星のレクイエム (下) |
歩き疲れて、四郎は、道路沿いの小さな公園の、たった一つしかないベンチに腰を下ろした。 東京へ来てから、あっという間に一年近くが過ぎた。その間ずっと、四郎は仕事を探し続けていた。 妻の実家へ行った後、四郎は「保証人」をあきらめた。 北陸の町にいたときのように、駅の近くで見つけた木賃宿を仮の住まいにして、職安の係官にはありのままを伝えた。連絡先は旅館だが、できるだけ早く「自分の家」を見つけること、どんな仕事でもいいから保証人の要らない会社を探し出したいこと。 「そんなのないと思うけどね」 係官は、そういって面倒くさそうに書類を受け取った。 ただでさえ条件の悪い中年男である。加えて住居が決まっておらず、保証人もいない。この不景気の世の中、どんな物好きがそんな五十男を雇うというのだ。 どうでもいい。係官にしてみれば、四郎の仕事が見つかろうが見つかるまいが、しめて240日、きちんと認定して失業給付をすればそれで終わり。後はどうなろうと関係がなかった。 だが、四郎には信念があった。 東京は広い。一生懸命探せば、必ず自分を認めてくれる会社があるはずだ。家だって、お金がないわけではないので、贅沢を言わなければ必ず見つかる。そう信じていた。 その信念に従って、四郎は毎日、一心不乱に仕事探し家探しに歩き回った。 「ここ、座っていいかね?」 汚い身なりの男が、ベンチの端を指しながら、四郎に声をかけた。いわゆるホームレス、路上生活者だった。 「ええ、もちろんいいですよ」 「すまないね。誰が使ってもいいと思うんだが、俺たちゃ嫌われもんでね。怒られることがあるもんだから」 「ベンチに座って、怒られるんですか?」 「汚いとか、臭いって言われてね」 言って男はからからと笑った。 確かに臭かった。 それとなく見ていると、男は、水飲み場から腰に下げていたプラスチックのコップに水を汲んできて、持っていた紙袋からパンの耳をつまみ出して食べ始めた。その手が汚れていた。一見して何日も風呂に入っていないことが見て取れた。 「ま、勘弁してよ。このベンチは一回り仕事をしてきて一休みする場所って決めてるんでね」 「仕事? どんな仕事をしているんですか?」 男は、道路を指差した。ダンボールを山のように積み上げたリヤカーが停めてあった。 「資源回収業ってとこかな」 気に留めたことはなかったが、それはいままで何度も目にしたものだった。 積んである荷物は、ダンボールだったり、空き缶だったりしたが、町には決まって薄汚い格好をした男の曳くリヤカーが見られた。近代的なビル群と華やかな商店の街に、リヤカーは不釣合いだった。 「市民の皆さんがね、きれいで快適な生活をしていると、汚い不用品がたくさん出るものなのさ。その汚い不用品を、俺たち汚い生活をしているものが集めておまんまの種にしているってわけだ。世の中うまくできてる」 「忙しいですか?」 「ああ、忙しい。不用品てやつは、いくら集めても次から次へと出てくるからな。集め切れない」 「その仕事、保証人は必要ですか?」 「なにぃ? 保証人だぁ?」 男は異生物でも観察するように、目を丸くして四郎を見つめた。 「あのな、俺たちの世界はな、裸の人間関係で成り立ってるんだ。人と人、信用するかしないかだ。保証人なんか何百人いたって、その人間が信用できなきゃどうにもならんだろうが。いいか、保証人が必要だってことは、その人間が信用できねえってことだ。信用できねえやつは、俺たちの世界では生きていけねえよ」 そうだ! その通りだ。 仕事をするにも保証人、家を借りるにも保証人、つまり誰も四郎という人間の本質を見ていないのだ。 「仕事、手伝わせてください」 「へっ?」 「仕事、探してるんです。保証人がいないから、どこも雇ってくれない」 「いや、俺だって雇えねえよ。自分が食うのに精一杯だからね。……あんた本気でこの仕事をやろうと思ってるの?」 