他 人 の 橋

(4)


   4.春・・・

 年が明けた。
 高熱はおさまり、床は上げたが、ひげ面はずっと店を開けないでいた。
 微熱が続いていることと、身体にまだ力が戻ってこないためだった。
 ほとんど全身に彫りこまれた刺青のため、皮膚による新陳代謝、つまり発汗作用が弱くなっていて、体温調節ができないのだ。
 律子は毎日、ひげ面の部屋に通って、食事と身の回りの世話をした。
 あの翌日、ひげ面の様子が落ち着いたのを見はからって、いったん自分のマンションに戻り、身の回りのものと布団を一組、ひげ面の部屋へ運び込んだ。
 律子は、そのままひげ面の部屋に泊まりこむつまりだった。どうしてそんな気になったのか、律子自身にも説明ができなかった。
 ほとんど物事に動じたことのないひげ面も、律子が布団まで持ち込んできたのにはさすがに慌て、激しい抵抗の意思を示した。
 「病人は黙っていなさい」
 「あんたが来るなら、自分が出てゆく」
 そういう言いあいの結果、「こういうのを言うのかな」と律子が考えた押しかけ女房作戦は失敗し、その代わり、仕事ができるようになるまで、という期限付きの通い妻を、「放っといてくれ」と言い張るひげ面に認めさせた。

 大晦日のことだった。
 律子がコインランドリーから戻ると、部屋には、客が来ていた。一見して無頼の筋のものとわかった。
 律子は不思議な気がした。あの刺青からすれば、こういう仲間がいても不思議ではないはずだが、なぜかひげ面には仲間や友人の存在がふさわしくないと感じた。
 ひげ面は男に金を渡していた。足りない様子だった。
 そのことで押し問答をしていたようだが、客は、律子とひげ面を見比べ、ややあって卑猥な薄笑いを浮かべて「とっつぁんもやるもんだ。また来るぜ」と言い残して帰っていった。
 「誰なの?」
 ひげ面に質してみたが、答えはなかった。
 律子は、ひげ面を追い立てて掃除にかかった。客の座っていたあたりをとくに念入りに掃き清めた。

 よく晴れて穏やかな正月三が日だった。
 律子はずっとひげ面とともにいた。正月を人と過ごすのは、母が死んで以来初めてだった。夜になると追い返されることを除けば、楽しく、幸せな正月だった。
 三日には、「どこへも行きたくない」というひげ面を車に押し込んで、文京区の東のはずれ、根津神社に初詣に行った。これは、律子の仕事を兼ねたものだった。
 律子は、ひげ面と自分の健康を祈念し、とくにひげ面と共に暮らせるようになることを祈願した。
 拝礼のあと、御神籤を引くと、「大吉、願い事かなう」とあった。
 ひげ面も籤を引いたが、チラッとみただけで、手のなかに揉みこんでズボンのポケットに突っ込んでしまった。
 「明日から、店を開ける」
 部屋に戻るなり、ひげ面が言った。それは、楽しい日々の終わりを告げる言葉だった。
 「まだ無理じゃない? ふらふらしてるわよ」
 「食ってかなきゃならんのでね」
 「お父さんが食べるくらい、私が……」
 「馬鹿なことを考えるんじゃない。働くことは人間の一生の義務だ」
 「……」
 「ありがとう。何も礼はできないが、こんどのことは一生恩に着る」
 「恩だなんて……」

 律子はひげ面の胸に抱きついた。なぜか涙が湧きあがった。
 抱いて欲しかった。いますぐひげ面の女にして欲しかった。
 ひげ面が、軽く律子の肩を叩いていった。
 「帰ってくれ」
 律子は知らなかったが、ひげ面の御神籤には「凶」とあった……


 桜の便りが聞かれる季節になり、「西影律子写真展」がオープンした。
 会場の文京シビックセンターは、後楽園遊園地や東京ドームの隣にあって、このあたりではひときわ大きい26階建てビルである。
 ビルの大半は文京区役所の庁舎だが、ほかに区関連団体の事務所があるほか25階には、広く文京区全体を見渡せる展望室を備え、また各種行事に多目的に利用できるよう、大小ホールや、会議室、展示場などがある。
 1階には、「シビックギャラリー」と「あーとさろん」という二つの展示場があるが、この二つとも借り受け、一方を文京区内を紹介した「ふれあいさんぽ道=撮影:西影律子」とし、もう一方を「西影律子写真展=日陰の構図」と区分してあった。

