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ねぇ、兄さん。
兄さんの体温。
兄さんの匂い。
ボクはもう、それらを思い出せないんだ。
何の感覚もないボクからは、記憶は遠ざかっていくばかりで。
もう、兄さんの優しささえ、思い出せない。
エドワードとアルフォンスは、賢者の石を探して、相変わらず雲を掴むような旅を続けていた。
その旅先の宿で。エドワードが一心に本を読んでいた。
「兄さん、もう遅いよ。そろそろ寝なくちゃ駄目だよ」
時計の針は、とうに日付を変えていた。
「んー…もうちょっと」
エドワードの上滑りな返事が返る。
「そんなこと言って、夕べもろくに寝てないでしょう?いい加減、身体を壊すよ」
アルフォンスは、一向に本から目を離す気配の無いエドワードに怒って、実力行使に出た。エドワードの手から本を取り上げる。
「あ!何するんだよ!」
エドワードが抗議の声を上げ、本を取り返そうとする。
「もう寝なくちゃ駄目だって言ってるだろう」
「もうちょっとで読み終わるんだよ!」
「どこが!?まだ半分しか読み終わってないじゃないか!最後まで読んでたら朝になっちゃうよ!」
「別にいいんだよ!オレは平気なんだから!」
「〜〜〜言っとくけどね、兄さん!兄さんがいつまでも小さいのは、機械鎧のせいだけじゃないと思うよ!牛乳は飲まないし、夜は寝ないし、そんなので身長が伸びるわけがないだろう!」
「なんだとー!?誰が豆粒ドチビだ!そんな牛の絞り汁なんか飲まなくってもなぁ!オレはそのうちでっかくなってやるっつーの!」
ばたばたと本の取り合いをしていた筈が、いつの間にか取っ組み合いになっていた。
「っこのバカアル!!!」
エドワードの繰り出した拳を、アルフォンスは難なく弾く。そのまま、エドワードは腕を取られてベッドへと放り投げられた。
「うわっ!…ちくしょ…っ!」
すぐに体勢を立て直し、エドワードはアルフォンスを睨み付けるが。
アルフォンスは、じっとエドワードを見据えていた。
「!?」
その暗い鎧の両眼に、エドワードは、びくり、と身体を硬直させる。
「…もういいよ。兄さんの好きにしたらいい」
アルフォンスは苛立ちを滲ませた声でそう言うと、本をエドワードへと投げ出し。くるりと背を向けた。
「ア. アル!?どこに行くんだよ!?」
エドワードが、部屋を出て行くアルフォンスの背中に慌てて問い掛けるが。
ベッドから飛び降りて駆け寄るエドワードの鼻先で。ドアは音を立てて閉められた。
拒絶。
あからさまなアルフォンスからの拒絶に。エドワードは傷ついたように瞳を揺らし。やがて、暗い表情で視線を落とした。
最近、アルフォンスは苛立っている。そのことには、当然エドワードも気付いていた。
その為、しょっちゅうふたりの会話は喧嘩へと発展してしまう。
正確に言えば、喧嘩の原因はいつでもエドワードなのだ。アルフォンスはいつでも正しいことを言っているに過ぎない。けれど、常ならエドワードを宥めすかし、上手く言いくるめてしまうアルフォンスだったのに。このところ、彼にその気はなさそうで。真正面から喧嘩になれば、エドワードは、その素直でない性格から、譲歩することが出来ない。
はぁ、とエドワードはため息を吐く。
アルフォンスと喧嘩をするのも遣り切れないが、本当の問題はそこではなかった。
アルフォンスが苛立っている理由。
それを思うと、エドワードの胸は酷く軋む。
(アルはきっと、いつまでも思うような成果が得られないから、苛立っているんだ。オレが不甲斐無いせいで…)。
ぎゅっ、と眉根を寄せた。
アルフォンスの気持ちを思う。早く元の身体に戻りたい、と言っていた。その言葉を。最近は、聞いていない。
諦めているのだとは思いたくなかった。また、アルフォンスの苛立ちは、焦りからのようにエドワードには思える。
アルフォンスは、元の身体に戻りたくて、焦っている。
(ごめんな、アル。でも絶対におまえを元に戻してやるから…)
エドワードは、ひとりきりの部屋で。強く胸に誓った。
その朝も、ふたりは喧嘩をしていた。
「この牛乳は飲んでって言ってるだろう!兄さん!!」
宿の部屋で、アルフォンスが声を荒げる。
「飲めるか、そんなもん!」
ふんっ!と、エドワードはそっぽを向く。
「兄さん、この牛乳はここのおばさんが、牛乳嫌いの兄さんの為に、わざわざ朝一番に取りに行ってくれたものなんだよ!?他の牛乳より、うんとおいしいからって…!それを知ってるくせに…!」
アルフォンスが詰れば。
「オレが頼んだわけじゃないだろ!」