「本気です。どんな仕事でもいい。一生懸命やります」 男は四郎の目を覗き込んだ。 「本気らしいね。でも、あんたたちのやる仕事じゃねえと思うよ。ま、俺にはなんとも言えねえ。親方んとこ行ってみな」 男はリヤカーのダンボールを引きちぎって地図を描いた。 「俺、渡辺幹二。俺に聞いたって、そう言えばいい」 「あなたがナベさんの友達ですか?」 「友達じゃなくて、今日知り合ったばかりなんです」 「知り合ったのが10年前でも1時間前でも同じ、友達は友達でしょう。友達じゃなかったら、ナベさんは私に紹介なんかしません」 親方といわれたので、なんとなくどっしりとした貫禄のあるおっかない大男を想像していたが、こざっぱりとした身なりの眼鏡をかけた小男だった。渡された名刺には、「有限会社協働舎 代表取締役」とあった。 「仕事を探しているんです」 そういって履歴書を差し出すと、眼鏡の向こうの目が大きく開き、不思議なものを見るように四郎の目を見つめた。 「こんなものは要りません。あなたが過去のどんなことをしてこようと、あるいはどんなご身分であろうと関係ないんです。大事なのは、未来です。明日に向かって真剣に生きるかどうか、それこそが問題なんです。わかりますか? ここにはね、それまでの人生で背負わなければならなかった大きな荷物に振り回され、行き場を失った人たちがいっぱいいます。奥さんや家族、親戚との折り合いが悪くて逃げ出した人、借金取りに追われている人、何をしたんだか警察に追われている人もいます。もともとの職業で言えば、サラリーマンだった人、会社の社長さんだった人、弁護士さんだったなんて人もいます。それぞれ皆、事情があって背負いきれなくなったそ荷物をね、全部降ろして、素っ裸になって未来を目指そうとしているのです」 眼鏡の奥の目がきらきら光っていた。 翌日から、四郎はリヤカーを曳いて街に出た。 四郎の胸は、希望に膨らみ、喜びであふれていた。 ……この仕事は、しかし、意外に難しかった。 ダンボールは、キロ五円。一日最低六百キロ回収して三千円。リヤカー一杯で約二百キロ、一日三回リヤカーを満杯にする。それが基本だと教えられた。 甘く見ていたわけではない。が、しょせん街にあふれる不用品を集めてくるだけだから、倦まず弛まず一生懸命やればそのくらいはできそうに思えた。 確かにダンボールは街にあふれていた。 商店の前の路上には、それがどんなに小さな店でも、空になったダンボール箱の二つや三つは置いてあった。 だが、そういうダンボールが不用品であるかどうか、不用品であっても自分が持って行っていいかどうかを見極めなければならなかった。 捨ててあるように見えるダンボールであるが、ゴミ捨て場に出されるまではまだゴミではなく、所有者が存在する。さらにゴミ捨て場に置かれたものでも町内会の廃品回収品だったりする。 それを知らずに持って行こうとして、四郎は、怒鳴りつけられたり、警察を呼ばれたりもした。 リヤカーを曳き始めて十日ほどが経過した。 毎日、必死になって歩き回ったが、四郎の「成績」は上がらなかった。せいぜい数十キロ、いちばん多い日でもやっと百キロを超える程度で、先輩たちのように二度も三度もリヤカーを満杯にすることはできなかった。 「どうして私はだめなんでしょう?」 夕方、仕切り場に戻ったナベさんを捉まえて、四郎は、教えを請うた。 「知らねえよ、そんなの。自分のことは自分で考えるんだ。それよかどうだい、酎ハイ、おごってくれねえか?」 「いいですよ」 「へっ? 気前がいいんだな。……今日はいくら稼いだ?」 「四百二十五円」 ナベさんは、初めて会ったときと同じように四郎の目を覗き込んだ。 「酎ハイっていくらだか知ってんのか?」 「知りません。酒は飲まないので」 「缶に入ったやつが一本百二十五円だ。俺は三本飲みたい」 「いいですよ」 四郎は、財布から千円札を抜いて差し出した。 「ほう。