また見てござる (中) |
武家が百姓の娘を嫁にする…… 誰が考えても背後に胡散臭さを感じる話だが、地蔵ねっとに集まった情報を総合すると、どうやらまともな話で、溝口徳之助は、本気で七重を嫁に迎えるつもりのようだった。 「なにを好き好んで百姓女を」といったのは、相談を受けた与力の内藤与惣兵衛だった。 勘定方の長男に生まれながら算盤より剣術が好きという徳之助を、もともと変わり者だとは思っていた。だが、出世のためには最も気を使わねばならない嫁に、こともあろうに百姓女を選ぶとは…… 「剣術に打ち込みすぎて、気が変になったんじゃないか?」 その疑いは、後に実際に七重に会ったとき、決定的となった。 若さではちきれそうな健康美人…… 与惣兵衛は、そう想像していた。世間知らずの徳之助が、そんな百姓娘の色香に惑わされた、そう思っていた。いやせめてそうあってほしかったが、実際に七重に会って肝をつぶした。 健康というのは当たっていたが、おくびにも美人とは言いがたかった。それになんと三十女! 「これは何か裏がある」 裏があるとすれば、それは真っ先に自分が知っているはずの内藤与惣兵衛ですら、そう考えた。 「もしかしたら勘定奉行様じきじきの密命があったか。それとも七重とやらの家が百姓とはいえ大金持ちか」 勘定方というのは、要するに経理部門、事務職だから、算盤と書に秀でていれば良い。武士ではあるが、戦争になっても前線で斬り合いをするわけではなく、戦費の調達など、いわば裏方の仕事が主であるため、剣術にはほとんど縁がない。 刀を使うのは、切腹のときくらいで、これはまあ、めったにあることではないし、運悪く腹を切ることになったとしても実際には、脇差をちょっと腹に当てればそれで済む。あとは介錯人が首を刎ねてくれるから、本人はなにもする必要がない。 そんな事務職の家系に育ちながら、徳之助が剣術の腕を磨いたのは、要するに暇だったからだ。 溝口家は、下級武士だから金はない。そのうえ親父は経理畑の人間だからまず無駄遣いなど許されるはずもない。口を開けば「遊ぶ暇があったら、算盤と書の修練に励め」だ。 お役に就いていないから、時間はいくらでもある。時間はあっても金がないから、遊びには行かれない。遊べなければおやじの言うとおりにするしかないのだが、いい若いもんが一日中、家の中で算盤と習字なんぞやっていられるものか。 体の奥から沸きあがるエネルギーの発露を、徳之助は剣術の練習に見出し、ついには一刀流の免許を受けるまでになった。 縁談は、これまでにいくつもあった。 溝口家の仏壇からの情報では「着物と化粧が好きな女は、武士の妻には向かん」と徳之助が全部断ったのだそうだ。 「というわけでね、溝口徳之助。ちょっと変わっているが、悪いやつじゃない。それにこの縁談には裏はなさそうだよ」 「まさか良縁だと言うんじゃないだろうね、地蔵どん。武家と百姓って取り合わせで、うまく行くと思うかい?」 「難しいだろうね。七重は、気立ても頭もいい女だが、武家の奥方って役どころは荷が重いだろうな。それに亭主の徳之助も苦労することになる」 「徳之助のヤツは、どこで七重に目をつけたんだろう」 徳之助が七重に目をつけたのは、先月の検地のときだった。 役人たちが村に滞在中、茶菓の接待や食事の世話などをするために、村の未婚の娘たちが総動員される。できるだけ華やいだ雰囲気にして、役人たちの気持ちをほぐし、少しでも村に有利な結果を引き出すためである。 酒をじゃんじゃん飲ませて、二日酔いにさせてしまうのも、娘たちの仕事である。 七重も未婚には違いないので、接待係になったが、自分が若くもないし、器量も良くないことを知っていたので、できるだけ役人たちの前に出ないようにして裏方の仕事に徹し、人が嫌がる汚れ仕事を引き受けていた。 