という言葉が、エドワードから返された。
アルフォンスの心が、すーっと冷えた。
「…兄さんが、そんなに平気で、ひとの好意を踏みつけに出来る人間だとは思わなかったよ」
怒りを含んで低くなった声に。エドワードは慌ててアルフォンスを見た。
「わかったよ。この牛乳は、他のひとにあげてくる。喜んで飲むひとはいくらでもいる。わざわざ嫌がるひとに飲ませる必要なんかないから」
「………」
エドワードには返す言葉がなかった。また、アルフォンスを怒らせた。
アルフォンスの出て行ったドアを見つめて。エドワードは唇を噛み締めた。
多分、ここで親しくなった子ども達にやるつもりなのだろう。あの牛乳は美味しくて人気があるから、朝一番に取りに行かないと手に入らないという話だ。きっと、皆、喜ぶだろう。
エドワードは、自己嫌悪に胸がむかつくのを感じた。
これ以上、アルフォンスを怒らせたくない…。
思って、唇を噛みしめた。
エドワードの希望は、絶望的な形で実現していた。
「兄さん、もうそろそろ、閉館時間だよ」
図書館で本を読み耽るエドワードに、アルフォンスが声を掛けた。
「ああ、そうか」
エドワードは短く答えて、自分が借りる本を整える。
そうしてふたりは、無言のまま、宿への道を帰り始める。
アルフォンスは、必要最低限のことしか、エドワードに話し掛けなくなっていた。
それから、文献、情報を探す時以外の、エドワードのプライベートな時間には、エドワードの側から離れるようになった。
だから、以前のように食事の時に側にいて、エドワードの好き嫌いに口を出すこともなければ、喧嘩早いエドワードを止めることもない。
いくら夜更かしをしても…アルフォンスは部屋にいないのだ。
自分が悪いのだ、と、エドワードにはわかっていた。けれど、辛くて仕方なかった。
そんな日々の中で。
エドワードは、気になる文献を見つけた。
「これは…」
頭のどこかが、フル回転しているのがわかった。理論と構築式を即座に組み立てる。
「…使えるかもしれない」
手ごたえに、エドワードの胸がざわめいた。
夜、一定の時間になると、アルフォンスは本を読むのをやめて、どこかへと出掛けていく。多分、どこかで息抜きをしているのだろう、とエドワードは察していた。
アルフォンスは眠ることが出来ない身体だから、それに代わる何か…精神を休ませる時間が必要なのだろうとエドワードは理解している。
けれど、以前は「兄さんの寝顔を見ているのが楽しい」と嬉しそうに笑っていた。そのことを思い出すと、エドワードは寂しさに胸を押さえる。
嘗ては兄を愛してくれていた弟。
今でも、自分にとっては愛しい弟。
けれど、今はその方が好都合だった。ここのところ、エドワードはろくに眠っていない。しかし、不眠不休で…食事も殆ど取っていないエドワードを咎める人物はもう、いないのだ。
エドワードは、この間見つけた文献を、幾度も幾度も読み返しては、自分の錬金手帳を細かな文字で埋め尽くした。それは、既にエドワードの中でほぼ、完成していた。
エドワードの心は高揚し、早くそれを実践したくてたまらなくなっている。アルフォンスの身体を。取り戻せる可能性が、手の中にあった。
その朝、エドワードは着替えを済ませ、アルフォンスが帰って来るのを待っていた。
早朝、帰って来たアルフォンスは、常なら眠っているか、本を読んでいるかのエドワードが、身支度を整えて静かに座っている姿に、少なからず驚いた。
「アル」
「…何?」
エドワードの改まった声に。アルフォンスは戸惑いを隠して答えた。
「おまえは、オレのことが嫌いか?」
唐突な問いだった。それだけに、アルフォンスは動揺する。今の状態で、エドワードのことを好きか嫌いかと問われれば…。
「………そんなことはないよ」
随分な間を置いて、アルフォンスは答えた。エドワードが苦笑する。その間は、アルフォンスの心を如実に彼に悟らせたからだ。
「でも、煩わしいとは思ってるよな。オレはおまえとは喧嘩ばっかりだし。おまえの言うことを全然聞かないし。バカなことばっかりやってるし」
エドワードらしくない台詞に、アルフォンスは訝しく思う。けれど、それも次の言葉で吹き飛んだ。
「けど、オレのことを信じてくれ。おまえの身体を元に戻せるかもしれない方法が見つかったんだ」
「………え?」
思っても見なかった言葉に。アルフォンスの思考は停止する。
「賢者の石を使わなくても可能な方法なんだ。ただし、成功するとは限らない。失敗するかもしれない。それでも、オレはこの方法に賭けたいと思う。おまえはどうだ?」
「ちょ、ちょっと待ってよ、兄さん」
