見てござる/観音篇


 静かな夜だった。
 空には星がきらめき、山の木々も静まり返っていた。
 こういう夜が続く限り、人の世は平和が続く。人々はぐっすりと眠って昨日の疲れを癒し、不愉快な出来事は忘れて、また明るい朝を迎えられる。
 結構なことだ。
 「村は平和で結構だが、このお堂はなんとかならんもんかなあ」
 観音さんは、ひとわたり堂内を見回して首をかしげた。
 お堂の扉は蝶番が壊れているためきっちり閉まらず、一寸ほど隙間が空いている。板壁も所々穴が開き、冷たい風が吹き抜けるし、屋根も長いこと葺き替えていないので、雨が降ると雨漏りで堂内が水浸しになる。
 いやいや、そんなことはどうでもいいが、少々腹に据えかねるのはネズミの横行だ。
 近頃はお供え物も少ないので、腹が減っているのであろうか、観音さんの衣の裾や足の指をかじり始めた。さっきも勇敢なネズミが一匹、肩に降り立ったかと思うと、いきなり耳をかじり始めた。いや驚いた。

 私もなあ、世が世なら、国宝とまでは言わんが重要文化財くらいには指定される由緒ある身なんだがな……
 ま、愚痴は言うまい。仏ほっとけ、だ。私たちがほっとかれるのは、それだけ人々が幸せだってことだから。

 「おやっ?」
 観音の細い目がさらに細くなった。
 なにか物音が聞こえた。いや、ネズミではない。お堂の外だ。
 観音さんは、そっと扉の隙間から外を覗いた。

 いつの間に来たのだろう、暗い参道の敷石に人影が四つうずくまっていた。一助と女房のおたね、娘のおとみ、おきよの姉妹だった。
 おたねがささやくような声で言った。
 「観音さま、なげぇことお世話になりました。一所懸命がんばってきたけんど、もうどうにもならんようになりました。いまからみんなであの世とやらへめぇります」
 な、なんだとぉ!
 「つきましては、最後のおねげぇでごぜぇます。おらたち夫婦は罪ふけぇもんだから地獄へ送ってもらってかまわねぇけんど、娘ふたりにはなんの罪もありません。どうか極楽とやらへつれてってくだせぇまし」
 「母ちゃん、なに言ってるだよ! みんなで一緒に行くって……」
 「おとみは黙ってろ。観音さまは、なにもかもお見通しだ。ちゃんといいようにしてくださるからお任せすればいいだ」

 おたねは立ち上がって、用意の荒縄を取り出し、境内の木々の枝振りの物色を始めた。
 ちょ、ちょっと「待てぇ!」
 観音さんは思わず声を出して、おたねをとめた。
 「どうしたんだね。いきなり心中話とは穏やかじゃないぞ」
 「きゃあーっ!」
 今度はおたねのほうが驚いて悲鳴を上げた。
 それはそうだ。誰もいないはずの観音様の境内の、星の光だけの暗闇と言う肝だめしばりの状況で、聞いたこともない「声」が天から降ってきたら、ふつうの人間なら腰を抜かす。
 「すまん、すまん。私は観音だ。お前たちが首をくくろうとしたので、あわてて声を掛けた。ま、気を鎮めて、委細を話して見なさい」
 「ほんとうに観音さまけぇ?」
 「うそはいわん。死のうとしているお前たちにうそを言っても始まるまい。さ、話してみなさい。私にできることがあれば助けてやろう」

 「こればっかりは、いくら観音さまでもどうにもならねと思うけんどね……覚えてらっしゃるだかね、半年ばかり前、亭主の一助が大怪我をしたこと。ご領主様の命令とかで、大川の堤防作りに刈りだされ、土砂崩れの下敷きになっただ。あん時ゃ、亭主の命を助けてくれと、観音様にお願ぇした」
 「おお、覚えておる」
 「おかげさんで、亭主は一命をとりとめたけんど、その後が悪かった。医者だ、薬だと、金の要ることばっかりで、見る見るうちに借金の山だぁ。亭主は命は助かったものの身体が元に戻らず、畑仕事もままならね」
 「おお、おお、それは難儀であったのう」
 「結局、借金が返せねぇで、おとみ、おきよを女郎屋に売って返す、ってことになっただ。だけんどよう、考えてみたら、借金は返せても、これから先も食っていくことすらおぼつかねぇわけだし、そんなら何も年端も行かねえ二人を苦界に落とすこともねえ。みんな一緒にあの世へ行こうってことになっただよ。そういうわけだから、観音さま、おらたち一家に引導を渡してやってくだせぇ」
 「いやいや、それはならん。銭金の問題は、確かに私には難題じゃが、だからといって目の前で首をくくらせるわけにはいかん。ま、なんとかするから、とりあえず今日のところは思いとどまって、家へ帰れ」
 「でも、四五日後には人買いが娘を連れにやってくるだよ?」
 「それまでには何とかする。とにかく今日は、帰れ。帰ってくれ」
 「そんじゃ、せっかく観音さまがそういってくれるだから……」
 おたね一助一家は、抱き合うようにして帰っていった。