宴会の始まる前に、小さな事件があった。 床の間に置いた役人の刀に、七重が手をかけたのである。 「武士の魂をなんとする!」 その刀の持ち主の役人はいきまき、七重を蹴倒して、刀を取り上げた。 武士の魂を持ち出すまでもなく、百姓が刀剣に触れることはご法度だった。徳川さまが天下を取ってから、侍どうしの戦争はなくなくなったが、農民による一揆が各地で頻発していた。 このため、どこの藩でも百姓が武器を持つことを恐れ、刀槍類にさわることすら厳しく制限していた。 一瞬、緊張が走ったが、徳之助が中に入った。 徳之助は、お役に就いたばかりなので、役人たちの中ではいちばん下っ端だが、こういう場合は年長と言う強みがあった。それに剣術には自信があったから、百姓女が刀に触れたからといって恐れを感じることもなかった。 落ち着いて、七重に理由をただした。 「申し訳ないことをいたしました。私はただ、皆様のお刀が汚れておりましたので、それを拭おうと……」 見ると、どの刀も田畑を歩き回ったせいであろう、鞘に泥が付着していた。 武士の魂が聞いてあきれる。徳之助は、ふだんからそう思っていた。 戦争がなくなった今、刀は、日常的にはほとんど役に立たない。喧嘩になるとすぐ腰に手をやるが、実際に刀を抜いて斬り合うことなどめったにない。斬りあって怪我でもしたらつまらないと思っているからだが、要するに、大小二刀は武士であることの身分証明みたいなものであった。 身分証明程度の役にしか立たないとなると、いつも腰に差しているには、刀は少々重い。 そこでいまどきの武士たちは、皆、刀身の細い飾り太刀のようなものを腰に差している。こんな刀では二、三合も打ち合えばぽっきり折れてしまい、とうてい人など斬れるものではない。 それが武士の魂とは、ま、剣術より算術の時代だから、飾り程度の魂とは言いえて妙、とはいえるかもしれない。 その武士の魂が、田畑の土に汚れた。 「すぐにそれと気付いて拭い清めてくれる。ありがたいことではないか?」 徳之助はそういって、その場を治めた。それは単に言葉のあやであったが、自分の言葉に徳之助ははっとなった。 「この女こそ、武士の妻にふさわしいのではないか?」 「やっぱり変人だね、徳之助ってやつは。そのくらいのこと、武家の娘なら誰だって、たしなみとして教え込まれているだろうに」 「教え込まれて身に付けたものと、心の底からにじみ出てくるものとが同じだって、明神さんは言うのかい?」 「そうは言わんがね、地蔵どん。いくら心の底からにじみ出てくると言ってもね、三十年、百姓として生きて来たものの心からは、百姓の発想しかわいてこないんじゃないかね?」 「だろうね。徳之助が七重に目をつけたのも、武士の発想だからね。だけどそういうそれぞれの人生を、互いに愛し合うことで擦り合わせるのが夫婦ってもんじゃないのかな?」 「おやおや、愛だって? 地蔵どんは夢想家だね。徳之助は七重を愛したわけじゃない。武士の妻に向いているって、勝手に思い込んだだけだ。七重のほうはただびっくりしてるだけなんじゃないかな。愛なんかない。よしんばあったって、武家と百姓じゃ、無理だね。犬と猿が一緒になるようなもんだ。それにね、地蔵どん、侍の結婚は殿様の許可が要るんだよ。百姓女を妾にしようってんならともかく、嫁にって言うのは無理だね。殿様がうんと言わない」 徳之助は、その点もちゃんと考えていた。 殿様は鷹揚な人物だったが、いくらなんでも、百姓の娘を娶ることなど許されるはずはなく、よしんば藩主が応諾したとしても、家老をはじめとするお家の年寄りたちが承知するはずがない。 そこで、徳之助は、「養女」という便法を考えた。 つまり、七重を一旦しかるべき武家の「養女」にし、そのうえで嫁に迎えようというわけだ。 