雨乞い地蔵 終 結 |
洞窟の中で、守鶴はまあるくなって眠っていた。 かあさんの夢を見ていた。……といっても守鶴はかあさんの顔をほとんど覚えていない。かあさんのことで覚えていることといえば、あのやわらかいおっぱいと、抱かれて眠るときのあたたかい感触だけだった。 守鶴は眠るとき、いつもかあさんの夢を見た。 「守鶴よ。これ、守鶴」 かあさんに呼ばれたような気がして目が覚めた。 洞窟の奥の岩棚にまばゆい光が立ち込めていた。 光の中に黄金のご主人さまが立っていた。きれいに剃りあげた丸いおつむ、理知的で鋭いが慈愛のこもったお眼、ふっくらとした頬…… 大好きなお地蔵さまが、右手に錫杖を持ったいつものお姿で近寄ってきた。 「守鶴よ。母が恋しいか?」 お地蔵さまのお声は小鳥たちの歌声のように美しかった。 「まもなく弥勒さまが降られる。弥勒さまがおいでになるとお前の仕事も終わり、恋しい母にも会えようぞ。永い間、ご苦労であった。疲れているか?」 「いいえ、お地蔵さま。この仕事はとっても楽しく、少しも疲れません」 「そうかな? 早く母の許にまいって、ゆっくりと眠りたいであろう。だがその前にもうひと働き、最後の仕上げをしてもらわねばならぬ」 「はい。なんでもお命じください」 「弥勒さまが降られると、この世は終わる。この世のすべてが無に帰して、新たなる天の世に再生する」 「すべて…… 人も草木も動物も、でございますか?」 「山も川も海も。この世を成しているすべてだよ」 「すべてなくなる…… 想像がつきません」 「よいよい。すべて弥勒さまにお任せしておけばよいのだよ」 「守鶴よ。さあ、行きなさい。行って、お前が私に代わって人のために成したすべてのことの最後の仕上げをしてきなさい」 「最後の仕上げ? どうすればよいのでしょうか?」 「わからないかな? 色即是空、空即是色。およそ形あるものに意味はない。形あるものに頼る者は形とともに滅び、御仏の真理にすがる者のみ、明日の世に生き続ける。現世においては、目に見える形が必要だったが、それはもういらなくなった。形にこだわらず弥勒さまの手にすべてを委ねるには、もはや形は邪魔でこそあれ、必要なものではない」 「大丈夫でしょうか? 形がなくなると迷うものが出てきはしますまいか」 「それでよい。そのための仕上げじゃ」 守鶴は、崖上の岩に立った。 抜けるような青空のもと、眼下には、黄金色の実りが広がっていた。 畑を取り囲むように、深い緑の山々が連なり、その山から流れ出した川が一筋、畑の間をうねうねと流れていた。 美しく平和な風景だった。 瓦礫の大地を、人々は、苦労に苦労を重ねてこのように美しい土地に変えてきた。その労苦がようやく報われようとすると、いつも鬼が現れてすべてを突き崩してしまった。 ふたたび、人々は汗と涙と血を積み重ねた。人々の願いはまた実を結ぼうとしたが、またも鬼が現れてすべて打ち壊してしまった。 その繰り返しだった。 その繰り返しも、いま終わろうとしている。 地蔵菩薩は裳裾を広げ、錫杖を差し伸べて、人々に呼びかける。 「さあ、おいで。この世は終わる。私とともに如来となった弥勒さまにおすがりし、新しい世に行こうではないか」 守鶴は、お地蔵さまを手伝って、いままで人々のために様々なことをしてきた。いま、その一つ一つの成果を見定め、最後の仕上げをするときが来た。 守鶴は、転がるように岩山を駆け下りた。 澄んだ水が心地よい音を立てて流れる川のほとりに、粗末だが手入れの行き届いた小さなお堂が建っていた。 中にはまあるく細長い石が赤い頭巾をかぶって立っていた。 お堂の周りは掃き清められ、花が飾られ、果物が供えてあった。 その様は、この石への、人々の敬愛の深さを表していた。 