禁 断 領 域

(4)




  4.暗 黒 宇 宙

   おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに
   はんどま じんばら はらばりたや うん

 「階段を下りると、光を完全に遮断してありますので、真っ暗になります。何も見えませんので、一般の方は、右手で壁を伝って約60メートルの戒壇巡りをしますが、われわれは、左手で壁を伝い中央にある部屋に入ります。酒匂さんにはそちらに滞在していただきます」
 龍華の後について階段を下りると暗黒の世界だった。左手を壁に当て、それだけを頼りにそろそろと進む。暗黒の中の通路だから障害物は何もないし、かすかな気配で龍華が先を進んでいることはわかるが、不安だった。
「右へ曲がります」
 龍華が注意した。注意がなければ壁に頭をぶつけるところだった。
 一般の戒壇巡りは、右手で壁を伝うといった意味がわかった。時計回りの一方通行なら、右手で壁を伝っていればコーナーで壁に衝突することはない。
 「これも修行の一つなんです。修行を始めて日が浅い人は、必ずここで壁に頭をぶつけます。毎日それを繰り返すと、どの辺りに壁があるか、自然に身体が覚えてしまいます。目の不自由な方が、日常の生活をほとんど障害なくこなすように。その感覚をさらに磨くと、暗黒の中でも物が見えるようになります。目で見るわけではありません。身体が感じるようになるのです。それが第一段階です」
 「私もその修行をするんですか?」
 「いいえ。修行とは、人が本来持っている能力を発掘する作業です。酒匂さんは、密教の僧になるわけではありませんから、修行の必要はありません」

 「ここです」
 龍華が立ち止まった。右側に、小さな、きわめて小さな、消え入りそうな灯明があった。その光のなんといとおしいことか。
 カタンとドアの開く音が聞こえた。
 「お入りください」
 促されて左手を伸ばすと、ドアが開いているのだろう、何もない空間があった。
 「そのまま左へ壁伝いに進むと椅子がありますからおかけになってください」
 手探りで椅子を見つけた。ソファだった。腰を下ろすと、何か安堵感のようなものが広がった。
 「この部屋は十二畳ほどの広さです。今あなたがお掛けになっているのは応接セットですから、前にテーブルがあり、向い側には二脚のソファがあります。この部屋には、他にデスクとカウンター・バーがあります。冷蔵庫もあり、飲み物が入っていますから、ご自由にお飲みください。お食事は、時間になったら運ばせます。精進料理ですからお口に合うかどうかわかりませんが、ご勘弁ください。トイレは右側、出入り口のドアの先にもう一つドアがあり、中にバスユニットがあって、トイレも併設されています。またお寝みになるには、左奥にもう一つ部屋があり、ベッドがありますのでそちらでどうぞ。なお、この部屋には、電灯はありません。ローソクの類もありませんので、すべて暗黒の中での生活になります。お困りのことがあれば、念じていただければ私に聞こえます。また、この部屋は修行の場ですから、ときどき修行僧が出入りします。そのものに申し付けていただいてもかまいませんが、ほとんど無言の行を行っていますので、返事はありません」
 「どのくらい、何日くらい、ここにいればいいんでしょうか?」
 「わかりません。1時間か、1ヶ月か・・・ とにかく何らかの兆候が現れるか、また、私のほうも調べることがありますので、それが終わるまで、とお考えください」
 「それまでここは出られないんですか?」
 「まさか。ここは牢獄じゃありません。お嫌でしたらいつでもそのドアから出ていただいて結構ですよ」