混乱した頭で、アルフォンスは必死に考える。
「おまえはどうしたい?アルフォンス」
エドワードは、少しも待ってくれなかった。
結局、アルフォンスは、エドワードの熱意と、身体を取り戻せるかもしれない、という誘惑に勝てなかった。
エドワードは詳しいことは教えてくれなかったが、ふたりは町外れに見つけた廃屋を使わせて貰うことにした。
あらかじめ、エドワードが忍び込んで練成陣を書いている間に、アルフォンスは人体構成物質を入手してくる。
そして、夜になって、ふたりはそこで落ち合った。
「凄く複雑な練成陣だね…」
床一面に描かれた巨大な練成陣を見て、アルフォンスは言った。
「入れ子型になってるんだよ。一番外側の練成陣が、一番大きな練成陣。その内側に、重ねて一回り小さな練成陣が描かれている。そして、その内側には更に小さな練成陣が重なっている。そうして、中央までいくつもの練成陣が重なっているのさ」
エドワードが説明する。
「まず、この一番外側の練成陣を発動させる。そして、内側に向けて、順番に発動させて行くんだ。重なった練成陣の上で起こった力は、術の発動に合わせて内側へと移動する。内側に行くにつれて練成陣は小さくなっていくから、術の相乗効果に加えて、密度が凝縮される。その全ての力が中央に集結した時、それは膨大な力に増幅され、圧縮されている」
「賢者の石を使わずに、術を増幅する錬成方法なんだね…!」
興奮を露にして、アルフォンスが言う。
「そういうことだ」
対して、エドワードは落ち着いた声で短く答えた。
「兄さん、一番外側の練成陣の円周を中心として描かれている、小さな練成陣が4つあるね。あれは何?」
アルフォンスの問いに。エドワードはひとつ頷いた。アルフォンスの指差した4つの円は、四方に配置されている。ちょうど中央の練成陣を4分割する位置だ。
「あれは、力の逃げ場だよ。あまりに力が内側で増幅されたら、暴走する恐れがある。それを防止する為に、抑え込めない力をあの4つの練成陣へ逃がすんだ。それと同時に、そこに流れ込んだ力が逆に結界となって、内側の力を閉じ込める役目をする」
その説明に、アルフォンスは感心した。
「凄いね。兄さん」
期待に、アルフォンスの声が上擦る。
「アル。円の中央に人体構成物質を置いて、おまえもそこに立て」
エドワードは、簡潔にそう指示した。
アルフォンスは、慌ててその指示に従い、円の中央へと仁王立ちになる。
エドワードが、四方の円の中で、アルフォンスと向かい合う位置にある円の中へと立つ。
張り詰めた空気がエドワードを包んでいた。アルフォンスも緊張していたが、エドワードの気がどんどんと集中していくのを感じて、思わず声を掛けた。
「兄さん、気をつけてね」
失敗するかもしれない、とエドワードは言った。それはそうだ。こんな錬成、成功する確信など持てる筈がない。ましてや、自分達は一度失敗しているのだ。
アルフォンスの心を不安が走る。それは、自分のことではなく。術の失敗によって、エドワードが怪我を負うこと。または、無茶をすること。そして、失敗した時に、自分自身を責めること。それらの危険があるからだ。
けれど、エドワードは何も答えなかった。アルフォンスを見ることもなかった。そのことが、更にアルフォンスの心をざわつかせる。
エドワードが、練成陣に触れる。眩い光が巨大な練成陣を浮かび上がらせる。
そして、錬成は始まった。
外側の円が錬成反応を始めると、間を置かずに2つ目の円が。そうして、次々と練成陣が反応を始める。
円が中央に近付くに連れ、アルフォンスの魂がざわつき始めた。内側が波打つような、その感じに。アルフォンスは自分を落ち着かせようと試みる。
しかし、その間にも練成陣は中央へと向かって反応していき、その高密度な凄まじい力が自分に迫ってくるのをアルフォンスは感じた。激しく魂が揺さぶられる感じがした。
そうして、とうとう中央の練成陣が発動した時。アルフォンスは凄まじい力の中にいた。魂が引っ張られる。鎧の身体から引き剥がされようとしている。アルフォンスはそれを感じる。しかしそれは、期待というよりも恐れをアルフォンスにもたらした。
このまま、この力に自分が押し潰されてしまうかのような不安。
アルフォンスは縋る思いでエドワードを見遣った。練成陣に両手をついたエドワードは俯いていて、その表情が見えない。けれど。
恐ろしい光景がアルフォンスの視界に入ってきた。
エドワードの、右足が。
消えていこうとしている。
分解されようとしている。
アルフォンスは混乱した。
どうして?何故?この方法は失敗だったのか?