金持ちなんだな」 「金持ちじゃありませんが、しばらく食べて行くだけのお金はあります」 ナベさんの表情が険しくなった。 「利いた風なこと抜かすな。食うカネはある、だと? じゃ、なぜ働くんだよ? 金持ちの道楽か? いいか、よぉく聞けよ。俺たちゃな、飯を食うために死に物狂いで働いてんだ。ダンボール一枚積むごとに、これで米粒が何粒食えるか考える。腹いっぱい食うために、ダンボールがあと何枚必要か、そのダンボールをどうすりゃ手に入れられるか、それを考えて働いてるんだ。仕事がうまくいかねえ? あたりめえだ。食う心配がなくてうまくいく仕事なんかどこにある。食うためにカネが要る。そのカネを稼ぐために仕事をするんじゃねえのか? そのカネがはじめっからあるんじゃ仕事にゃならん。それが道理じゃねえか?」 「……」 「あんた、ねぐらはどこだい?」 「駅前の菊屋旅館に泊まってます」 「高けえだろ?」 「いえ、四千五百円です」 「高けえよ。俺たちが泊まるドヤは千二百円だ。それでももったいねえから地下道や高架下で雨露をしのいでる。ちっと稼ぎの多い連中は、ビニールテントを仕入れてよ、公園や川っぷちの人様に迷惑をかけねえところに小屋を作って住んでるんだ」 「……」 「あんたの仕事がうまくいかねえわけなんか俺にはわからんが、カネがあって食うに困らねえうえ、毎ン日、あったけえ布団にくるまってぬくぬく寝てるんじゃ、身体も動かなけりゃ、知恵も働らかねえと思うよ」 「今日の稼ぎが四百二十五円。俺に酎ハイを三杯おごると残りは五十円。そのうちせめて十円は貯金して四十円で食ってゆく覚悟がなけりゃ、この仕事はできねえよ」 「四十円じゃ何も買えません」 「そんなこと、俺の知ったことじゃない。なんか買って食いたいんだったら俺に酎ハイをおごらないことだ」 「四百二十五円でも、弁当は買えません」 「あのなあ、あんた、どういう計算で仕事してる? 四百円でも四千円でも同じことだ。稼いだカネを使っちまったり、足りねえからって昨日までの稼ぎを足し前にしてたんじゃ、カネは溜りっこねえだろ? 一ン日働いて四百二十五円。結構じゃねえか、働かなきゃゼロなんだから。でな、そのカネを使っちまったら元の木阿弥、つまり昨日へ戻るってことだ。昨日へ戻らず、今日を明日につなげるためには、今日の稼ぎを一円も使わずに明日に繰り越すってことだ」 「お金を使わずに、どうやって食べてゆくんですか?」 「だからそれは自分で考えなって。パン屋の裏口へ行けば親切な奥さんが要らなくなったパンの耳をくれたり、豆腐屋じゃ豚に食わせるおからがごまんと出る。コンビニなんか買えば六百円もする幕の内弁当を消費期限切れで捨ててるんだ。もったいねえと思わねえか?」 「せっかくだ。もらっとくよ」 呆然としている四郎の手から、ひったくるようにして千円札をもぎ取ったナベさんは、近くの酒屋を目指して走り去った。 翌日、四郎は、手元にばら銭を残して、娘の郁美に宛てて、残高欄に八桁の数字が並ぶ預金通帳と印鑑を郵送した。 これで丸裸になったが、四郎は不安を感じなかった。 そして一ヵ月後。 「ちょっと積み過ぎたかな?」 四郎は、ダンボールを満載にしたリヤカーを渾身の力を込めて引っ張っていた。ざっと見て三百キロ近く積んでしまったので、リヤカーはぴくりとも動かなかった。 預金通帳という「過去」を捨て去ったあの日以来、四郎の「明日」を目指す働きは目覚しかった。数日にして、協働社の稼ぎ頭に躍り出て、先輩たちを驚かせたものだ。 「家」もできた。 大きな公園の片隅に、拾い集めた材木とダンボールで小屋を作り、青いビニールテントですっぽり覆った「家」だった。ナベさんを始め、仲間たちが協力してくれて、鍋釜から食器類、布団など夜具まで揃えてくれた。 「家」には、ラジオもあった。 四郎がいつもダンボールをもらう電器店のプレゼントだった。長く店頭で展示されていたが、売れ残ったまま型が古くなったため処分されたものだった。