他人の橋 (3) |
3.冬 秋が深まり、屋台には風除けのシートが張り巡らされるようになった。 「いや、だからね。不倫は文化だ、なんて、石和純一とかいう軽薄な芸能人みたいなことを言うつもりはないよ。だけど、恋愛感情ってのは、相手に亭主や女房がいるかいないかは関係ないだろ?」 「心ん中で何を考えようと、そりゃあ勝手だよ。なんならあの憎たらしい課長を絞め殺したっていい。だけど実行しちゃいけない。それとおんなじだ。惚れるのは勝手だが、よりによって亭主持ちの女を口説きにかかるってのが問題だ」 「課長をたたっ殺すってのは、賛成だ。思ってるだけじゃおさまらん。やるんなら手を貸すぜ。ただし、亭主持ちの女を口説くほうは、手を貸してもらわんでいい」 「おいおい、人殺しと不倫をいっしょにするなよ」 「人殺しの話を持ち出したのは、あんただろ?」 「ちげえねえや。あはははは」 律子のほうをちらちら見ながら、セールスマン風の二人が、酒の勢いもあって穏やかならぬ話をしている。女性向とはとうてい思えない屋台に、女性が一人で来ているのだから、好奇の眼で見られるのは仕方がなかった。 こんな連中早く帰って欲しい、こいつらが帰ってくれればひげ面と話ができる、そう思いながらも律子は、二人の会話を聞くともなしに聞いていた。 私のお父さんはどんな人なんだろう。 母は固く口を閉ざしたまま死んだ。そのことについては兵庫県にいまも健在でいる祖父母も知らなかった。 母は律子の出産にあたって誰にも頼らなかった。また、その後の生活についても、実家に戻るようにとの説得も拒んで、母子二人だけで生きてゆく道を選んだ。 幼児期はもちろん記憶にないが、物心ついてから以降、律子は父と思える人の影すら見たことがないし、母が父またはその他の誰かから生活の援助を受けている様子もなかった。 父とは母は、どういう関係だったのだろう。 律子ができるほどの関係だったのに、結婚はしなかった。つまり、結婚のできない、何らかの障害があった。しかも、それは自分の父母にすら相談できない障害だった。 ……不倫。そう考えても不自然ではない。 他に客のいないとき、ビールで唇を滑らかにして、ひげ面に母のことを話したことがある。 「お母さんは、娘のことを真剣に考えて、最善と思う道を選び守り抜いた。お母さんの気持ちを大事にするなら、詮索をしないことだ」 めったに自分の意見を言わないひげ面の答えだった。 「そうはいっても、親のいない子供が、自分の親のことを知りたいと思うのは自然じゃないかしら?」 「……」 「仮にいま、父のことが分かったとしても、私はどうしたいわけでもないのよ。生きているのか死んだのか分からないし、生きていたとしても、父に何かしてもらいたいとか、恨みつらみをいいたいわけでもない…… ただ、ふつうの人はみな、自分の父母のことを知っているでしょ? それと同じように私も知っていたいだけ。知りたいと思うこともいけないのかしら?」 「……」 「お母さんは、貧しく苦しい生活をしながら、誰もに頼ろうとせず、死に物狂いになって私を育てた。いまの私、お母さんの願ったような大人になったかどうかわからないけど、自分で考えた人生を自分の足で歩くことができるようになった。お母さんのおかげだと思う。でしょ?」 「……」 「でもね、ひとつだけ、自信がないことがあるの。私、今は一人だけど、いずれは神様の決めた人と一緒になって子供ができて…… そんなときにね、父と母の愛の形、それがどういう結末だったかを別にして、それを見て育ったかどうかはとても大事だと思う。それが、私にはない。どういう家庭を作ればいいのか、お手本がない……」 ひげ面は、黙ったままだったが、律子の話をきちんと聞いていた。 パンフレットの製作と律子の個展の準備は、着々と進んでいた。 観光写真というものは、対象となるものをただ撮ればいいというものではなく、たとえば小さな石塚ひとつとってみても、その故事来歴から、付近の生活とのかかわりまでを把握し、かつ写真を見るものに「現場へ行ってみたい」という気持ちを起こさせねばならない。 律子は、月刊旅行雑誌の取材をこなしながら、文京区内を緻密に歩き回り、あるときは付近の人々の声を聞き、あるときは図書館に通った。 文京区内には、実に多くの文人墨客の足跡が残っている。 石川啄木もその一人だが、実際には写真にするようなものはほとんど存在しない。石川啄木に関して言えば、本郷と小石川に「旧宅跡」というのがあるが、1911年、肺結核で死んだ小石川の旧居跡は「石川啄木終焉の地」と書かれた記念碑があるのみであり、1909年、朝日新聞の校正係時代に住んだ本郷の「喜之床」も、現在でも理髪店だが、もちろん当時の建物ではない。