けれど、アルフォンスは自分の間違いに気付いた。エドワードの蹲っている小さな練成陣が、錬成反応を起こしている。つまり。
初めから、エドワード自身が代価だったのだ。
アルフォンスはゾッとした。このままでは、自分はエドワードを失ってしまう。
「兄さん!止めろ!錬成を中止するんだ!!!」
アルフォンスは力の限り叫んだ。まだ、声は出る。まだ、何も錬成されていない。まだ、間に合う。今なら、エドワードから何も奪われずに済む。
そう思うのに。エドワードは、錬成を中止しようとはしなかった。アルフォンスの声が聞こえないかのように、ぴくりとも動かない。
アルフォンスは恐怖する。
足を分解されながら、錬成を続けるエドワードに。
その、彼の恐ろしい覚悟に。
「駄目だ!嫌だ!兄さん、止めろ!錬成を止めろ!!!」
アルフォンスは必死になって身体を捩った。この練成陣の中から抜け出せば。練成陣を破壊すれば。錬成は中断する。
アルフォンスの身体は、凄まじい力の圧力に動きを拘束される。いくら力を入れても、身体を包む力の圧力に押し戻される。
エドワードの身体が消える。消えていく。それを思ってアルフォンスは気も狂わんばかりに暴れた。
「嫌だぁあああああ―――!!!」
アルフォンスの渾身の力に。身体が動いた気配がした。けれど、練成陣を壊せるほどの動きは出来ない。ならば。
エドワードに錬成を止めさせればいい。
アルフォンスは、エドワードを目掛けて身体を振り回した。
冷たく硬い感触が、エドワードの身体の下にあった。酷く身体が痛む。
目を開けると、薄汚い平面が視界にある。
「…っ!」
身体を動かそうとした途端、全身に痛みが走って。思わずエドワードは呻いた。
「兄さん、気が付いたの?」
柔らかなアルフォンスの声がした。その声に。
「っアルッ!?」
エドワードは身体の痛みにも構わず、がばっ、と身体を起こす。
「兄さん、一昼夜眠ってたんだよ?また何日も眠らずに無理してたんでしょう。そんな身体でこんな大掛かりな錬成を行なうなんて、無茶だよ。ボクが側に付いていないと、本当に駄目なんだから…」
聞き慣れた、優しい口調。エドワードを心配する叱責。
その声を発する相手を見ようと、エドワードは辺りを見回した。
「!!!」
そこには。バラバラに散らばった、鎧のパーツが転がっていた。
「ア…アル!アル!!!」
エドワードは必死になって、その鎧へと駆け寄る。しかし、鎧は四方に散らばっていて。
エドワードは、血印のある胴体を抱き起こし。その無事を確かめた。
「血印は無事だよ」
そこから、アルフォンスの声がする。露出した胴体から響いてくるそれに。エドワードは泣きそうに顔を歪めた。
「どうして…こんなことに…」
エドワードは、ぎゅっ、と鎧の胴体を抱きしめる。
「待ってろ、アル。今すぐ、直してやるからな」
エドワードが鎧を床に置いて、両手を合わせる。
「待って、兄さん」
そこに、アルフォンスの静止の声が掛かる。
「なんだよ、アル?」
エドワードが動きを止めて聞き返すと。
「別の部屋でやらないと。この練成陣の上では危ないよ」
と、言われた。鎧が散らばっているのは、先ほどの練成陣の上。確かに、ここで錬成をすれば、再び練成陣は反応を開始するだろう。
「わかった」
言って、エドワードは鎧のパーツひとつひとつを隣室へと運び始めた。
細かい欠片まで全てを拾って、改めてエドワードが両手を合わせる。眩しい錬成光が射し、アルフォンスの巨体がそこに立ち上がった。
アルフォンスは何かを確かめるように、自分の身体を見下ろして、身体の動きを確かめている。
「大丈夫か?アル」
心配そうにエドワードが下からアルフォンスを見上げる。
「うん。大丈夫みたい。兄さんこそ、大丈夫?」
逆に問い返されて。エドワードは肩を竦める。
「オレは平気だ。それよりも、何があったんだ?オレは錬成に失敗したのか?」
エドワードの問いに。アルフォンスは、エドワードを見据えた。
