禁 断 領 域

(3)




  3.竜  華

   おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに
   はんどま じんばら はらばりたや うん

 突然、電話が鳴った。
 「こちら××教団本部web担当、竜華と申します。酒匂さまでいらっしゃいますか」
 光は消えていなかった。奇跡としか言いようがない、と思った。
 「どうして私の電話番号を……」
 「失礼いたしました。受付のものへの連絡が不十分でした。午前2時1分、不振な電話が架かった、との報告を受けましたので、ナンバー・ディスプレーの履歴を調べて確認いたしました」
 奇跡、というほどのことではなかったが、長い間接触すら拒否されてきた聖なるものとの確実な結びつきを感じた。
だが、まだ不審はあった。
竜華と電話で会話をしている、そのこと自体である。これまでは、聖域への接近はもとより、電話での会話すら不能であった。現に、たった今架けた密教本部への電話も同じではなかったか。
「そんなことですか」
竜華がこともなげに疑問に答えてくれた。
「私は今、思念でお話しております。俗にテレパシーと言われているもので、一般的には超能力と思われておりますが、実は人間が本来的に持っている能力なんです」
 その昔、人は意思伝達の手段として、そうとは意識せずにテレパシーを使っていたという。狩猟が主たる食料調達の手段であった時代、鹿や猪、時にはマンモスのような巨大動物を相手に、人々は協力して捕獲作戦を繰り広げた。この作業には緊密な連係プレーが必要だが、敏感な動物を追い詰めるためには音や声は無用であった。人々はテレパシーにより互いの位置を確認しつつ獲物を取り巻く輪を絞り、いっせいに襲い掛かったのである。
 時代が下って、農耕牧畜を主とする定着型の生活様式をとるようになると、言葉の発達に伴い、次第にテレパシーによる意思伝達が不要になり、その能力も退化していった、というのである。
 「テレパシーのことを私たちは思念と呼んでいます。言葉では言い尽くせない深い思いを、そのままの形で受発信することによって、悩みや苦しみを心底理解しあうのです」
 なるほど、僧侶や牧師が人の心を捉え、悩みの本質に迫ることが出来るのは、そうした能力を駆使しているためか。
 「いえいえ、残念ながらすべての聖職者がこういう能力を持っているわけではありません。巧みな言葉遣いで、人を誤った道へ導くものもおります。また能力のレベルもさまざまで、私などはまだまだ未熟者なんですよ」

 未熟だろうがなんだろうが、とりあえず自分に起こっている事態を理解してくれているのはこの龍華だけだ。この人を除いて、解決策を示してくれる者は考えられない。
 明朝10時、教団本部の龍華を尋ねることを約して電話を切った。深夜だったが、あたりは真昼のような明るさに満ちていた。

 午前10時。
 東京都港区××、指定された教団本部を訪ねた。いや、訪ねようとした。
 駄目だ。地下鉄を降りて説明されたとおりの道をたどったが、交差点をわたろうとして突如見えない壁にぶつかった。
 道路の向こう側、100メートルほど先に門が見えている。多くの人々が出入りしているのが見える。この交差点からも、横断歩道を渡って多くの人が何事もなく門内へ吸い込まれてゆく。
 中に邪悪なものが一人、厳しい拒絶にあがいていた。

 僧形の男が一人、門内から現れた。ぐるっと周囲を見回してから視線を左腕に落とした。時計を見たのだろう。
 龍華だ。直感的にそう思った。約束の時刻に現れない相手を探しに出たものだろう。
 「ここだ、龍華さん。私はここにいる」
 門前の僧は、やおら右手を空中に差し伸ばし、文字でも書くように振り回したかと思うと、両手を胸の前にあわせて静止した。この容は、あの密教サイトで見たことがある。九字を切って印を結ぶ。何かの呪法を行っているようだった。
 「酒匂さん、いらっしゃってますね?」
 龍華の声が頭蓋内に響いた。
 「はい」
 門前の龍華が呪法を解き、こちらを向いた。軽く手を上げ、にっこりと微笑んだようだった。「心配は要らない。私に任せなさい」 そう言っているようでたのもしかったが、依然として目の前のバリアは解けなかった。

 それと察したのだろう。龍華が再び呪法に入った。
 ガクンと列車の停まるような衝撃があった。しかし衝撃を感じたの は、自分だけのようで、周辺の風景には何の変化もなかった。バリアもそのままだった。
 そのまま時が経過した。龍華の呪法は継続していた。通行人たちが不思議そうに龍華を振り返った。
 ふと気づくと、龍華の姿が消えていた。というより、龍華のいたあたりの空間がゆがみ、周囲の風景全体を隠していた。空間のゆがみは、雲が湧くようにむくむくと蠢いていた。何か得体の知れぬものが形を成しつつあった。
 「酒匂さん、どうぞこちらへ」
 得体の知れぬものは、チューブだった。透明のチューブがするすると伸び、横断歩道を渡って目の前にぽっかりと口をあけた。中に龍華と思われる僧の微笑が見えた。活力に満ちた柔和な笑顔だった。