 初日から盛況で、律子は、連日、招待客の応対に追われた。
 律子自身が招待したのは、友人、知人、カメラマン仲間や、撮影活動に協力してくれた人々、福祉関係のボランティア・グループなどだったが、顔の広い杉田が「俺の子飼いのデビュー戦だ」と、出版社仲間から、著名な写真家をはじめ、評論家、マスコミ関係者から、一部の芸能人にまで招待状をばら撒き、1ヶ月も前から、次々と電話をかけて呼びかけたため、名もない新進の写真家の個展とは思えない賑やかさとなった。

 個展の最終日のことだった。
 律子は、人の流れの中にひげ面の姿を見出した。
 「やっと来てくれた」
 ひげ面には、自分の仕事を見てほしいと思ったので、出来上がってきたばかりの招待状を真っ先に届けた。
 「必ず見に行く」
 ひげ面はそういって招待状を受け取った。
 ひげ面には、あえて黙っていたが、展示写真の中に「憩い」と題した2枚組があった。あの、盗撮した写真だった。
 夜の闇の中にうっすらと見えるビルの谷間、小さな屋台の灯りが浮かぶ。風にあおられた暖簾の間に、なにやら調理をしている白衣の男が小さく見える…… 一日の仕事を終え、家路をたどる道すがら、ちょっと寄ってみようか、そんな思いを起こさせる1枚。もう一枚は、哲学的と形容してもいいような表情の、ひげ面のアップだった……

 「西影先生」
 折りしも自分の写真の前に立ったひげ面のところへ向かおううとした律子を、一人の老人が呼び止めた。区内取材の折、臨時の助手を勤めてもらったアマチュア・カメラマンの沢井だった。
 「お忙しいところを申し訳ありませんが、ちょっとお話を……」
 すぐにひげ面の側に行きたかったが、仕事上世話になった沢井老人を無視するわけにはいかなかった。
 自分の写真の前で腕組みをし、なにか考え込んでいる様子のひげ面に心を残しながら、律子は、老人を応接コーナーに案内した。
 「先生は、伊藤五郎をご存知なんですか?」
 「伊藤五郎? いいえ」
 「ご存知ない? 実は私、かつて岩手県警の警察官だったんですがね……」
 ズキーンと律子の全身に痛みが走った。
 岩手県警。その言葉だけで十分だった。伊藤五郎という名は実際に知らなかったが、それがひげ面の名であると直感した。「おとうさん、逃げて!」そう叫びたかった。

 「伊藤五郎というのは、殺人の容疑で指名手配されていた男です。いや、もう30年以上昔のことで、すでに時効の成立した事件なんですがね」
 「その、伊藤五郎…… と私が、なにか?」
 「いえいえ、先生の作品の中に、伊藤五郎ではないか、と思える写真があったものですから……」
 「どの写真でしょうか?」
 言ってしまってから、律子は「しまった!」と思った。いま、その写真の前に伊藤五郎は、いる。もし老人が、その写真のところに行こう、と言い出したら、どうしよう。
 老人は「元警察官」だといい「時効が成立している」とも言った。しかし、ではこの老人は、何のために律子に伊藤五郎の話を聞きにきたのか。うっかり話しに乗ってはいけない!
 「あの屋台の写真ですよ」
 老人は、律子の緊張感に気づいた様子もなく、次のような話をした。

 沢井老人と伊藤五郎は、同じ村に生まれ育って、歳は違うが顔見知りだった。
 伊藤五郎は、少年時代から「手のつけられない暴れ者」で、成人したころには、盛岡市内の暴力団の事務所に出入りし、歓楽街の揉め事には必ずといっていいほどその名が浮かび上がって、たびたび警察の厄介になっていた。
 ところが、ある時期を境に、伊藤五郎の暴力騒ぎがパタッと止まり、警察官だった老人の耳にその名が聞こえることがなくなった。
 伊藤五郎は正式に組員になり、いい顔になったので暴力を使う必要がなくなったのではないか、と思っていたが、そうではなかった。後になって分かったことだが、伊藤五郎は、むしろ足を洗おうとしていたようだった。