 龍華が出てゆき、暗黒の中に一人取り残された。
 光を遮断し、また防音構造になっているのだろう。何も見えず、何も聞こえなかった。
 しばらくすると、突然、身体が浮き上がった。いや、浮き上がったような感じがした。手を伸ばして確かめたが、ソファも壁も最初に腰を下ろしたときのままだった。浮いているとすれば、部屋ごとそっくり浮き上がったのかもしれない。
 不安が広がった。
 龍華は、ここは部屋だと言ったが、部屋かどうかはわからない。ソファのある部分、いや自分のいるところだけが実態のあるものであり、一歩踏み出すと底知れぬ深淵に落ち込むのではないか。そんな気がした。
 確かめてみよう。
 ソファから身を起こし、床に這った。這って少しずつ、床の広がりを確かめた。右へ回り、ドアを確かめる。万一の場合、逃げ出すにはこのドアしかない。鍵が架けられているのではないか。ノブを回してみる。・・・カチッと音がしてドアは開いた。2メートルほどのところに小さな灯明が見えた。あまりにもかすかな光だが、暗黒の中で唯一見えるものといえばこの灯明だけだ。ありがたくもあり、たのもしくも感じた。
 ドアを閉め、四つん這いのまま、右手を触覚のように伸ばして先を確かめつつ進む。
 身体一体分ほどで壁に突き当たり、左へ回り込むとすぐにまたドアがあった。開けてみるとかすかに水の匂いがした。バスルームなのだろう。龍華の説明は正しかった。
 壁に身を寄せてさらに進むと、何かに頭をぶつけた。手探りで形を調べる。椅子のようだった。龍華は、デスクがあるといっていた。それ用の椅子のようであった。
 椅子を支えにして立ち上がった。どうやら突然落とし穴に落ち込む心配はなさそうだし、膝が痛くなってきたためだ。
 椅子に腰掛け、手を伸ばすと、確かにデスクがあった。大きくはない。ビジネスホテルの作り付けのデスクのようなものだった。引出しを開けて手を突っ込んでみる。プラスティックのファイル状のものがあり、紙が閉じこんであった。他の引出しも同様で、こちらには本が入っていた。こんな暗黒の世界で、本が読めるのだろうか。
 やや大胆になって、探検を続ける。
 今度はカウンターバーらしきものに行き着いた。
 ストールが2脚、カウンター上には水差しと盆に伏せたコップ、ポット等があった。ポットは湯が入っているらしくほんのり温かかった。カウンターを回りこむと、内側には水道があり、背面には食器棚、冷蔵庫があった。食器棚には、ボトルやグラス類が並んでいた。冷蔵庫には、飲み物らしい缶やビンが入っていたが、ライトが点かないため、何があるのかわからなかった。
 ふと、笑いがこみ上げた。こんな真っ暗な世界で、酒盛りでもやるんだろうか。もっとも酒を禁じた寺でのことだ、真っ暗は都合がいいのかもしれない。……が、笑いが凍りついた。坊さんたちには、これがぜんぶ見えるのか? 見えるのかもしれない。龍華の超能力はすでに見てきたとおりだ。ここの坊さんたちは、真っ暗闇でもふだんどおりの生活が可能なのかもしれない。暗闇に坊さんが集まって酒盛り。あまり楽しい光景とは思えない。
 さらに探検を続ける。
 室内は、大まかに龍華が説明したとおりだった。寝室もあり、ベッドがあった。ベッドはきちんとセットされており、カバーがかけられていた。寝室には衣装ダンスとドレッサーがあった。ドレッサーの引出しを開けてみたが、化粧品の類は何も入っていなかった。坊さんには、化粧もヘアセットも必要ないからだろうか。またまた笑いがこみ上げた。真っ暗闇の中で、坊さんが鏡に向かって化粧する・・・?
 この部屋は、要するにちょっと気の効いたホテル並みで、これに窓とルームライトがあれば、何日でも滞在できそうだった。

 一回りして、もとのソファに落ち着いた。
 室内が龍華の説明したとおりだったので、やや緊張がほぐれたが、不安は去らなかった。
 不安の原因は、いきなり暗闇に放り込まれたことにもあったが、龍華に「あなたは幽霊だ」と指摘されたことが大きかった。
 生と死の狭間にある幽霊。もちろん今までに幽霊に出会ったことはない。出会ったことはないが、なにか恐ろしいもののように感じていた。夜間、墓場の近くや人気のない公園などを通ると、理由もなく不安になったものだ。人に恨まれる覚えはないが、ひょっとして出るんじゃないか、と。
 今、自分がその幽霊になってみて、幽霊とはそんなに恐ろしいものではない、気味は悪いが、悲しくもつらい存在なのだ、と思えた。

