禁 断 領 域 (6) |
6.帰 還
おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん 覚えのある光明真言と般若心経の大合唱が響き渡った。 本堂前の広場には結界が張られ、巨大な護摩壇が南向きに築かれて、多くの僧と信徒とで立錐の余地もない。誰もが両の手を合わせ、真剣な眼差しで護摩壇を見上げる。 燃え上がる炎。時折ひときわ高く燃え上がるのは、祈願を記した護摩木、大護摩木が投じられたときだ。激しく燃え上がる炎に合わせるように人々の喚声は一段と高まる。 仏説摩訶般若波羅蜜多心経 観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。 即説呪曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。 般若心経 大護摩供が最高潮に達したときだった。火中からするすると一筋の光芒が延び、まっすぐに中天の星に向かった。 なうまく さんまんだ ばさらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うん たらた かん まん 声明が続いたが、今度は聞いたことのないお経だった。あまりのすさまじい音声に頭がくらくらした。 信仰は持ち合わせていないが、一人だけ黙っているのも悪い気がして、知っている光明真言の部分だけ人々の声に合わせ、小声で音声してみた。般若心経はうろ覚えだし、その他のお経は知らなかったためと、気恥ずかしさもあったせいだが、とうとうと流れる大河に注ぐ小瓶の一滴ほどのようにたちまち掻き消えてしまった。 が、いったん声を出すと気恥ずかしさが消え、大胆さが加わった。今度は隣の人にあわせ大声を出してみた。 おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん その瞬間だった。 大地を揺さぶる轟音とともに、炎は急に光を増し、純白になったかに見えた。この光に記憶があった。あのときの光だった。何百万ルクスの光明に目を焼かれ、次の瞬間、暗黒の中にいた。 闇が濃度を増していた。濃度に比例して全身に圧力が加わる。何百気圧、何千気圧、いや何百万気圧か、計り知れない圧力がかかっていた。 無音無明、超高圧の世界であった。意識だけの世界であった。 時間の経過はわからない。 小鳥のさえずりが聞こえた。 気がつくと自室にいた。自室の椅子に座ってデスクに向かっていた。見回してみたが、なにも変わったところはなかった。ここに座っているときは輝いているはずのパソコンのディスプレイは真っ黒だった。マウスを動かすと、ぼんやりとあの密教のサイトが映し出され、次第に輝きを増した。省電力機能が働いて一時的にシャットダウンしていたようだ。 時計を見ると午前5時。 どうやら帰ってきたようだ。夢のようなひと時だった。 夢だったのかもしれない、と思った。だが、夢にしては鮮明な記憶が残っていた。 おまえは幽霊だ、とあの龍華さんに指摘された。鮮明に残るその容貌。こんなにくっきり、夢の登場人物の顔つきが残るものだろうか。そうだ、夢だったのなら、痕跡は何もないはずだ。 痕跡? そうだ、身体中にさまざまな傷痕があったではないか。シャツをめくりあげてみた。苦しみ、のた打ち回って死を願った数々の痕跡、身体中に残っているはずの傷跡はまったく消えうせていた。 やはり夢だったのか。 そうだ、超能力。 暗視力と、コップを移動させる念動力があったではないか。試してみよう。 デスク上にあったコーヒーカップに精神を統一する。 だ、だ、だ、駄目だ。あの時は確かに動いたのに。 そうだ、龍華さんは無念無想になれ、といった。無念無想? どうやればいいんだろう。無念無想になったら、コップの移動指令が出せないじゃないか。 やはりぜんぶ夢だったのか。 暗視力は? 押入れに首を突っ込んでみた。 なにも変わったことはない。薄暗い奥のほうはよく見えなかった。 「龍華ですか? 当教団には、現在その名跡を名乗るものはおりませんが」 教団本部を訪ねてみた。恐れていたが、今度はバリアはなかった。受付の若い僧がいぶかしげな顔をして言った。 そんなはずはない、いきさつを話すと応接室に通された。この部屋は知っている。あのとき最初に通された部屋だ。目を閉じて記憶にある調度とその配置を思い出してみた。間違いはなかった。この部屋には入ったことがあるのだ。 受付の若僧の、上司らしい人物が応対に出た。 「龍華と言うのは、当教団の高僧の名跡で、六世まで引き継がれましたが、現在では継ぐ者がおりません。というのは、寺史によれば50年ほど昔、大護摩供の際に数名の高僧がいずこともなく出奔したとあり、龍華師もこの中に入っております。当時のことは私にはわかりませんが、お住まいなどに残された金品や前後のいきさつから、教団本部の外に出られたものとは思えず、何らかの秘蹟があったものと考えられております。そのため龍華、龍徹など数名の名跡はそのまま残されております。その龍華の名をあなたはなぜ知っているのですか?」 詳しくいきさつを話し、ついでにあの本堂の地下の暗闇の室についても、詳しく知る限りのことを述べた。調度品のことやいつもポットの湯が沸いていることも。 僧は目を丸くした。 「その通りです。どうやらお話に嘘はなさそうですね。ええ、正直に言って、何か言いがかりをつけに来られたのではないかと思っていました。あの部屋は、本堂建築の際、本業の大工に任せず、当時の僧たちだけで力を合わせて作り上げた秘密の修行場なのだそうです。その部屋は、ご存知のように、一般の方が通常行くことのない左側に設営されており、したがって、それを知る者は、この教団の僧しか考えられません。その部屋を知っているということは、いいかえればあなたの話は嘘ではない。龍華師に会ったというのも事実なんでしょう。つまり龍華師は、いまも教団のどこかにいらして人々に導きの手を下されているのでしょうね」 わかるような気がした。 夢ではなかったのだ。こちらは気づかなかったが、龍華師たちは、いずこかでこの身から離れた魔との戦いを続けているのだろう。 |
(おわり) |