また見てござる

(下)


 いまどき流行らない剣術で免許をとるような男は、だいたい一本気で、融通の利かないものだ。こうと決めたらまっしぐら、ひたすらその道を行く。
 徳之助は、翌日から連日、茂作の家と明神さんのお社に通い始めた。
 茂作の家へは、三人とも病気では不便だろうと、毎日、炊いた米をお櫃に詰め込んで届ける。
 三人とも実はピンピンしているので、別に飯は持ってきてもらわなくてもいいのだが、百姓の通常の食事が雑穀主体の混ぜ飯だったので、白い米の飯はご馳走だった。
 「かまわん。もともとわしらの作った米だ、食っちまおう」
 敵から兵糧を贈られているみたいでとまどったが、病気で寝ていることになっている手前、手を付けないのも変だと考え、茂作は、かまわずに食べてしまうことにした。

 毎日、一粒残さず空になるお櫃に、徳之助は上機嫌だったが、実は内情は厳しかった。
 まず毎日の村通いであるが、徳之助は宮仕えの身だから、ちゃんと役所に出仕しなければならない。
 役人の勤務は、夜明けから昼過ぎまで。午後も自由時間というわけにはいかず、緊急に備えて長屋に待機していなければならない。つまり自由なのは眠っている間だけなのだが、まあ平和な時代で緊急事態なんてほとんど考えられなかったから、午後は黙認の自由時間といってよかった。
 この時間に徳之助は村に通うわけだが、役所から村までは約三里だから、かなり急いでも一刻半(3時間)かかり、村に到着するのは夕方だった。
 これを毎日続ける。
 もうひとつ大変だったのは、そう、米である。
 一刀流免許、道場師範代といっても、それは木刀を持ったときの肩書きで、実体は勘定方の下級武士である。
 わずかな俸給だけでやっと食べていると言うのが実態で、茂作一家三人を食べさせてゆけるほどのゆとりはない。工面して届ける米の飯にも限界がある、ということだ。

 「どうしようかね、観音さん」
 「放っておこうよ、明神さん。そのうち行き詰まるだろう」
 「ちぇっ、観音さんはなんでも、放っておけ、だね。ま、徳之助が行き詰まる分には、わしにした誓いが果たせなくなるわけだから、願も反故になる。あとは茂作の願の残り半分、半年後に病気を治せばそれでいいわけだ。うん、それで行くか」
 しかし七日たち、十四日過ぎても、徳之助は誓いを守り続けた。
 毎日、夕方になると風呂敷包みのお櫃を提げてやってくる。
 「病気がうつるから」と、家の中には入れてもらえないので、障子越しに様子を聞いた後、明神さんのお社に寄ってから、暗くなった夜道をとぼとぼとご城下へと帰ってゆく。
 「ねえ、観音さん。徳之助のやつ、この半月で痩せたと思わないかね?」
 「ああ、痩せて、ちょっとやつれた感じだね。毎日、往復六里の道のりが応えたかな?」
 「そればかりじゃないよ、観音さん、明神さん。溝口家の仏壇からの情報によると、米の残りが少なくなったので、ここ数日、徳之助は満足に飯を食っていないそうだ」
 「そりゃいかん! そんなことしてたら徳之助が病気になってしまう!」
 「そのほうが都合がいいんじゃないのかね、明神さん。病気になって、村通いができなくなれば、徳之助の願は反故にできる」
 「う、いや、しかし……」
 「わかってるよ、明神さん。あんたは情にもろいからねえ。三日坊主じゃなかったことで、徳之助の真情がわかったんだろう? それで徳之助が哀れに思えてきた」
 「……」
 「溝口徳之助、百夜にはほど遠いけど、とんだ深草の少将だなあ……」
 「うむ、問題は、七重小町がどう答えるかだ」
 「七重は美人じゃないが、心は小野小町よりきれいだからね」

 前にも言ったように、茂作一家は、病気とはいっても熱があるだけで身体はどこも悪くない。したがって日常生活にはなんの支障もなく、徳之助が来さえしなければ布団に入って寝ていたりはしない。
 だから、徳之助がやってくる刻限までは、茂作は農作業、お糸と七重もそれぞれの仕事をこなしていた。
 ある朝のことだった。
 茂作は夜明けとともに畑へ出、七重は家の掃除、お糸は洗濯をしていた。
 そこへ、なんと夕方にならなければ来ないはずの徳之助が、米俵を肩に担いでやってきた。
 「あっ、義母上は、もう病気は治ったのか?」
 「あ、いえ、洗濯物が溜まりまして、寝ているわけにも行かず……」
 「まだ治っていない? では、病人がこんなことをしていてはだめだ。寝ていなさい」
 徳之助はいきなり、たらいに手を突っ込んでごしごし始めた。
 これには参った。れっきとした主持ちの武士が、百姓の着物、それも茂作のふんどしや、七重とお糸の腰巻まで洗濯しようと言うのである。
 お糸は、地面に額をこすりつけて「それだけはやめてください」と懇願したが、徳之助はとりあわなかった。
 「わしはこの家の婿だぞ。家族が病で臥せっておるときに、洗濯くらいするのは当然であろう」
 お糸は困ってしまった。洗濯のことばかりではない。
 「なんでまた、今日に限って朝から来たんだろう」
 この時間に徳之助が来るはずがないと思っていたから、いつもどおりにそれぞれの仕事をしているのだ。七重は、家の中にいるからすぐに布団にもぐってしまえばいいが、亭主の茂作はいま野良に出ていて、いつ帰ってくるかわからない。庭先で鉢合わせでしようものなら病気で寝ていると言うのが嘘っぱちだってことがばれてしまう。
 相手は役人である。騙されたと知ったら……