ちなみに、当時の建物は、愛知県犬山市の明治村に移築保存されているという。 「やはらかに 柳あをめる 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに」 この歌は、本郷時代に出版した歌集「一握の砂」に掲載された、故郷、岩手県渋民村(現玉山村渋民)をしのぶ望郷の歌といわれている。 お父さんは渋民の人じゃないかしら…… 「たいした仕事じゃない」と杉田は言ったが、文京区観光パンフレットの仕事は、とりかかってみるとけっこう奥が深かった。 必要な観光スポットの写真撮影だけだったら数日で終わってしまう程度の仕事だが、たとえば「花のスポット」は、その季節に訪れなければ意味がない。また建物などのモニュメントにしても、記念行事や季節的な特徴のあるものが多い。 そのために、パンフレットの発行予定は1年後で、つまり取材期間は1年間あるのだが、丹念に追って行くとけっこう忙しくて、取材漏れや撮影をし残したものも多かった。 その穴を埋めるために、というわけではなかったが、律子は数人の「助手」を手に入れた。皆、律子の父母とも言えるほどの年寄りだが、知識も豊富だし、なによりもプロはだしの撮影技術を持っていた。 この「助手」たちは、いわゆる老後の楽しみをカメラに求めた人たちで、各スポットを回っているうちに顔見知りになったものだった。 「助手」のリーダー格となった沢井という老人とは、「一葉の井戸」と呼ばれる樋口一葉の旧居跡で言葉を交わすようになった。その数日前、振袖火事で有名な八百屋お七の墓(円乗寺)で顔見知りとなったものだった。 「2年前に家内に先立たれてから、息子夫婦の家に同居していましてね、なにしろヒマだから、こうして毎日、カメラを担いで近所を歩き回っているんですよ。年金生活になってから始めた写真の趣味だから、下手の横好きってヤツですがね……」 老人はそういって笑ったが、手持ちの写真を見せてもらってびっくりした。何気ないスナップだったが、見事に情感を写し出していて、腕前の確かさを感じさせた。 「今夜は、久しぶりにホワイトクリスマスになるかもしれません」 そう言った天気予報にたがわず、東京は夕方から小雪が舞い始めた。 退社時刻の5時を過ぎると、いつもは大半が残業していて騒がしい編集部ががらんとなり、汗ばむほどに暖房が効いているはずの部屋が寒々と感じられた。 皆、それぞれ、家族や友人とクリスマスのひと時を楽しむために、帰宅し、あるいは街へ出て行ったようだ。 「カゲおばさんは、まだ帰らねえのかい?」 いつもなら、全員が退社するまでデスクに陣取っている杉田が、コートを着込み、家族へのプレゼントが入っているのであろうか、大きな紙袋を提げて、律子の席にやってきた。 「うん、ちょっと予定があるの。時間が早いから……」 「予定って、仕事じゃないだろうな。やめとけよ、こんな日は……」 「ふふ、デートよ」 「おっおっ! 今、デート、って言ったかな? それとも俺の耳がおかしくなったかな? 相手は男か?」 「なに、その言い方。はばかりながらカゲおばさんは、ちょいとその気になれば、男の二匹や三匹はすぐ捕まえられるのっ!」 言ってはみたが、いま律子の胸のうちあるひげ面の男は、そう簡単に捕まえられそうになかった。 「で? カゲおばさんに捕まえられた果報者ってのはどこのどいつだ?」 「さあね」 「なんだ、水くせえな。長い付き合いの俺にも教えられねえのかい?」 「ほらほら、早く帰らないと七面鳥がさめちゃうわよ」 「ちぇっ、はぐらかしやがって…… あのなあ、俺んちみたいな貧乏人の食卓には七面鳥はでかすぎて乗っからねえの」 「じゃ、すき焼きってとこかな? 鍋奉行が帰ってこないとみんな飢え死にしちゃうよ」 どうやら、当たりのようだった。何か言いかけたが、杉田は首を振りながら帰っていった。 7時になってから、律子は誰もいなくなった編集部を出た。この時刻を過ぎないと、ひげ面の屋台は開店しない。定位置にしているビルのシャッターが閉まらないからだ。 ちらちらと小雪が舞い、鼻の奥まで凍りそうに寒かった。 途中、洋菓子店に寄って、予約しておいたケーキを受け取った。 クリスマス・イブ。世の中が華やいでいる夜、マンションで一人過ごすのはさびしかった。 ひげ面の屋台も、ほとんど客を当てにできない夜だろう。こんな夜ならケーキでも食べながら、ひげ面とゆっくり話ができるのではないかと思った。