二刀を差そうと思ったのだが、こちらはやはりうまく行かなかったので、小刀だけにした。どうせ姫様に会うときは、大刀は取り上げられてしまう。
 頭のほうは、これはどうしようもない。一月くらいじゃ、チョンマゲが結えるほど髪は伸びない。

 この姿を見て、東斎はなにか言いかけたが、黙って首を振っただけだった。
 志乃は唇をかんで涙ぐんだ。
 勘のいい人たちだ。すでに何が起こるか察しているのだろう。

 雪姫様も、老女さまも驚いた様子だったが、何も言わなかった。
 いつものように丹念に文庫本を読み、勉強を続けた。
 「今日ではありません。この本を読み終えたとき、お別れです」
 一日が終わって、帰り際に姫様にそう告げた。

 昨日までは笑い声も聞かれた二つの屋敷が、この日から凍りついてしまった。

 数日後、文庫本は、「あとがき」まで読み終えた。

 別れの挨拶をしているとき、雷鳴がとどろいた。梅雨明けが近いのだろう。
 「いや!」
 叫んで雪姫様がしがみついてきた。
 色は黒いが美しいうなじが見えた。
 雷鳴がいやだったのか、別れがいやだったのかはわからなかったが、あとのほうの意味と解釈して、力いっぱい抱きしめた。

 誰も見送りにはこなかった。もちろん、神隠しに見送りはいらない。
 沛然と降る雨に打たれながら、総門の通用口をくぐった。
 万感の思いに誘われて振り返ってみると…… 

 松平家の墓所はなく、そこは重々しい赤坂邸の総門だった。

                     (ほんとうに、おわり)