「さ、お前の役目は終わった。大地へ帰るがよい」 守鶴がそういって手を延べ、赤い頭巾の上から丸い石を軽く撫でると、石はずぶずぶと地中に沈み、消えていった。 「雨乞い地蔵さまを、どうしたんですか?」 背後から声がかかった。詰問するような女の声だった。 振り向くと、驚きと怒りの表情を浮かべた若い娘が立っていた。その顔に、守鶴は覚えがあった。いや、この娘は知らない。会ったことはない。だが、その容貌は、遠い昔の記憶と重なっていた。 「清兵衛さんのお血筋かな?」 「おじいちゃんを知っているんですか?」 「おじいちゃん? あ、いや。いまの清兵衛さんには会ったことはない。私が知っているのは400年前の清兵衛さんだ」 「400年前って……」 娘は絶句して、守鶴をしげしげと見つめた。 笠をかぶり、墨染めを着た雲水だが、おそろしく汚い坊さんだった。笠はあちこちに穴が開き、衣はぼろぼろで、着ているというより巻きつけて帯で縛り付けてある、といった感じだった。 400年前、と坊さんは言ったが、そのくらい年をとっていそうにも感じたし、自分を見る黒いまあるい目は生き生きとしていて、自分と差がないくらい若そうにも思えた。 「お坊さんは、誰なんですか?」 「私は、守鶴。で、お嬢さんは?」 「鍵山清子。そんなことより、雨乞い地蔵さんをどこへやってしまったんですか?」 「どこへもやりはしない。雨乞い地蔵さまは役割を終えて、元の姿に還っただけ。400年前、あの石はまさにこの大地から生まれ、清兵衛さんとともにそれぞれの役目を果たしてきた。そしていま、仕事を終えて、生まれた大地に還って行ったのだよ」 「でも、雨乞い地蔵さまはこの村の守り神なんですよ。いくらお坊さまでも勝手にそんなことしていいんですか? 雨乞い地蔵さまは大地を鎮め、天候を支配することのできる、村の守り神だって、おじいちゃんから聞いています。日照りのときは、軽く揺すってお願いをすると、3日のうちに必ず雨がふるそうです。何かの事情でこの土地から移るときは、雨乞い地蔵さまも必ずお連れするのが決まりで、おじいちゃんもそうしたんだって。そんなに大事にしているものが、突然、役割を終えたからもとの大地に帰った、といわれて誰が納得するかしら?」 「だがね、雨乞い地蔵さまといったってしょせん石。それ自体には何の価値もない。それは、この世にあって尊ばれている仏像や神殿にしても同じ事。元をたどれば、木や石や金物でしかない。そういうものには心もなければ、魂もない。なぜ、そういうものを、心も魂も持っている人間が尊び、崇敬するのだろうか? 「それは、人々が、そういう木や石の向こう側に、尊び、崇敬すべきものがあることに気付いているからにほかならない。 「人々は苦しいとき、悲しいときに、神も仏もないのか、と嘆いてきたね。そう。人々が感じていた通り、お釈迦さまが入滅して以来、56億7千万年の間、この世には神も仏もいないのだよ。だから人々は、弱い心の支えとして、神さまをモノになぞらえたり、仏さまのお姿を想像して木や石に刻んでよりどころとしてきた。雨乞い地蔵さまもそのひとつだった。 「だがね、まもなくこの世は終わる。この世が終わって、来世、あの世がやってくる。来世には仏さまがいらっしゃるので、人々の心のよすがとなってきた形のあるもの、仏像などはもういらないのだよ。人の作ったものはすべて木や土や水という本来の姿に戻ってゆく。いや、木や土や水すらも、大宇宙の根源へと還ってゆく。 「わかるかな? もう形あるものにすがる時は終わった。これからは、心のうちなるものを大切にする時なのだよ」 薄汚い坊さんは、そう言い残して、おりしも盛りを迎えた紅葉の山へと去っていった。 大地が揺れている…… 夢と現実の境目で、清兵衛はそう感じていた。 