 ある夏の日、市内の飲食店経営者が、愛人宅で殺害されるという事件が起こった。
 死因は、腹部の刺し傷による失血だった。つまり、刺されてからかなりの時間を経過した後死亡したもので、刺された直後に手当てをすれば死にいたることは無かった、と推定された。
 死体は、飲食店の従業員により発見されたものだが、発見時、すでに腐敗が進行しており、死後二日ほど経過していた。
 事件発生時は在宅していたと思われる愛人の行方がわからなかった。
 凶器はこの家にあったと思われる包丁で、死体の傍に投げ出されていた。その包丁には、べたべたと伊藤五郎の指紋が残されていた。

 単純な事件だった。
 女の奪い合いのもつれから、いい仲になっていた伊藤五郎が、旦那を刺した。そういう構図だと推測された。
 伊藤五郎の行方もわからなくなっていた。愛人と二人で逐電したものとみられ、二人は指名手配された。
 「ちょっと違うんじゃないか、私はそう感じてるんです」
 老人は、自分で自分の説明に疑義をはさんだ。
 「伊藤五郎は、かっとなって包丁を振り回すタイプじゃない。ゲンコツで殴り殺したって言うんなら、間違いなく伊藤五郎の仕業なんですがね。死体には刺し傷以外には殴りあったような痕跡はありませんでした。ま、包丁から指紋が出ているので、これは私の思い違いかもしれませんが」

 指名手配はされたが、その後二人の行方は不明のままだった。
 時が経てこの事件は時効となった。
 それを待っていたかのように、愛人の行方が知れた。
 愛人は新潟県内の病院で死んでいた。救急車で搬入され、翌日死んだ。明らかに病死で事件性は無かったが、偽名を名乗り、健康保険証を持っていなかったため、警察に届けられ、全国に照会されて判明した。
 救急車を呼んだのは夫だという男で、死亡後、霊安室まで付き添ったが、いつのまにか姿を消したという。
 「旦那を殺したのは、実は女じゃないかと、私は思ってるんです。その場に伊藤五郎はいなかった。女から、旦那を刺したと知らされて、凶器に自分の指紋をつけて身代わりになった…… いまさらその事実が明らかになってもどうなるものでもないんですがね」

 老人は、10年ほど前に警察を退職した。
 長い警察官としての人生の間に、自分の知っているものが犯罪にかかわったのは、伊藤五郎ひとりだった。だから、退職後も、ずっと行方のわからない伊藤五郎のことが気になって仕方がないのだと言う。
 伊藤五郎は、あの女と知り合い、愛した。
 愛は、彼から暴力を奪い、彼に人生を変えようと考えさせた。
 人生は変わった。殺人という犯罪、もしくはそれにかかわる形で……。
 愛する女と共に、彼は逃亡生活に入った。
 幸せが得られると思ったのだろうか。
 「どちらが犯人だったにせよ、時効までの逃亡生活は、生易しいものではなかったはずだから、二人が幸せだったとはとうてい思えません。でも、自ら選んだその人生に悔いが無く、つかの間でも幸せを感じたのなら…… 元警察官がこんなことを言ってはいけないかもしれないが、私はそれでよかったんじゃないかと思う」
 もしいま、伊藤五郎に会うことがあったなら、それを確かめ、これからの人生を励ましたかった、と老人は結んだ。

 あの写真の人物が、伊藤五郎であると言い切る自信は無い。似ているとしか言いようはないが、ともかく会ってみたい。
 あの屋台の場所を教えて欲しい、というのが老人の用件だった。
 老人の言葉に嘘はなさそうだったが、律子は返事をしなかった。
 黙っている律子の表情を見て、老人はなにかを察したようだった。
 「気が向いたら、でけっこうです。もちろん本人にお話になってもかまいませんよ。私のことは知っていると思います」
 律子には、どうしたものか判断ができなかった。
 今夜は屋台に行こう。おとうさんに話して、自分で決めてもらおう……

 出版社に戻ると、受付嬢に呼び止められた。
 「先ほど男の方が見えて、これを西影さんに渡して欲しいと……」
 カウンターの下からペーパーバッグを取り出した。
 なんだろう?
 「誰かしら?」
 「お尋ねしたんですけど、名前はおっしゃいませんでした。渡せば分かるとだけおっしゃって」
 「どんな人?」
 「年配の方で…… あの、白髪まじりの無精ひげ……」
 「わかったわ。ありがとう」
 おとうさんだ!
 胸が騒いだ。