「ボクが中断させた。兄さんに体当たりして、無理やりね。兄さん、それで意識を失ったんだよ。全力で錬成に臨んでいたから仕方ないのかも知れないけれど、あんな衝撃で意識を失うなんて、兄さんの体力はもうぎりぎりだったんだ」
アルフォンスの声が怒っていた。エドワードはそのことに不安を感じる。
「それに、ボクの方も、あの高密度の練成陣の中から無理に抜け出したから、その衝撃で鎧がばらばらになった」
それを聞いてエドワードの顔色が変わる。
「なんて無茶を!!!血印が壊れたら取り返しがつかないんだぞ!」
エドワードの怒声に、アルフォンスは冷たく視線を返した。
「それはボクの台詞だよ。ボクは断じて、あんな錬成を認めるわけにはいかない」
その視線に、エドワードが怯む。
「え…?」
戸惑って、アルフォンスに問い掛けた。すると、アルフォンスは鋭い視線のままエドワードに答えた。
「ボク、前に言ったよね。誰かを犠牲にするくらいなら、元の身体に戻りたくないって」
「…ああ」
「ボクが、兄さんを代償にして取り戻した身体を欲しがるなんて、本気で思ったの?」
アルフォンスの責めるような口調に。
「それは…」
エドワードの視線がさまよう。
「だって、取り戻せるかも知れなかったんだぞ?おまえは元に戻りたがっているんだし、オレを代価にするぐらい、大したことじゃないだろう?」
どうしてアルフォンスが怒っているのかわからないように。エドワードは困った表情でアルフォンスを見上げた。激しい怒りがアルフォンスを襲った。
「なんだよ、それ!兄さん、本気で言ってるの!?兄さん、死んだかも知れないんだよ!?それで、ボクが元の身体を取り戻して、平気でいられるなんて、本当にそう思ったの!?」
アルフォンスの剣幕に、エドワードが驚く。
「オレは別に、おまえの身体を取り戻せれば構わない。おまえだって、オレなんかいなくなった方が、煩わされなくていいだろう?」
本気で。そんなことを言っている様子のエドワードに。アルフォンスは心底、激怒した。
「…兄さんはそれでいいのかも知れないけど、ボクの気持ちはどうなるのさ。少しは周りのことも考えてよ、いい加減!兄さんを犠牲にして生き延びるなんて、ボクにこれ以上の重荷を背負わせたいの!?」
「あ……」
エドワードが言葉を失う。
「どうなのさ、兄さん!」
責め立てるアルフォンスに。
「それ…は……」
エドワードの身体が、細かく震え始める。
「ごめ…オレはそんなつもりじゃ…。忘れてくれればいいんだ。オレみたいなどうしようもない兄貴がいたことは。おまえが身体を失った悪夢も、母さんを…作ろうとした…罪も。みんな、みんなオレのものだ。だから、オレの存在と共に、そんな忌まわしい記憶は捨ててしまえばいいんだ」
「できないよ、そんなこと!!!」
アルフォンスは堪らず叫んだ。
「ボクの記憶はボクのものだ!その記憶がボクを作っているものだ!ボクの血肉だ!なにひとつ、忘れることなんか、出来ない!!!」
血を吐くようなアルフォンスの叫びに。エドワードは、薄らと微笑んだ。それはどこか、アルフォンスをゾッとさせる笑みだった。
「大丈夫だ。アルフォンス。おまえの記憶は、オレが持っていく」
「そ…んな…こと……?」
アルフォンスが動揺する。
「そんなこと…出来るわけがない…よ…」
出来るわけがない。そう思いつつも。アルフォンスは。この兄なら。アルフォンスの魂を錬成し、そして今また、その身体を錬成しようとした兄なら。錬成の際に、記憶を再錬成することも可能なのだろうか、と思わずにはいられなかった。けれど。
「……ボクは、そんなことは望まない」
アルフォンスは、力なく呟いた。
「アル」
咎めるようにエドワードが呼ぶ。そう、承諾しないアルフォンスを責めるように。
「兄さんは間違っているよ。…こんなこと、今更って思うかも知れないけれど。でも、ボク達は既に過ちを犯してしまったけれど。これからも間違ったことをしようとしているけれど。でも、兄さんのしようとしたことは、やっぱり、してはいけないことだと思う」