その養女に入れる先が、与力のの内藤与惣兵衛というわけである。 内藤与惣兵衛は役向きでは上司だが、徳之助より四つも年下である上、都合のいいことに藩道場の序列では末席にいた。つまり師範代の徳之助に指導を受ける立場にあったのである。 百姓の娘を嫁にすると言われて、与惣兵衛は猛反対したが、道場での師範の立場で脅しつけられたり、いずれ切紙(免許状)を与えると言う餌をぶら下げられたり、ついには徳之助が額を畳に擦り付けて懇願するに及んで、ついに根負けして、養女の件を承諾した。 二十七歳の与惣兵衛に三十歳の養女というのはとんだお笑い草だが、何事も形式が大事、形式さえ整っておれば、口うるさい藩の年寄りたちも文句はつけられない。 こうして準備万端を整え、六日前、徳之助は与惣兵衛をともなって茂作の家を訪れ、七重に結婚の申し込みをしたのである。 たまげたのは茂作一家だった。 話があまりにも突然だったこともあるが、歳が歳だから、同じ百姓か町人の後添えの話ならともかく、れっきとした侍が、なにを好き好んで嫁かず後家と後ろ指を差される不器量な七重を嫁に求めてきたか、その真意を量りかねたのであった。 このあたりは、観音さんが推測したとおりであった。 六日目。 内藤与惣兵衛の一行がやってきた。 与惣兵衛と女物の駕籠が二丁、長持が一丁。今日は主役ではない徳之助は、後ろからついてきた。 駕籠は、一丁は七重を乗せるためのもの、もう一丁は、武家風に七重の身支度を整えるため、与惣兵衛の母親が乗っており、長持には、七重に着せる着物が一式と手回り品、それに髪を整える道具などが用意されていた。 「来ちゃったよ。明神さん。さあ、どう始末をつけるね?」 「始末って、茂作の願は、七重を病気にするところまでだ。あとは半年後に病気を治すだけからね。この縁談の始末は、茂作自身の仕事だよ。あたしゃ、知らないよ」 「知らない? あははは。つれない言葉の割には、目が真剣だね」 「なんと! これはどうしたことじゃ!」 与惣兵衛が声を上げた。 茂作の家は、しっかりと雨戸をたて、入り口はしんばり棒を架ってあるらしく、びくとも動かなかった。 留守でないのは明白だった。煮炊きをしているらしい匂いが漂っているし、かまどのあるあたりの窓からは、白い煙が流れ出ている。 本来なら、娘を養女に出すと言うことは、家族にとってはさびしいことであるにせよ、これは祝い事である。 ならば、大戸を開き、あたりを飾り、家人はもとより、隣近所から名主まで打ち揃って出迎えてしかるべきである。 「然るにこのざまは何だ。百姓の分際で、われらを愚弄しおるか!」 刀を抜いて斬り込まんばかりの剣幕で怒る与惣兵衛を抑えて、徳之助が門口に立った。 「茂作。いかがいたした? 七重をわが嫁に出すのは不承知なのか? なんぞ不満でもあるのか?」 「いえ、溝口さま。ありがたい、もったいないお話に、不平不満を申し上げているのではございません。実は、七重は病で臥せっておりまして」 「なに! 七重が病気! ならば見舞いを。さ、ここを開けてくれ」 「あ、いや。この病気はうつりますので」 「うつる? と言うことは、すでに誰かにうつったのか?」 「へ? あ、へい、女房に、うつりまして…… て、手前も少々具合が悪くなっておりますので」 「どう具合が悪いんじゃ?」 「へえ、その熱がありまして……」 「熱だけか?」 「いえ、その、腹が痛く、頭も痛い……」 「ふむ。で? 医師はなんと申しておる?」 「へい、あの、この村には、お医者さまはおりませんので。ま、しばらく寝ておれば、よくなると思いますで…… そういうわけでございますので、申し訳ございませんが、今日のところは一旦お引取りいただいて……」 「わかった。そのことはいい。