 「どうしたね、観音さん。浮かない顔をしてるじゃないか」
 「おお、明神さん。実は弱っている。借金取りに追われておるんじゃ」
 「へっ? 借金取り? これはまた不思議なことを言う。お互い貧乏だが、神や仏のいいところは金が要らないってことだ。まして清廉、清浄な観音さんが、借金とはね。なんで借金ができたんだね?」
 「いや、私が借金をしたわけではない。実はな……」
 観音は、ここは世故に長けた明神さんに知恵を貸してもらおうと、一部始終を話した。
 「それから三日、いや四日だ。おたねが毎日、金の催促に来てな。まるで借金取りに追われているみたいだ。夕べなんぞ、こんなことなら半年前、亭主の命を助けてもらうんじゃなかった、全部あんたのせいだ、さあ、何とかしろ、いっそのこと殺してくれ、さあ殺せ、とすさまじい剣幕なんだ」

 「観音さんよ。あんたはいい仏さんだね。わしはいい友達を持った。つくづくそう思うよ。だから、ほんとのことを言うよ。いいかね、観音さん、あんたは馬鹿だ」
 「ば、馬鹿ぁ?」
 「ああ、馬鹿だ。人間の言うことを真に受けるなんて、大馬鹿者だよ。一助が借金に追われているのはほんとうだがな、その借金は医者や薬のためじゃない。博打だよ。一助の医者は、お城に勤めている医者でな、藩の事業で出たけが人だからっていうんで、治療費も薬代もぜんぶお城持ちだったということだぜ。その上、年貢も免除されて、一助は半年のんびり寝て暮らしていたのさ。もともと怠け者だったやつに暇ができたらどうなると思う? ほかにすることがないから博打に手を出し、借金証文の山が出来上がったってわけだよ」
 「し、しかし、おたねは真剣だった」
 「ああ、おたねは賢い女だ。真剣だったろうよ。亭主を立ち直らせるため、には首に縄をかけることも辞さない女だ。どうしても立ち直れないなら、亭主を殺して自分も死ぬ。そう思い定めたんだろう。必死で打った大芝居ってやつさ。観音さんは、その芝居にまんまと引っかかった」
 「うむう……」

 「どうするね、観音さん。仏を騙すなんてひどいやつだ。バチを当ててやるかね? なんならわしも手伝うよ」
 「いいや、バチなんて当てん」
 「ならぬ観音、するが観音かい?」
 「それを言うなら、堪忍だろう。そう、堪忍してやろう」


 「明神さんよ、もうすぐあんたとこの祭りだなあ」
 「ああ、今年はどうやら豊作らしくて、村中に笑顔の花が咲いているわい」
 「そりゃあよかった。みんなそろって笑顔で暮らすのがいちばんだからの」
 「みんなそろってねえ…… 観音さん。一助一家も笑顔だよ。あの怠け者が人が違ったように働いてね。女房のおたねはもとより、娘たちも総動員で、自分とこはいうに及ばず、人の畑まで耕してね。その上、いままで荒地だったところまでほじくり返して畑にしてしまったよ」
 「そうかそうか。それはよかった」
 「観音さん。あんた、なにか仕掛けたね?」
 「さあてね」
 「半年ほど前から、一助んところの神棚になにやら古い書付があがっていてね。あの一家、毎晩、その書付を見ちゃあ、首をひねりながらなにか相談をしている。なんだね? あれは」
 「はてな。うふふ」
 「いやだな、含み笑いなんかしちゃって。ちゃんと教えてよ」

 「あははは。あれにはね、宝物のありかが書いてある。むかし、この村を開いたお大尽が、後の世の人のために、と遺した宝物のありかがね」
 「うそだよ、観音さん。一助は字が読めんから騙せても、わしはちゃんと字が読めるよ。色即是空、空即是色なんて書いてあった。あれは般若心経の写経の下書きかなんかだろ?」
 「いいや、地図も描いてあっただろ?」
 「だめだめ、あれは地図じゃない。雨漏りとネズミのおしっこの染みだ。おそらくその辺の棚の隅に積んであった紙切れだろう」
 「でも、一助とおたねは宝物の書付だと信じている」
 「それで村中を穿り返してるってわけか。観音さんに騙されたことも知らずにね?」
 「うそも方便。結局、豊作という宝物が見つかったじゃないか。あははは」
 「食えねえ仏だ。あはははは」

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