もっとも、ひげ面の屋台は、いつも暇なのだが…… 雪も降っているし、こんな日はもしかしたら休んでいるかもしれない。休みだったら、あのアパートに押しかけよう、と思っていたが、ひげ面の屋台はいつものとおり、ちょうちんの儚げな灯りをともしていた。 風除けのシートをめくるようにして、体を滑り込ませる。 おでんの鍋が白い湯気を立てていたが、ひげ面はいなかった。 小用にでもいったのだろうと考え、律子は小さいベンチに腰掛けて待った。 5分たち、10分経過したが、ひげ面は戻ってこなかった。小用にしては長すぎる。どこへ行ったんだろう…… 不安がふくらんだ。 ビルの脇の路地を通って裏手に回りこむと、小さな公園があって公衆便所がある。ほかに行くところは考えられなかったから、律子はそちらに向かった。 「おとうさん!」 ビルの裏口の、小さな門灯の下に、白衣がうずくまっていた。 律子の声にひげ面がゆっくりと振り向き、ビルの壁に手をつきながら立ち上がった。 「どうしたの?」 「なんでもない」 「なんでないって…… ふらついてるじゃない!」 二、三歩進んでよろけたので、律子はすばやくひげ面の腋下に滑り込んだ。頬にかかったひげ面の息が熱くさかった。額に手を伸ばしてみると焼けるように熱かった。 「熱があるじゃない! 救急車……」 「だめだ! 救急車はだめだ」 異常とも思えるほど激しい拒否の意思が、言葉とともに身体にこもって伝わってきた。 「わかったわ。救急車は呼ばない。でも、今日はお店を閉めて帰ろう?」 「……」 律子は、ひげ面を丸椅子に座らせておいて、以前見た記憶をたどりながら、屋台を片付けた。ポリタンクや発電機は台下にきっちり納まり、長椅子はたたんで両脇に引っ掛けるようになっていた。 風除けシートは、縦長にたたんで丸めると、引き棒の後部に納まる。屋根に跳ね上げてあった側板を降ろす。 客がいなかったせいで周辺の掃除は必要なさそうだった。 律子は、そのまま屋台の引き棒を引こうとしたが、恐ろしいほどの重さで、屋台はぴくりとも動かなかった。 「ありがとう。後は自分でやる。お嬢さんは帰ってくれ」 「なにいってるの。このままでは心配で帰れない。お家まで押してゆく」 「……」 よほど身体に自信がなかったのだろう、ひげ面は重ねて帰れとは言わなかった。 ほぼ1年前にも、律子はこの屋台を押した。あの時は、ひげ面のつらい人生を見たような気がして、涙が絶えなかった。 今日は、ひげ面がどうやら病気の様子なのに、律子はなぜか楽しく、満足感があった。 途中、開いていた薬局で、解熱剤と風邪薬、ビタミン剤を買った。 ひげ面の部屋は、思いっきり冷え込んでいて、畳に触れる足裏が痛いほどだった。 部屋の中は、以前入った時と同じで家具らしいものはなにもなかった。いや、ひとつだけ、天井からぶら下がった南部鉄の風鈴だけが増えていた。 「放っておいて、帰ってくれ」 そう言うひげ面にかまわず、律子は燃焼式のガスストーブに火を入れ、押入れを開けて布団を引っ張り出した。敷布団、掛け布団、それに毛布が1枚、それだけだった。布団は湿り気を帯びていた。 ひげ面は、白衣のまま、倒れこむように布団に入った。 「着替えなきゃ、だめ!」 律子は、押入れに積み上げてあった下着類を出し、抗うひげ面に馬乗りになるようにして、着ているものを脱がせた。 ぜんぶ脱がせたと思ったのに、ひげ面はもう一枚下着を着ていた。 背中一面に巨龍が躍り、肩口から太ももまで、肌にぴったりとなじんでいた。 それは、律子が生まれてはじめて目にした、目もあやな刺青だった。 首筋にぞくっとするような寒さを感じて、律子は目覚めた。 ひげ面の部屋の壁にもたれて、うたた寝をしていた。傍のガスストーブが青い炎を上げていたが、建てつけの悪い木造アパートのせいだろう、部屋はあまり暖かくなかった。 窓の一部に日が差して、すでに夜が明けきっていることを示していた。 ひげ面は、安らかな寝息を立てていた。 昨夜は大変だった。 背中の竜に睨まれながら、どうにか着替えをさせた。白湯で解熱剤を飲ませようとしたが、全身がおこりのように震えて転がっているため、飲むことができない。 ちょっとためらったが、ひげ面の口に錠剤を押し込んでおいて、律子は白湯を自分の口に含み、口移しに流し込んだ。 ひげ面の唇は熱く、かさついていた。 ごくり、と飲み込む音が聞こえたが、律子はしばらく唇を離さず、身体を丸めて震えているひげ面を抱きしめ続けた。 |
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