身体が思うように動かなくなり、床を離れられなくなってから、地震はずっと続いていた。 しかし家族は誰も地震を感じていないようで、清兵衛がそのことを言っても笑っているだけだった。 自分は寝ているから感じるのだろうか。それとも、みんなに言われるように子供のころに体験した、あの関東大震災の恐怖が、死を間近にした今、よみがえっているのだろうか。 あの時のことを、近頃はよく夢に見る…… 鍵山四郎が村を出てから1ヶ月ほど後のことだった。芦高村に2人の男が侵入した。 清兵衛はじめ、村人は知らなかったが、四郎が発表した「信玄の埋蔵金発見」という報に日本中が沸き立ち、甲州の山々は、埋蔵金発掘を狙う欲深い人々で埋め尽くされていた。 2人はそういう輩で、鍵山四郎が芦高村に来たときと同様、ほとんど偶然に迷い込んだものだった。 男たちは、疑うことを知らず、また金の価値を知らない村人から甲州金のありかを聞き出し、狂喜して滝つぼの甲州金を掘り上げた。 滝つぼに沈んでいたものも、周辺に散らばっていたものも、そして、滝つぼの横に立てられていた「雨乞い地蔵」の台座に使われていたものも。 雨乞い地蔵は、ただのじゃまな石として蹴飛ばされ、引っくり返されてしまった。 大正12年9月1日午前11時58分。 雨乞い地蔵がひっくり返された、まさにそのとき、関東地方を大地震が襲った。 激しい地震につづいて、滝が割れ、どこにそんなに水があったのかと思われるほどの洪水が芦高村を襲った。 村は壊滅した。甲州金も、男たちもいずれかへ押し流されて消えた。 清兵衛をはじめ、村人が茫然となっているところへ、全身に負傷し、血みどろになった鍵山四郎が現れた。 「信玄の埋蔵金」調査団を案内してきたが、芦高村に入ろうとしたときに地震に遭遇し、全員が崖から転落したものだった。4人が死に、四郎だけがかろうじて助かったのだった。 村人たちは四郎を恐れた。 村は壊滅した。この災厄は、すべて鍵山四郎がこの村に現れたときから始まった。永い間、何代も前の先祖たちの時代から、平和で豊かだった村が、うたかたのごとく消え去り、村人は絶望の淵に追いやられたのだった。 「出て行ってくれ!」 口には出さなかったが、村人の目が四郎にそう訴えていた。 「おせつと清太郎をあんたの世界で幸せにしてやってもらえないだろうか」 清兵衛はそういって、四郎に村を出るように勧めた。 さすがに名主清兵衛は、時代の流れがこの村を外の世界と結び付けようとしていることを悟っていたが、村人の気持ちを無視するわけにはいかなかった。村人たちを束ね、とりあえず平和な村を再建しなければならないのだ。 「村の再建は難しい。多分、できないだろう。それは地震と洪水ですべてが無に帰したためではなく、村人がこの村の外に、どうやら大きな世界があることを知ってしまったためだ。長い年月をかけ、自然を相手にして気の遠くなるような農作業を続けるより、希望と可能性を求めて外の世界に出てゆくものが増えるに違いない。村を出るのはいい、人はそれぞれ思うがままに生きればいいんだから。だが……」 清兵衛は、四郎の手を握って言った。 「誰も知り人のいない見知らぬ世界へ出て行って、生きてゆくのは難しい。あんたとおせつ、清太郎が、向こうの世界で新しい村を築いて、村を出て困り果てた者たちの寄る辺になって欲しい」 三人は村を出た。 村を出る前に、四郎とおせつは祝言をあげ、正式に夫婦になった。 清太郎は、四郎の養子になったが、名主の家の正統な跡継ぎということで、まだ子供ではあったが「清兵衛」を名乗ることになった。 村の出口の崖をよじ登るとき、若い清兵衛の背中には雨乞い地蔵がくくりつけてあった。 「これから何十人、何百人の命を預かるかもしれない名主にとって、これしきの石は重くない。