2016年5月30日(月)  モランディ


贅沢をした。
盛岡に行ってきたのである。

それがなぜ贅沢なのかといえば、ジョルジョ・モランディの展覧会を見るために行ったからだ。
展覧会は東京でも開かれていた。行くつもりでいながら、気がついたときには終わっていた。
4月のワークショップ合宿のとき、その展覧会に行った塾生が話していた。
「モランディは、実物を見なければ理解できません」
モランディに限らず、どんなものでもその通りに違いない。

どうして入手したのか覚えていないのだけれど、ぼくのパソコンの脇に、その画家のポストカード1枚が15年ほどおいてある。好きなのに本物を見たことがない。それなら行くしかないだろう。かみさんに「盛岡に行かないか」と尋ねたら、間をおかず「行きたい」と答え、すんなりと決まった。自分の経済状態を考えれば、かなり贅沢な行為である。でも、行かなければ一生悔いる気がした。
盛岡は初めてだった。東北の他の土地さえ満足に知らない。初めての土地で、初めてモランディの絵を見る。

昼前に着いて、ホテルでチェックインを済ませ、昼食の後、路線バスにのった。ぼくたちは窓の外をきょろきょろ見渡しながら、凸凹道をゆられた。そして絵の前に立った。
モランディについて多くを語りたくない。 わからない部分を含めて、ぼんやりと頭にしまっておきたいのだ。
(だから少しだけ、まとまりのないことを書きます)

入ってすぐに見た絵は、まだ「モランティ」ではなかった。それはそういう意味でおもしろかった。色もタッチも構図も力強く、見入るほど良い絵だったが、描こうとする意思が勝っていた。(セザンヌの影響も感じた)。しかしそんな若さゆえの力ずくの絵も好きである。
若描きを何点かを見たあと、絵は"あの"モランディとなった。
ものの表面を描くことが絵だと思う人は、この人の絵を見ると虚を突かれるだろう。ぼくは絵を見ている感覚が失われた。そういうものがそこにある。つまり、ものが描かれているというよりも、ものがそこに存在する。
そんな印象を受けつつ、妙なことに、モチーフになったものから有体離脱した本性が描かれているように感じることがあった。あるいは逆に、描かれているのは抜け殻ではないのか、そう思えるものもあった。
単純な構成の絵は、見る者に様々な解釈の愉しみを生む。それにしても自在なタッチである。

はるばる岩手県立美術館に行くことで、ゆったりと存分に見ることが出来た。
盛岡とモランディ。
まったく関係がないはずのふたつが、ぼくのなかで繋がってしまった。連星のように残りつづけることだろう。

後日、新聞のスクラップをしていたら、松家仁之さんの絵画についてのこんな文章が目に止まった。
<もしも自分が絵を描くことを仕事としていたら、言葉を使えない悩みを抱えることがあっただろうか。 (中略) その場所にさしこむ光と、生まれる影を描くことさえできれば、そこに何の不足があるだろう。絵画とは言葉を失って得られる、限りない自由なのだ。>

実物を目にすることの幸福を、モランディでも感じることができた。
肉声を聞いたような感覚。
そう感じたのは、おそらくモランディの筆のタッチではないだろうか。
絵画はプリミティブだ。生(なま)の人が刻印される。


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