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1. ミュンヘン
真理の扉が現れた。少年のアルフォンスと共に。
エドワードは、待ち焦がれたこの瞬間に狂喜する。
「時間が無いのかも知れないぞ」
扉が閉じるかもしれない、というホーエンハイムの言葉に。エドワードは気を引き締める。これから、この扉を抜ける。3人で。あちらの世界へ帰る。
ちり、と、エドワードの胸のどこかがざわめいた。何かを忘れている気がした。
扉が現れる直前まで、自分は何を話していただろうか?
エドワードが、一瞬その考えに捉われた時。
声が、聞こえた気がした。聞き慣れた声。
ああ、そうだ。自分は、こう話そうとしていたのだ。
『親父。今日は出掛けないのか?』
『でも今日は…』
そう、今日はホーエンハイムが、注文していた本が届くと言っていた日なのだ。なのに、彼は「出掛けない」と言った。と、いうことは…。
「ホーエンハイムさん」
その柔らかな声と共に、扉がノックされる音がする。
「彼」だ。彼が来た。
「頼まれていた本を、持って来ました」
その声を聞いて、エドワードは涙ぐんだ。もう会えない。彼とは、もう会えなくなるのだ。
「入って来い!早く!!」
エドワードは、アルフォンス、ホーエンハイムと手を繋ぎ、今にも真理の扉に踏み出そうとしている状態で、夢中でそう叫んだ。
エドワードの尋常でない声に、彼が慌てる気配がする。
扉が、乱暴に打ち付けられる音。
ああ、鍵が掛かっているのだ、と、エドワードは思う。早く、早く。扉を打ち破って、入って来い。
「エド!エド、どうしたんだ!?」
彼の必死な声が聞こえる。扉を叩く音が、一層激しくなった。
破壊音が、扉が破られたことを告げる。
早く、早く…!
エドワードは、焦る心地で彼のことを待った。
「エド!!」
彼が、部屋の中に飛び込んできた。
「!」
息を呑む気配。部屋の中に突如として出現している、巨大な扉。その向こうの、渦巻く闇。
彼が、立ち竦む。が、彼は叫びながら、エドワードに近づこうと、一歩を踏み出した。
「エド!危ない!!早く、こっちへ!!」
彼は、この扉を危険なものだと解釈したようだ。エドワードは苦笑する。
「それ以上、近づくな。オレは大丈夫だから。これで、お別れなんだ。今まで、側に居てくれて、ありがとな」
優しい声で、エドワードが言った。
「!?何を言ってるんだ、エド!?」
彼が悲鳴をあげる。
「駄目だ!早くこっちへ…こっちへ帰ってくるんだ!!」
彼の必死な声に。エドワードは、微笑むしかない。感謝の気持ちを込めて。
「ありがとう。本当に、ありがとう。オレのことを好きになってくれて。嬉しかったよ。本当に。…オレも、おまえのこと、好きだよ。今まで、言えなくてごめん」
その言葉に、彼が絶句して、立ち尽くす。
エドワードは、本当に綺麗に笑っていた。
「兄さん、もう行かなくちゃ…」
隣のアルフォンスが、エドワードを急かす。
「!」
アルフォンスを見て。
「…そいつが、アル…なのか?」
絶望的な声で、彼は呟いた。
「…ああ、そうだ。これが、オレの弟の、アルだ」
「…帰るんだね」
「…ああ」
彼の顔が、悲しみを堪えるように歪んだ。
「そうか…」
呟きは地に落ち。
「早く、兄さん!」
アルフォンスに引っ張られ、エドワードは扉へと一歩を踏み出す。しかし、その視線はまだ、彼を捉えたまま。
「ありがとう。おまえに会えてよかった。忘れないから。おまえと過ごした時間は、絶対に忘れないから!」
いつの間にか、エドワードの頬は涙に濡れていた。
ありがとう、ありがとう、と心の中で繰り返した。こちらの世界のアルフォンス。ずっと支えてくれた、大切なひと。
彼もまた、涙に濡れた顔でエドワードを見ていた。ゆっくりと笑い。手を上げて。ゆるゆると振った。その口は。「さようなら」ではなく。「愛しているよ」と動いた。
2. リゼンブール
リゼンブールに帰ってきて。アルフォンスが、エドワードがいなかった3年間の話をエドワードに語った後。アルフォンスにねだられて、今度はエドワードが、あちらの世界での話をしていた。アルフォンスは、やはり科学者らしく、あちらの世界での科学技術に興味を持ったようだった。
「ところで」