アルフォンスは、冷静に言った。エドワードに伝えておかなければならないと思った。彼は、目的の為に大切な何かを忘れている。
「兄さんは、ボクの身体を取り戻す為でも、ひとの命を犠牲にすることを躊躇ったよね?兄さんはそのことをボクに謝ったけど、もちろん、ボクは兄さんに誰かを殺して欲しくなんかない。それと同じことなんだ。
兄さん、自分の命を、他人のものより軽いものなのだとは思わないで。兄さんの命だって、等しく尊いものだ。兄さんは、自分の命をどうしようが、自分の勝手だと思っているのかも知れないけれど…それは傲慢だよ。ボクらは等しく、世界の一部だ。生まれたからには、生きていくのが理なんだよ」
エドワードは言葉を失った。以前にも、アルフォンスの為に命を投げ出したことがある。その時は、バカのすることだと詰られたけれど。今回は。アルフォンスを怒らせたのではなく、悲しませたのだとエドワードは知る。
「アル…アル。ごめん。オレはただ…おまえの身体を取り戻したかっただけなんだ。おまえを怒らせたり、悲しませたかったわけじゃない」
エドワードは必死に言葉を紡いだ。
「おまえは、あんなに優しいのに…オレの側にいたら、おまえが損なわれてしまう。このまま、その身体でいたら、おまえの心が磨り減ってしまう。だったら、オレがいなくなって、おまえの身体が元に戻るのが一番いいと思ったんだ」
エドワードの言葉に。アルフォンスは、そっと膝を折った。エドワードと視線を合わせる。
「うん。わかってる。ボクが、兄さんを追い詰めたんだよね…。本当に謝らなければならないのは、ボクなんだ。でも、これから先、同じようなことがあっても、どんなに絶望することがあっても。二度と、こんなことはしないで欲しい。自分の命を大切にして欲しい」
アルフォンスの真摯な言葉に。エドワードはアルフォンスの顔を見つめる。
「何言ってるんだよ…!アルは悪くないだろ!オレが、いつまで経っても何の手掛かりも掴めずにいるのが悪いんだ。アルが怒るのも当たり前だ」
「兄さん…そうじゃないんだよ」
アルフォンスはエドワードの両肩を抱いた。
「ボクは忘れていたんだ。兄さんがどんなに優しいひとなのかということを。こんなに大切なことを忘れるボクがバカなんだ。表面ではどんなに勝手に振舞っているように見えても。兄さんは、いつだって優しかった。それを忘れてしまったボクは、きっと、心まで空っぽに成りかかっていたんだ」
アルフォンスの告白に。エドワードは恐れに顔を青くして、肩に置かれたアルフォンスの両手を掴んだ。
「アル」
呼び掛ける声が震えている。
「大丈夫だよ、兄さん。兄さんが思い出させてくれたから。兄さんが、とても優しいこと。ボクは、そんな兄さんが大好きだってこと」
アルフォンスが微笑む気配がした。
「ありがとう、兄さん。ボクの心を救ってくれて」
「アル…」
エドワードは、握る手に力を込める。そんなことをしても、アルフォンスにわかるわけはないのに。それでも、震える手で、アルフォンスの手を握り締めた。
「いい兄貴になれなくて、ごめん。でもオレ、頑張るから…。絶対におまえを元に戻してやるから…」
決意を新たにするエドワードの声は。まっすぐに前を向いているひとの声だった。
アルフォンスも、エドワードの肩に置いた手に力を込める。
「うん。兄さん。絶対にふたりで元の身体に戻ろう」
アルフォンスは、そのままエドワードを抱き寄せた。
「だってボクは…もう一度、兄さんの全てを感じたいから…」
エドワードはアルフォンスの鎧の胸に顔を擦り付ける。
「オレも…オレも、アルを感じたい…」
願いはいつでも、ただひとつだったのに。
方法を間違えたら、その願いは永遠に叶わない。
取り返しのつかない過ちを繰り返そうとしていたことに、やっとふたりは気付いた。
望んだのは、ただひとりで生きる人生じゃない。
あなたとふたりで、生きる人生。
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