内藤さまに申し上げて、日延べをしてもらうゆえ。そうか、この村には医師はおらんのか。……よし、わしはこれより一旦町に立ち戻り、医師を連れてまいる。今日中に戻ってまいるゆえ、それまでできるだけ養生しておれ」 「あ、いや、あの、溝口さまそれには及びませんで……」 茂作はあわてて止めようとしたが、徳之助は、呆然としている内藤与惣兵衛一行をも放り出したまま、すでに町へ向かって走り出していた。 あわてたのは茂作、女房のお糸、七重、そして神棚で様子をうかがっていた明神さんだった。 「医者を連れてくるだと? 冗談じゃない。医者が来たらどこも悪くないことがばれてしまう。おおい、観音さん、なんとかしてくれえ」 「あわてることはないよ、明神さん。かまわないから茂作とお糸も熱を出して寝かしてしまいなさいよ」 「腹と頭はどうする?」 「そんなものは放っておきなさい」 「そんなこと言ったって、観音さん。つじつまの合うようにしておかないと医者が診たらばれちゃうよ」 「大丈夫だよ、明神さん。つじつまなんか合わないほうがいい。熱があるのは事実だから、あとは医者が首をひねって適当な病気にしてくれるさ。突発性発熱症候群とかなんとか、ね」 観音さんの言ったとおりだった。 徳之助がなかば引きずるようにして連れてきた医師は、三人の身体を撫で回して診察した結果、 「うむ、これは極めて珍しい病気でございますな。私では手の付けようがございません。いや風邪の類ではありません。咳もでないし、くしゃみもない。喉も腫れておりません。腹が痛い、頭が痛いというのも熱のせいですな。要するに熱病、突発性発熱症候群とでも申しましょうか……」 「トッパツセイハツ…… わけのわからん病気だな。で、治せるか?」 「奇病でございましてな、これは。正直、なんとも申しかねます。とりあえず熱さましを調合しておきますが…… ま、神仏の加護を念じて、見守ることでしょうな」 「神仏の加護、って…… おい、死ぬのか?」 「いや、死ぬと決まったわけではなく…… とにかく難病でして……」 「へっ、やぶ医者め。観音さんの言ったとおりだ」 「あははは。でもね明神さん、そうやぶ医者でもないよ。問題は熱で、その熱がなぜ出たのかがわからない、とちゃんと見抜いているじゃないか。神仏の加護、なんて言ったところを見ると、本質をつかんでいるのかもしれないよ」 「なんでもいいや。これで徳之助が、七重のことをあきらめてくれれば、一件落着となるんだがね」 が、早いとこ一件落着にしたい明神さんの願いはむなしく、事態はとんでもなく厄介な方向へ進んでしまった。 「だめだ、だめだ! その願、聞き届けるわけにはいかん!」 明神さんは大声を出したが、もちろん神様の声は、人の耳には聞こえない。徳之助の耳には、さやさやと木々を渡る風の音が響いただけだった。 神殿の石畳に跪き、徳之助は一心不乱に祈った。 七重と両親の病気平癒、そして行く末、七重がつつがなく夫婦となり、生涯をともにできるように、と。 「だめなんだよ! 溝口徳之助。お前の願は聞けないんだってば。わしはもう、茂作の願を受けてしまっている。それと矛盾する願は、だめなんだ!」 しかし徳之助は、「これより茂作一家の病気が治るまで、毎日、一家の見舞いと明神社への参拝を欠かさない」と誓い、財布をひっくり返して中身を洗いざらい賽銭箱に放り込んでしまった。 これで契約は成立した。 あとは、徳之助が誓いを守るかどうか、だ。 「観音さん、助けてくれえ。願と願がぶつかっちゃったよう。あちら立てればこちらが立たず…… わしゃ、どうしたらいいんだい?」 「……」 「まさか、知らぬが仏、なんて言わないよね」 |
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