 カタンと音がして、入り口のドアが開いたように感じた。ドキッとした。このドアを開けて出入りするものは人間しかいない、それもほとんど坊さんで自分に危害を加えるはずはない、とわかってはいても、暗闇での予期しない出来事には不安になるものだ。
 いい匂いがした。食欲をそそる匂いだった。
 反射的に腕時計を見る。1時。蛍光塗料がほのかな光を放って時を示していた。
 カタッとテーブルに物を置く音がして、突然、右手をつかまれた。生暖かい手だった。気持ちはよくなかったが、なすままに任せていると、何かを握らされた。箸だった。続いて左手を引っ張られた。こちらは器に触れさせられた。熱いくらいのどんぶりだった。
 ここへ来る者は無言の行をしている、と龍華が言っていた。暗闇でものを見るのは、修練で可能になっても、無言で他人に意思を伝えるのは難しい。まして暗闇の中では。明るければ、見せればすむことも何らかの所作によって伝えなければならない。・・・「ありがとう」はどう伝えればいいのか。
 考えているうちに笑いがこみ上げた。
 相手は無言でも、こちらは無言の行をしているわけではない。普通に話せばいいのだ。
 「おいしそうな匂いがしますが、これは何ですか?」
 礼に続けてそう問いかけると、動いていた相手の気配が止まった。予期せぬ質問だったらしい。
 ややあって、左手が掴まれ、押し広げられた。
 う・ど・ん
 掌にゆっくり文字が書き込まれた。

 う・ど・ん は美味かった。麺はコシがしっかりしていて味もよく、汁は薄味ながらダシが効いていた。坊さんたちの手作りなのだろう。
 食事の間中、相手は闇の中でしきりに何かをしていた。足音、ものの触れ合う音などが続いた。何をしているのかわからないが、暗闇の中に一人だけではないことが実感できて心強かった。
 食事が終わるとお茶が出た。カウンターのポットの湯が使われたのだろう。ということは、相手はこの暗闇の中で、完全にモノが見えているといえる。そうでなければ、湯飲みに適量の湯を注ぐことは難しい。

 食事が終わると、また一人になった。
 相変わらず何も見えないが、腹がふくれたせいか、先ほどまでのような不安な気持ちにはならなかった。長く闇の中にいれば、いくらかはモノが見えるようになるかと思ったが、まったく光のないところでは、人間の視力は役に立たないのだろう。
 「だが、俺は人間じゃない。幽霊だぞ」
 声に出して言ってみたが、声は闇に溶けて消えた。

 こうして始まった暗黒の世界での生活は、何も起こらないまま数日が過ぎた。何日なのかはわからない。当初こそ食事の回数で時の経過がわかったが、一度眠り、目覚めてからは、意識に混濁が起こり、何度目の食事なのかさえわからなくなった。腕時計の蛍光表示もすでに効力を失い、時を知ることは出来なかった。
 時を知ることは出来なかったが、暗黒の生活にはだいぶ慣れた。
 手探りは相変わらずだが、何がどこにあるかを身体が覚えてからは、四つん這いから立ち上がり、壁に頭をぶつけることなく歩き回れるようになった。
 たとえばトイレ。ホームポジションとなったソファから、どの方向へどのくらい歩けばバスルームのドアに着くか、考えたり、数えたりしなくても正確にドアの前に立てるようになった。10センチほどの段差を上がり、一歩踏み出せば便器がある。ウォッシュレットのスイッチ、トイレットペーパー、水洗のハンドルなどは、いちいち意識しなくても操作できるようになった。
 風呂にも2度入った。ユニットバスは味気ないが、石鹸などの位置が決まっているので不自由はなかった。ちょっと難しかったのは髭剃りで、とくにモミアゲ付近の剃りぎわの見当がつけにくかった。

 この間、主に食事の世話で何人かの坊さんが出入りしたが、いわば母親のように頼りにしている龍華は一度も現れなかった。多忙なのであろう。この教団では幹部クラスと思える龍華のことだ、わけのわからない一幽霊にばかりかかずらってもいられないのであろう。それはわかるが、なんとなくさびしかった。

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