話が一段落ついたところで、アルフォンスが口調を改めた。
「あの時、兄さんを引き止めた彼は、誰?」
一瞬、エドワードは言葉に詰まる。彼については、一切触れずに話をしていた。
「好きだって言ってたよね。ボクが兄さんに会いたくて、寂しくて、辛くて、気が狂いそうになっていた時、兄さんは、あのひとと、よろしくやってたんだ?」
あまりなアルフォンスの物言いに。
「な!なんだよ、よろしくやってたって…!」
エドワードは、顔を赤くして反論する。
「あ、あいつはなぁ…」
彼のことを思い出したのか、赤かったエドワードの顔が、途端に切なげに歪んだ。
「あいつは、いいやつなんだ。オレの側に居てくれて、支えてくれたんだ」
「ふうん」
エドワードの、心の底からの言葉にも。アルフォンスは、面白くなさそうに相槌を打った。
「やっぱり、好きだったんだ」
憮然として言われて。
「おまえなぁ…!」
憤慨して、エドワードはアルフォンスを睨む。けれど、アルフォンスの拗ねた表情を見て。
ふ、とそのエドワードの視線が泳いだ。
こんなやり取りを、過去に何度かしたことがある、とエドワードは思った。
アルフォンスは、エドワードが誰かと親しくしていると、途端に不機嫌になることがあった。その時、いつもこんな風に理不尽に責められた。その時は仕方ないことだと思っていたけれど…。
そう、仕方ないと思っていた。なぜなら、アルフォンスは空っぽの鎧姿で。エドワードが唯一のよすがだった。
「兄さん!?どうしたの!?」
アルフォンスの慌てた声がする。アルフォンスが、エドワードの頬を両手で包み込んだ。
「ごめんね、兄さん。もう言わないから…泣かないで?」
エドワードの両目からは、静かな涙が止まることなく溢れていた。
ここにいるのは、だれ?
あんな風に拗ねて、エドワードを責めるのは、鎧姿のアルフォンス。
一緒に旅をするうちに、弟は、頼りがいのある男に成長し。エドワードを支え。そのくせ、変なところで子どもで。優しくて。いくら叱っても、猫を拾ってくることをやめなかった。エドワードを独占したがって、いつでも「好きだよ」と囁いてくれた。
10歳までのアルフォンスは、そうではなかった、とエドワードは記憶している。
まだ、本当に幼くて。いつもエドワードの後を付いてきて。エドワードの真似ばかりして。そのくせ、エドワードのすることに、よく腹を立てて、ケンカもたくさんした。そんな時はお互いに別行動で。
あの頃、アルフォンスにとってエドワードは、単なる兄でしかなかった。近くには居たけれど、密着しているわけではなかった。
エドワードとアルフォンスが密着したのは、母親の人体練成を行なった後。
いるのか?そこに。
エドワードは、アルフォンスに緩く抱きしめられながら。縛れたような頭で、そう思う。
真理の門を潜ったせいで、あの4年間の記憶が甦ったのか。それとも、もともと、10歳のアルフォンスの中に、その記憶は眠っていたのか。
どちらにしろ、ここに居るのは、あの時の。エドワードが知る、10歳のアルフォンスではない。
そしてもちろん、あの鎧姿のアルフォンスでもないのだ。
エドワードは、ぎゅうっと、自分を抱き締めるアルフォンスを抱き返す。
「愛している…。アルフォンス」
涙に濡れた声で、エドワードは告げた。
「ボクもだよ、兄さん」
即座に、アルフォンスの言葉が返る。
ああ、やはり、とエドワードは目を閉じる。
10歳のアルフォンスなら。ただの兄弟として。もっと、屈託の無い感情を表しただろう。けれど、今、ここにいるアルフォンスの表わす感情は。
その、深い愛情は。
どうしようもなく、鎧の頃のアルフォンスと重なる。
13歳という年齢に見合わない魂が、ここに入っているのだと、感じる。
そして、鎧の頃、いつでもエドワードに遠慮がちに触れていた、その両手は。今、しっかりとエドワードを抱き締めている。
あいつには、ちゃんと言ってやっただろうか。
エドワードはぼんやりと思う。
あの、鎧姿の弟に。自分は、ちゃんと「愛している」と伝えたことがあっただろうか?
切なくて。辛くて。不甲斐なくて。エドワードは、再び、熱い涙を流し始めた。
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