 「これは俗に言うテレポートですよ。ワープという人もいます。酒匂さんのいらっしゃった地点と私のいた地点を思念の上で同一のものとしたわけです。色即是空、空即是色。もともと時空間というものは意味を持っていないのです」
 教団本部の広い敷地内を歩きながら龍華が説明した。龍華の声は柔らかく、暖かく聞く者を包み、この世の悩み事などすぐに消し飛んでしまいそうだった。

 「注意書きを無視して真言を弄んだために仏罰が下ったのだと思います」
 通された応接室で改めて経過を説明し、この身に起こっていることの自分なりの解釈を述べた。
 龍華は声を上げて笑った。ふくよかな笑いだった。
 「いいえ、違いますよ、酒匂さん。仏さまはそんなちっぽけなことに腹を立てて罰を下すような小さな存在ではありません。広大無辺、大宇宙の人知の及ばぬ大きな摂理を支配されておられるのです。人間の起こす小さな曲事など、蚊に刺されたほどにも腹を立てることはありません」
 ではいったい……
 「おそらく、酒匂さんが真言を唱えられたそのとき、まったく同時刻に、同じ真言を唱え大日如来様と交信をしたものがいるのでしょう。たぶん修行の熟達者で、思念は巨大で激烈なものだったと思われます。その流れに酒匂さんの小さないたずらが巻き込まれ、弾き飛ばされてしまったのだと思います。弾かれたあなたは、偶然のことですが、生と死の狭間に落ち込んでしまいました。生者でもなく死者でもない。そう、あなたは今、一般に幽霊と呼ばれている存在なんでしょう」

 仏罰でないのなら、なぜ聖域への接近が拒まれたのか。
 「寺や教会があなたの接近を拒否したわけではなく、酒匂さんの方が寺や教会を嫌ったのでしょう。というものは、もともと寺や教会は、生者に対して開かれたものだからです。生者は、お風呂に入って体の汚れを落とすように、寺や教会に行くことによって心の汚れを落とします。ところが幽霊は、生者つまり人ではありませんし、求めていることも違うわけですから、猫が風呂を嫌うように、あるいは魚屋へ野菜を買いには行かないように、あなた自身が無意識のうちに寺や教会への接近を拒否したのでしょう」
 ではどうすればいいのか。幽霊の状態から脱するために。
 「わかりません」
 龍華はあっさりと言った
 「私はこれまで、生きている人のさまざまな願いは扱いましたが、幽霊の願、それも生死にかかわる願は初めてですのでね。調べてみたいと思います。しばらくここに滞在していただけますか?」

 超能力を駆使する龍華にも解決策は見出せないという。
 が、この身に起こった事態について、いままでの曖昧模糊とした状態から、一歩、解明に近づいたことは確かだ。このまま龍華に身をゆだねてさえいれば、少なくともいままでに味わってきた苦しみに出会うこともあるまい。
 「では、こちらへどうぞ」

 教団本部は、東京の真ん中によくもまあこれほどの敷地を、と驚くほど広大だった。いくつもの建物が立ち並び、それぞれが回廊で結ばれている。つまり、いったん正面玄関で下足を脱ぐと、そのままどの建物へも行ける御殿のような造りになっているのだ。そのため、建物を繋ぐ回廊の分岐地点には簡単な地図と案内標識があった。
 龍華に導かれて長い回廊を歩き、一番奥まったところにある「正本堂」に案内された。中には巨大な黄金の仏像が脇侍を従えて鎮座していた。
 「ご本尊の大日如来様です」
 龍華はそういって跪き、合掌して深々と頭を垂れた。

   おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに
   はんどま じんばら はらばりたや うん

 おなじみの真言だ。意味もわからぬまま暗記してしまっていたので、龍華を真似て跪き音唱しようかと考えたが、身体が金縛りにあって動かなかった。
 「いいんですよ、無理をなさらなくても」
 龍華が微笑んで言った。
 「ご意思の通りに動けないんでしょ? 仕方がありません。おそらく幽霊は、心と身体が分離していて、お考えの通りに身体が動いてくれないんでしょう。もともと信仰をしていない仏像に合掌は出来ない。正直なんですよ、幽霊は」
 立ち上がった龍華は、さらに本堂の奥へと進んだ。

 地下へ下りると思える階段があった。
 「ここは戒壇巡りといって、ご本尊様の真下に作られた暗黒の世界です。通常は、信徒の方々が心を澄まして仏様と直接心を通わせる場として使われます。中には、死後の世界の疑似体験などとうがった見方をする人もありますが、無理にそんな意味づけをする必要もありますまい。暗黒の世界は、明るくては見えないさまざまなものを見せてくれます。ですから私たち僧侶にとっては大切な修行の場なのです」

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