禁 断 領 域 (5) |
5.開 眼
おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん 目が覚めた。何か奇妙な感覚があった。 浴衣を脱ぎ、作り付けのワードローブを開く。着替えながら、奇妙な感覚のことを考える。なんだろう。昨日、つまり寝る前とは明らかに違う感覚だった。 下着を着る。新品がそろえてあった。 新品? なぜわかる? 目を見開いて辺りを見回す。相変わらずの暗黒の世界だった。 が、見える。いや、感じる。 目を閉じてみる。見える。いや感じる。奇妙な感覚はこれだった。視覚に頼らずモノを識別する能力が目覚めたようだ。 着替えを済ませ、室内を歩いてみる。 手探りだった昨日までと違っていた。目を開いていても閉じていても、目に見えるようにすべてを感じ取った。 カウンター上のポットから、こぼすことなく茶器に茶を入れ、ホームポジションとなったソファに腰を下ろして、熱い茶をすする。 違和感はなかった。確かに新たな境地に踏み込んだ実感があった。うれしい気持ちとこれからどうなってゆくのかという不安があった。 「何らかの兆候が現れるまで」ここにいろ、と龍華は言った。このことを言ったのだろうか。あのときから龍華は一度もここへ来ない。来るのは修行中と思える若い?僧たちだけで、ほとんどが食事を運んでくるだけだった。一度だけ掃除に来たものもいた。掃除機の音でわかった。いずれも無言だったが、皆、暗黒の中でも不自由がないらしく、仕事に滞りはなかった。 つまり、この暗黒の中でモノが見えると言うことは、決して特別なことではないのかもしれない。誰でも時が来れば暗闇に慣れ、その中で生活できるようになる、とも思えた。 視覚障害者が、日常生活にさほどの困難を感じないのは、これに似た一種独特の能力が研ぎ澄まされるからであろう。聴覚障害者にしてもそうだ。聞こえないということは不便には違いなかろうが、他の感覚は磨き上げられ、障害のないものより一歩進んでいるのかもしれない。 他の感覚? 普通の人間には、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五覚があり、他にそのどれにも属さない特殊な感覚があるという。総称して、第六感、と呼ばれているが、特にこれの優れているものを超能力者という。あの龍華はまさしくその超能力者だ。いや、暗闇でもモノが見えるここの坊さんたちは、皆、超能力者といっていいだろう。 待てよ。 その坊さんたちと同じように暗闇でモノを識別できるようになったということは…… 俺も超能力者だ。他にも何か出来るようになったことがあるかもしれない。 たとえば、念動力。 試してみよう。 目の前のテーブル上の湯呑みに神経を凝らした。……移動させようと思ったのだが、何も変わらなかった。 やはり駄目か。あきらめて力を抜いた瞬間だった。 ん? 湯呑みがわずかに動いた。一センチほどだったが、確かに右へ動いた。 もう一度試してみよう。 息を止めて、再び湯飲みに神経を集中する。 く、く、く、駄目だ、あらん限りの力を込めたが、息が続かなかった。 ふうう。息を継ぎ、力を抜いた瞬間だった。湯呑みはテーブル上を大きく滑って床に落ちた。 「やった!」 ふん、どうやら反応するのは、力を込めたときより抜いたときらしい。それとも力の伝達が一瞬遅れるのか。まあいい。どちらにせよ動くのだ。「黒魔術」とか何とか言ってテレビに出れば一儲けできるかも。 「いけません!」雷のような声が轟いた。龍華の声だった。「そこは魔の領域です。そこで立ち止まったものは滅び去ります」 闇の空間に、龍華の顔が投影された。怒りに燃えたすさまじい形相だった。この容貌はどこかで見たことがある。そうだ、不動明王だ。 「人はわずかに神秘体験をしただけで神の啓示があった、と誤解します。あのホーム教の浅原祥光しかり、足裏診断の福長法眼しかり、他にも数えればキリがありません。まるで神になったかのように振舞って自滅しました。広大無辺、大宇宙を掌に置く、大日如来の力はそんなものではありません。その程度の力ならあなた自身が気づいたように、出家したての若僧がちょっと修行すれば身につけられるのです。必要なのは、無我力、念力、遠知力、心眼力、通神力のすべてです。一部の神秘体験だけで立ち止まってはいけません」 空間に投影された不動妙王の画像は、次第に厚みを増し実態のある存在になった。龍華が少し厳しい顔つきになって立っていた。テレポートだ。広大な教団施設のどこにいたのか知らないが、龍華は時間と空間、そして物体を超越してこの部屋にやってきた。 「おわかりでしょうが、あなたは修行のためにこの部屋に入ったのではありません。したがって副次的に何か神秘体験をされたとしても、それをもって超能力が身についたなどとお考えになってはいけないのです。あなたの力は不完全なもので、一般の人は騙せてもしょせん修行を経た者からみると子供だましの技でしかありません。たとえば暗視力。それはあなただけのもではありません。ここでは誰もが暗闇でモノを識別することが出来ます。念動力? あなたは精神統一をして物体を動かしたつもりでしょうが違います。あなたの精神統一なるものは雑念ばかりで統一も集中もされていませんでした。動いたのは、力を抜いて無念無想になったときでした。無念無想。できますか? それこそ御仏の世界なのです。誰もがその境地に入りたいと願い、誰も入れずに迷っているのです」 龍華は床から湯飲みを拾い上げ、ゆっくりとテーブルに置いた。 「ここへ来る前、あなたは死を願っていました。その願いは真剣でしたね。ここへ来てからは生への願望を持つようになりました。それが可能性が出てきたからで、ごく自然なことです。その余裕が真剣さを忘れさせ、世俗の人の最も悪い姿に戻ってしまおうとしています。でもそこは魔の世界なのですよ。いいえかまいません。あなたがどういう人生をたどるかは、あなたがご自由に選べます。今すぐここを出て金儲けに血道をあげる人生を送るか、それとも求道者としての人生を選んで生を取り戻すか」 聖職者として龍華はそう見るだろう。 しかし、魔の世界と言ったところで、金は人が作ったものだ。心正しいものが使えば生きるというものだ。この巨大伽藍にしてからが多くに信者から吸い上げた金の力で出来上がったものだろう。私は浅原祥光や福長法眼のような野心は持たない。自分を律すれば少しくらい金儲けをしたところで悪いことはあるまい。 「ここで修行をしたものの何人かも、そう考えて滅びて行きました。が、何を選ぶかはあなたのご自由です。今夜、本堂で大護摩が焚かれます。導師は、龍徹師。あなたがいたずらをして現在の姿になった日の同時刻にも、師は護摩を焚き、大日如来と交信をされていました。よろしければご出席ください。それがあなたが生を取り戻すためにここで出来る最後の試みです」 言って、不動明王、いや龍華は私を見つめ、そして部屋を出て行った。すさまじくも恐ろしい形相だったが、その目は慈愛に満ちていた。 |
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