CD、MDデッキがなく、カセットテープデッキが一個だけついていた。 「これも持っていくか?」 電器店のオヤジさんは、菓子箱に詰め込んだカセットテープもくれた。試聴用のテープで、使い古してまともな音は出ない代物だったが、四郎は涙が出るほどうれしかった。歌謡曲あり、クラシックあり、そしてジャズがあった。 「家」には電気がないので、乾電池だけは買わなければならなかったが、四郎は、ベニー・グッドマンに、グレン・ミラーに久しぶりに陶酔した。マイルス・デイヴィスやアート・ブレイキーとは、久しぶりに会った古い友達のように、夜を徹して語り明かした。 「少し降ろすしかないな」 リヤカーは、押しても引いても動かなかった。荷を軽くして仕切り場へ戻り出直すしかなかった。 そう考えて引き棒を降ろし、リヤカーの右側に出た…… 四郎の記憶はそこで途切れている。 なにが起こったのかは、三日後に病院のベッドで意識を取り戻し、医師や警察官から説明を受けて知った。 四郎は、乗用車と衝突し、三十メートルも跳ね飛ばされたのだった。 左膝間接粉砕骨折、左頸骨複雑骨折、頭骨陥没骨折、脳挫傷…… ほかに全身に創挫傷があり、カルテには二十を超える傷病名が並んだ。 四郎の入院は、九ヶ月に及んだ。 通常なら六ヶ月ほどで退院が可能だったのだが、退院して帰る「家」が公園の仮小屋と聞いて、医師が退院を許可しなかった。 四郎の左足は、切断は免れたものの、機能を失ったいた。膝の関節が壊滅していて、補装具をつけても踏ん張ることができず、松葉杖が手放せなかった。 病院の玄関まで、花束を持った看護婦さんたちが見送ってくれた。 迎えはいなかった。いや、一人だけ、保険会社のサービス担当者が示談の書類を持って待っていた。 この事故による補償は、病院へ直接支払われた治療費を除き、休業補償、慰謝料、後遺障害補償などをあわせて、一千五百万円ほどだった。強く要求すれば、示談金をもっと増やすことができそうだったが、四郎にその気持ちはな かった。 「お金は一生懸命働いて稼ぐもの」 依然として、それが四郎の信念だった。 松葉杖にすがりつつ、再び仕事探しの毎日が始まった。 協働社へも行ってみたが、リヤカーが曳けないとあっては四郎にできる仕事はなく、未来を語る眼鏡の親方も腕を組んでため息をつくばかりだった。 でも仕事はある。必ずある。 昼間は仕事を探して街を歩き、夜は、こうして音楽を聴きながら流れ星を探す。それが四郎の日課だった。 テープが、四郎のお気に入りを流し始めた。 ホーギー・カーマイケルの名曲「スターダスト」。グレン・ミラー楽団の演奏だった。 目を閉じて、美しい音楽とともに星空に舞い上がろうとしたときだった。四郎の腹部を強烈な打撃が襲った。 「こんなとこに寝るな! ベンチが汚れるじゃねえか!」 「臭えんだよ! てめえらは、ゴミ箱で寝ろ!」 「ここは人間様の公園だ! ブタは出て行け!」 見回すと、四郎は四、五人の少年たちに取り巻かれたいた。少年たちは、金属バットや鉄パイプを手にしていた。 「やっちまえ!」 金属バットを持ったリーダーらしい少年の声に、彼らはいっせいに獲物を四郎にたたきつけ始めた。 何も考える余裕はなかった。 逃げようとしたが、身体は思うように動いてくれなかった。ベンチから転げ落ち、松葉杖に手を延ばして身を起こすのがやっとだった。 コーン! 後頭部に衝撃があった。 衝撃とともに全身の痛みがすぅっと引いた。 再び地面に転がった。公園の冷たい土はむしろ心地よかった。 見上げる夜空が崩れて、星がいっせいに流れた。ゆっくりと。 「これなら間に合う。お祈りをしなくちゃ」 四郎は目を瞑って、願い事を唱えた。 「仕事をください」 夜が明けた。 暖かい朝日が降り注ぎ、茂みの葉先の霜を溶かした。 露が滴って母の涙のように四郎の頬をぬらしたが、四郎の頬はすでにその露よりも冷たかった。 |