 「まだだいぶ具合が悪そうではないか」
 ハラハラドキドキ、お糸の困惑と不安の表情を、徳之助は病気のせいだと受け止めた。
 「もう心配は要らんぞ。今日からわしはここに泊り込むことになった。炊事も洗濯も皆わしがやる。何も心配せんで、養生してくれ。十分養生して、早く治ってくれ」
 「ここに泊まる……?」
 「ああ。あとであの納屋に寝床を作るつもりだ」
 泊り込むなんて、冗談じゃない! 早く病気を治す方法はただひとつ、あんたが七重のことをあきらめて、村へ来なくなればいいんだよ…… 思い切ってそう言いたかったが、お糸はぐっとこらえて寝床にもぐりこんだ。急に、本当に具合が悪くなったように感じた。

 勤めのある徳之助が村へ泊り込むことになったのは、内藤与惣兵衛の計らいによるものだった。
 徳之助が痩せて面変わりし、勤務中に居眠りまでする様子を不審に思い、問い詰めてみると、なんとあの日からずっと、毎日、七重の元へ通い詰めていると言う。
 「……」
 あきれて、言うべき言葉が見つからなかった。
 そこまで本気なら…… 与惣兵衛は、自分の責任で「担当地区の見回りのため」徳之助に「出張」を命じた。
 この時期、どうせ役所はヒマだった。気の利いた役人は、同じ理由で適当にどこかへ羽を伸ばしに出かけてしまっていたが、まだ新人、新任の徳之助はそういう便法があることは知らなかった。
 「食うものだけはちゃんと食べてくださいよ」
 与惣兵衛は、徳之助に米を持たせた。内藤家だって、裕福と言うわけではない。米俵を一俵、まるまる持たせるについては、与惣兵衛は奥方に徹底的に絞られなければならなかった。

 「ねえ、どうする? この分じゃ、溝口様は半年と言わず、一年でも七重にへばりつくかもしれないよ」
 うまい具合に徳之助が明神社へお参りに行っている間に帰ってきた茂作に、お糸は一部始終を話した。
 「ふむう…… 弱ったもんだな、これから野良仕事が忙しくなるって言うときに。邪魔しに来てるようなもんだな」
 そうでなくても、いつまでも徳之助がやってくるのを気にしながらの生活は続けられない。
 「よし! 明日の朝、けりをつけてやる。あのお方は悪い人じゃなさそうだが、しょせんお武家だ。わしら百姓とは違う世界のお人だ。この縁談に裏があろうがなかろうが、人が良かろうが悪かろうが、先は見えてる。はっきりと断ろう」
 「私もね、そう思うけど、いまさらそんなことを言ったら怒るんじゃないかね、溝口さまは」
 「ああ、怒るだろうね。上役の内藤さままで引っ張り出した手前もあるだろうし、毎日わしらに飯を届けたご苦労もある。そのうえ、もし、この縁談に裏があるなら、溝口さま自身がお咎めを受けることになるだろうからね」
 「なんだか、怖いよ」
 「うん、わしも怖い。話のわからないお人じゃなさそうだが、お怒りになっていきなりバッサリ、ってことも。なにしろ一刀流の達人だそうだからな」

 「困ったなあ。どうしたもんかね、観音さん」
 「願は叶えた。後は茂作の問題だ、じゃなかったのかね? 明神さん」
 「そんなあ。まぜっかえさないで、助けておくれよ」
 「ごめんごめん。明神さん、あんたは心底、村のみんなのことを思い、幸せを願ってるんだね。願を叶えたんだから、後のことは知らない、それでも済むんだけどね」
 「観音さんだったら、そうするかい?」
 「いいや。乗りかかった船は、向こう岸につくまで乗ってなきゃね」
 「うん、でね…… あの、ちょっと言いにくいんだがね……」
 「徳之助のほうの願を叶えたい、って言うんだろう?」
 「お見通しかあ」
 「いいんじゃないかな、徳之助は本物だよ。七重は幸せになれる」
 聞くや、明神さんは走り出した。
 急がなきゃ。今夜のうちに、ご城下の溝口家と茂作の家の神棚を赤い糸で結んでしまわなきゃ。