 ペーパーバッグの中には、新聞紙で包んだ鉄瓶が入っていた。まぎれもなくお父さんが愛用していた、あの南部の鉄瓶だった。

 南部鉄瓶は、鑑賞する時、向かって右側に注ぎ口が来るように置く。こちらが正面で、さまざまな絵柄が施されている。
 反対側には、家紋のような文様の刻印がある。これは、製作者の刻印で、過去数百年の伝統をもつ店の鉄瓶にのみ見られるものだ。
 律子は、岩手へ行った時「小鳥のようにさえずる鉄瓶」を買おうとしたが、こういう刻印のある銘品は、数十万円の値札がついていたのであきらめたものだった。
 この鉄瓶は、おとうさんのたった一つといっていい財産だ。
 あの老人の言う伊藤五郎がおとうさんだとしたら、ふるさとを離れ、困難な逃亡生活の間、ずっと手放さずにいたもの…… まさに宝物だった。

 自分が最も大切にしているものを人に贈る…… それはどんな時だろうか。
 ……別れ!
 律子の胸に嵐が吹いた。
 編集部を飛び出した律子は、屋台に向かって走った。
 神田川にかかる白鳥橋までくると、いつものところに見慣れた屋台の灯りが見えた。
 ほっとした。
 別れではなかった。
 屋台の近くで立ち止まり、呼吸を整えた。

 夜はまだ肌寒いので、風除けのシートがおろしてあった。
 シートの端をめくって中に入ると「いらっしゃい」と声がかかった。
 声の主は若い男で、真新しい白衣を着ていた。ひげ面はいなかった。
 「おとうさんは?」
 「……?」
 「おとうさん、ううん、ひげの大将。ここのご主人」
 「ここ、俺の店だけど……」
 「……? あなたの? でもこの屋台は……」
 「ああ、前の人のことね。知らねえんだ、俺は」
 「知らないって言っても、この屋台は…… どうしたの?」
 「この屋台はレンタルでね、元締めから借りてるのさ」
 「前の人も借りてたのかしら?」
 「知らないけど、そうだと思うよ。こういう屋台は、設備も何も全部まとめて貸してもらえるんだ。酒や食べ物もツケで買えるから、借りたその足で商売をはじめられる。店を開く場所も決めてくれるから、気楽なもんさ。お姉さんは前の人の客だったのかい? 今日からは俺の客になって……」

 最後まで聞かずに、律子は屋台を出た。
 タクシーを停め、おとうさんのアパートへ急がせる。
 おとうさんはいなかった。
 なにも変わった様子はなかった。もっとも、もともとなにもない部屋だから変わりようがなかった。
 燃焼式ガスストーブ、鍋や食器、折畳式のちゃぶ台……
 みんな、ある…… 前に来た時のままだ。
 いや、なにか違う。なんだろう?

 風鈴。
 律子が岩手のおみやげで買ってきた、あの南部鉄の風鈴がなかった。冬の間も天井から吊ってあった、あの風鈴……

 隣室のドアを叩いてみた。答えはなかった。ほかの部屋も、人の気配はなかった。
 アパートの、同じ建物のはずれに、他の部屋とは違うドアをしつらえた大き目の一室があり、明かりが見えた。家主か管理人宅のようだった。
 ドアを叩くと小太りの中年女が出てきた。
 「ああ、ゴロちゃんかい? 出て行ったよ」
 ゴロちゃん? やはり伊藤五郎なのか。
 「どこへ行ったか分かりませんか?」
 「ああいう人たちはねえ、風任せだから……」
 「でも、荷物がまだ……」
 「置いていったんだよ、あたしにくれるって。いらなきゃ捨ててくれって」
 「連絡先とか、たとえば保証人とか……」
 「こういうアパートはね、そういううるさいことを言わないものなの。家賃さえちゃんと払ってもらえればそれでいいんだからね。なかには逃げちゃうのもいるけど、ゴロちゃんはきちんとしてたねえ。出てゆく時も挨拶に来たし」
 「私のこと、なにか聞いてませんか?」
 「あんた、だれ?」
 「……娘です」
 女房です、と言いたかった。

 「行ってしまった」
 律子は、アパートを出、近くの神田川にかかる小さな橋に立った。
 折からの風に乗って、川沿いの桜並木から花びらが舞い、律子の立つ面影橋を白く埋めていった。