雨乞い地蔵さまと一体になって新しい村づくりに励め」 というのが、老清兵衛の孫への別れの言葉であった。 村を出て、とりあえず三人は東京に向かった。 東京で、鍵山四郎が学者に戻れば、一家三人、食べてゆくのに困らない、と考えたからだったが、甘かった。 東京の街は、四郎が考えていたよりはるかにひどい地震の後始末に追われていて、当座の生活をするための家を見つけることもできなかった。四郎の知人友人はもとより、親戚たちも自分たちのことで手一杯で、まるで物乞いを追い払うような扱いだった。 東京帝大や学会の関係者、出版社等の知己も訪ねてみたが、何の成果もない「調査団」のただ一人生き残りは、誰も相手にしてくれなかった。 さらに困ったことは、四郎はともかく、おせつと清太郎改め清兵衛は戸籍が存在しないため、何かにつけ胡散臭い目で見られることだった。 食うや食わず、野宿の連続で放浪した挙句、三人は誰にも干渉されない甲州の山すその、石ころだらけの川原にたどり着いた。 芦高村。 四郎はここが、あの山間の、おせつと清兵衛の故郷の村と同じ名であることは知っていたが、その清兵衛の背に括り付けられた雨乞い地蔵の故郷であることは思いも及ばなかった。 「おじいちゃん、起きてる?」 孫娘の清子が部屋に飛び込んできた。 「たいへんなの。雨乞い地蔵さまが……」 雨乞い地蔵さま…… あのいい伝えはほんとうだった。 この土地に流れ着いた三人は、付近の村のものにあざ笑われながら石ころだらけの川原の開墾を始めた。 山の木の実や雑草、川の小魚で食いつなぎながら、三人で必死になって土地を耕した。苦しかったが、枯れた土地が見る見るうちに緑で覆われるようになり、3年目には、雑草を食べなくて済むようになった。 そのころから、どこで伝え聞いたのか、山の上の芦高村を出た人々が集まってくるようになった。 あははは。 義父さんは、学者じゃなくて大嘘つきだったなあ。「地震のときの火事で戸籍の原簿が焼けた」とかいってお役所に掛け合い、村の人の戸籍を片っ端から新しく作らせてしまった。 苗字や生年月日ができて、みんな面白がったり、不思議がったり…… 「雨乞い地蔵さま、なくなっちゃったのよ。へんなお坊さんがね、雨乞い地蔵さまは役割を終えて土の中へ帰ったんだって……」 役割を終えた? そうかもしれない。名主の清兵衛だって、とっくに役割は終わってしまったもの。息子の清純のやつ、もう名主がどうって時代じゃないし、清兵衛なんて時代劇みたいな名前に変えるのはいやだって…… とうとう清兵衛はおれの代で終わりになってしまった。 ……終わったんだな。 「ね、おじいちゃん。聞いてる?」 「聞いてるよ」 「雨乞い地蔵さま、なくなってもいいの?」 「重かったなあ、雨乞い地蔵さま」 「え?」 「雨乞い地蔵さまも芦高村を背負って重かっただろうなあ」 大地の揺れが激しくなった。 轟音が響き渡り、山々が動き出した。 清兵衛には見えていた。 富士山が噴火していた。曲摺連山の北岳が吠え、間の岳が爆発した。 日本中の、いや世界中の火山が活動を開始していた。 空は噴煙と舞い上がる灰に覆われ、海が沸き立っていた。 天空に一筋の光芒が走った。 天が裂け、おびただしい数の雲が湧き出て空を駆け巡った。 虹色の雲だった。 一つ一つの雲に人が、いや菩薩が乗っていた。 妙なる音楽が聞こえた。 雲に乗った菩薩たちが、それぞれ手にした楽器を奏でていた。 清兵衛の枕元に、白い光が立った。 「雨乞い地蔵さま!」 まあるく細長い石が白く光っていた。 石は少しずつ形を変え、錫杖をもった僧形の菩薩になった。 「来よ。弥勒さまの天へ」 差し伸べた地蔵菩薩の手にすがり、清兵衛は彼岸へ渡った。 |