「1974 軍艦島」

 

 日本列島の西の果てに、端島(はしま)という島がある。むかし、島は小さな岩礁に過ぎなかった。だが1810年に偶然に発見された石炭が、岩礁の運命を大きく変えることになる。
 埋め立てが始まり、人が住みつき、石炭の採掘を契機に岩礁は拡張の一途をたどってゆく。そしていつしか周囲が1キロメートル余り、人口が5300人を超える人工島へと変貌し、高層住宅や鉱場の建築物がすき間なく建ちならぶ、コンクリートの迷宮が海上に出現した。海から眺めるそのシルエットは軍艦に酷似し、いつしか島は「軍艦島」と呼ばれるようになった。

 中学1年生の時、父親が買ってくれた百科事典で軍艦島を知った。「日本にこんなところがあるのか」。山間の小さな盆地で育った子供にはあまりにも異質で、空想を駆り立てる島だった。いつか行ってたいと思った。
 芸術大学デザイン科在学中に写真を独学し、写真漬けの生活が始まった。そのころ興味を持った「日本のキリスト教」を知りたいと、カメラを手に長崎の島を尋ねるようになっていた。佐世保市沖の黒島で夕餉をいただいていた時、テレビから「軍艦島」という声が流れた。反射的に振り向くと、島の閉山を告げるニュースが流れていた。そうだ、軍艦島は長崎にあったのだ。もう居ても立ってもいられない。すぐさま長崎市に向かった。
 1974年1月10日、22歳の冬、
初めて島に渡った。
「ひと目だけでも見たい」。その気持ちは島に渡ってから大きく変化した。島が想像を絶していたからだ。圧倒され、魅入られ、気がつけば、写真を撮らねば…という気持ちしかなかった。

 島の海底炭鉱から掘り出される石炭は、明治以降の日本の基盤を作り、かつて島は世界一の人口密度を誇った。周囲を高い岸壁に取り巻かれ、海の要塞にも似た島は、小さいながらも国と呼べる雰囲気を漂わせ、<この島にないものはない>と住民は豪語した。確かにその狭苦しい土地には何でもそろっていた。ただひとつ墓地を除いて。ところが時の流れは皮肉だった。その時すでに島は巨大な墓場となる運命を宿していたのだ。
 当時、島ではまだ生活が営まれ、掘り出した石炭の大きな山があった。一見すると普段と変わらないように見える状況のなかで、住み慣れた島を離れるという住民たちの苦悩を次第に理解していった。自分自身も写真することの難しさに悩んでいた。生きることの意味を問いかけながら、写真に没入した。写真がその頃のすべてだった。
 島に部外者が宿泊できる施設はなく、長崎から通って写真を撮った。 そんな生活を続けるうちに
島には顔見知りが増え、互いに打ち解けるようになっていた。しかしその間にも島の人口は減り続け、親しくなった家族を乗せた船が島を離れるのを見送る日が増えていった。
 そうしてとうとう島の最期、4月20日を迎え、その日に島を発つ最終船でぼくも島を離れた。もうこの島に来ることはないと思った。
 子供のころの夢を叶えた気持ちと、寂しさが同居した。後者の方が優っていた。


 25歳のとき、当時憧れの写真ギャラリーだった東京のニコンサロンで、一年に2度の個展を開く幸運に恵まれた。その時のひとつがこの端島の作品だ。それらの作品で第3回木村伊兵衛賞にノミネートされた。そうそうたる候補者の顔ぶれの中に、まだ写真家と言うには恥ずかしい自分の名があった。受賞は出来なかったが、自信は満ちた。(受賞者は藤原新也さん)


(『閉山・軍艦島より』のタイトルを、後に『1974 軍艦島』に改題しました。)

(このシリーズは1974年に撮影)

 

 

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