 夜明け前。
 茂作は息苦しさを感じて目覚めた。家中に煙が渦巻いていた。
 「火事だ!」
 煙にむせながら、茂作はお糸と七重をたたき起こし、縁側の雨戸を蹴破って庭に転がり出た。
 振り返ると、家全体が白い煙に包まれていたが、炎は見えなかった。
 「やあ、すまんすまん」
 咳き込む三人に、妙にのんびりとした声がかかった。
 「飯を炊こうと思ったんだがな……」
 見ると、火吹き竹を片手に、すすで顔を真っ黒にした徳之助が立っていた。
 「溝口さま…… あの、この煙は」
 「うん、囲炉裏の火種を竈に移してな、薪をくべたんだが、いっこうに火がつかず、煙ばかりが立ちおって…… 実は、飯を炊くのは初めてでな。実家では、男は厨房に入ってはならん、と母上がすべてやってくれていたので…… いやあ難しいもんだな」

 怒ったような顔をして、お糸が徳之助から火吹き竹を奪い取り、七重を促して、家へ入っていった。その直後、家の中で笑い声がはじけた。
 茂作と徳之助は顔を見合わせた。こんな風に、お互いの顔を見るのは初めてだった。
 徳之助の目は、顔についたすすよりも黒く、悪戯っ子のように光っていた。
 茂作の頬が緩んだ。
 徳之助の白い歯がのぞいた。
 「くくくくくっ」
 「はははははっ」
 女たちにつられて、二人も声を上げて笑った。
 ちょうど山の端に顔を出したお日さまも、笑顔だった。


 「いいや! 野良仕事は私がやる。義父上は寝ていなさい」
 「お侍に百姓仕事ができるもんですか。身体は、この通りピンピンしていてどこも悪くない。寝てなんかいられませんよ」
 「まだ熱があるではないか。熱が下がるまでは、野良仕事なんぞもってのほか。いいから任せておきなさい。炊事も洗濯も野良仕事も、全部私がやる!」
 「冗談じゃありませんよ、溝口さま。毎朝、火事騒ぎはごめんですよ。そんなお方に田んぼを任せたら、この秋には煤けた米が実るってもんです。お城のお殿さまもさぞお喜びになることでしょうよ」
 「お、おのれ! なんということを。あまり無礼を申すと捨て置かんぞ!」
 「ほ? お斬りになりますか? 一刀流かなんか知りませんがね、そんな腰つきじゃあ、肥え桶も担げませんぜ」
 「う、う、うぬう……」

 「あの二人、大丈夫かね、観音さん。寄ると触るとああして喧嘩してるが」
 「大丈夫だよ、明神さん。喧嘩といっても、茂作はああやって自分を納得させているんだよ。一人娘を連れてやがて去ってゆく男への、茂作なりの親心。その寂しさを、徳之助だってわかっていると思うよ」
 「ところで、熱、もう下げようかね」
 「明神さん。徳之助の願を叶えたんなら、茂作の願も叶えて上げようよ。半年たったらケロッと治る、だったよね? その半年が、今の茂作には大事じゃないのかな? 熱が下がれば、七重はご城下に行ってしまうんだよ」
 「そうだね。茂作もお糸も熱があって病気だと思うからこそ、徳之助はああして百姓仕事を体験できる。役人として、これからの仕事にも役立つことだろうね」


 翌年の秋祭りの日。
 明神さんは、朝からお神酒をいただいて上機嫌だった。
 「明神さん、ほれほれ、七重が来たよ」
 「えっ、どこどこ?」
 明神さんは、とろんとした目で笛や太鼓でにぎやかな境内を見回したが、七重は見当たらなかった。
 「観音さん、七重がどこにいるんだい?」
 「いやだなあ、明神さん。目の前にいるじゃないか。赤ん坊を抱いたご新造さんが」
 目の前に? 拝殿の正面で拝礼をしていた丸髷が顔を上げた。色白のふっくらとした美人だった。
 「へっ? こ、これが七重かい? ……ほんとだ、七重だ! いやあ、びっくりしたなあ。あの不細工な七重が、いやきれいになって…… ご城下の水で顔を洗うとこんなにも違うもんかね」
 「なにを言ってるんだね、明神さん。それよりも赤ちゃんも見ておあげよ。赤ちゃんを見れば、七重が幸せかどうか、すぐにわかるよ」
 「おうおう、可愛いね。輝いているよ。べろべろばあぁ」
 見えないはずなのに、赤ちゃんはきゃっきゃっと声を立てて笑った。

 「よかったね、明神さん」
 「ああ、よかった。武家と百姓、心配したけど、どうにかうまくいっているらしい。よかった、よかった」

 が、このときすでに悲劇の幕が上がり始めていることを誰も知らなかった。