童謡「青い眼の人形」について

金子義則さんのメール紹介・その3

1998.2.24

私が童謡「青い眼の人形」のモデルは何でしょう? と質問したところ、
とても熱心に調べてくれました。


「青い眼の人形の思ひで(本居長世)」


 また、本居長世の方もテキスト化しました。
 野口雨情も本居長世も没年は1945年とのことなので、著作権の保護期間50年
を経過しており、法律上の問題はないはずです。

 なお、JISコードにない漢字は適宜新字に置き換えてあります。

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青い眼の人形の思ひ出
本居長世

 この曲は、たしか大正九年の作と覺えて居ります。
野口雨情氏と提携して、始めて吾が國に童謠運動を起しまして、
まづ最初に世間に發表したのが、
十五夜お月さん、四丁目の犬などで、
それに次いで發表したのがこの童謠でした。
 
そもそも野口氏にこの歌の原稿を示されたとき、
これは面白い、きつといい曲ができると直感して
兩三度繰返し讀み下してをつたうちに
「青い眼をしたお人形は」の主旋律が自然と頭に湧いてきたので、
それを骨子として即座に筆をとつて、
何の苦心も無くすらすらと書き上げたのがこの曲です。
そして私の童謠中一番早く廣く世間にひろまつたのもこの曲でした。
當時の藤間靜枝さんが一番はじめに振付をし、
其後數多くの舞踊家の手によつて色々の振付もでき、
私の娘みどり、貴美子等によつて日本全國から臺灣、朝鮮、樺太、北海道の隅から隅まで、
この曲か舞臺にうたはれたことは數千回にも上つてをりませう。
 
大正十一年の大震災後、米國民の吾々に寄せた同情に酬ゐるため、
藝術答禮使節として、私がみどり、貴美子其他の人を伴ひ、彼國におもむいたときにも、
彼地で白人間に最も喜ばれたのはこの曲でした。

それは、歌詞がアメリカ生れのセルロイド人形を主題にしてある關係もありましたらう。
ブルーアイドダルと譯されて、各地で割れるやうなアンコールを常に繰返したものでした。
確に日米親善のためにもかくれたる貢献をしたのではないかと、
ひそかに自負もして見たことでした。
それとまた奇異に感じたことは、當時在米同胞などの中には、
この曲を聞いて、大の男が大聲を立てゝ泣いたこともありました。
その人達は、故國を離れてこの遠いアメリカまで稼ぎにきて、
毎日毎晩たゞ懷しい日本へ歸る日をのみ夢みてゐるのです。
その人達が、珍らしく日本から來た小兒達を見、またその口から歌はれる
「日本の港へ着いた時」などいふ言葉を聞くとき、
全く自分達の一番痛いところへさはられるつらさに、
つい泣かされてしまつたといふ話でした。

このやうにこの曲はいろいろな意味に於て、作曲者たる私にとつても、
特に忘れられぬ幾多の思ひ出を殘してゐるのであります。
 「歸り路」につくところ(五節かへりは汽車で)で節がかはりますが
氣持も一寸新しくかへてください。
 そして終りはちやうどみなさんがもとのところへかへつてゐらつしやるやうに、
この曲も初めの節にかへつてきます。
 たゞそのうれしさが、ゆく時の喜びとちがつて、
子供の凱旋の喜びとでもいふ心持ではないかと思ひます。
何んといふうれしい歌でせう。
 面白く心ゆくばかり歌つてください。

『日本童謡全集 6』(日本蓄音器商会 昭和12年)