|
兄さんの唇が柔らかい、なんて。
他人の口から聞きたくはなかった。
東方司令部からの帰り道。
アルフォンスは、もくもくと歩いていた。
隣ではエドワードが、コートの袖で、自分の唇を幾度も擦っている。それを見るだに、アルフォンスは、腹立たしい気持ちを抑えきれない。
ロイ・マスタングが、エドワードの唇に触れた。
たかが、指先でわずかに触れたぐらい、と他人は笑うかもしれない。けれど、アルフォンスにとっては、とてつもない衝撃だった。
どうしてボクが出来ないことを、他人が兄さんにするんだ…!
理不尽な怒りなのかもしれない。けれど、アルフォンスは怒りで、全身の血が沸騰するかのような錯覚を起こしたほど、激しい怒りに駆られていた。
悔しい。
一言で言えば、そういうことだった。
隣では、まだ、エドワードが顔をしかめて、唇を拭っている。それを見て、アルフォンスは心配げな声音を作って、エドワードに話しかけた。
「大丈夫?兄さん」
アルフォンスの問い掛けに。
「感触が残ってて、気持ちわりぃー」
エドワードは心底嫌そうな口調で答えた。
そんなエドワードを見ながら。
アルフォンスは、不意に思いついて、言った。
「兄さん、ボクにも触らせて?」
「は?」
突然のアルフォンスの言葉に、エドワードはポカン、と口を開けた。
「な、なんだよ、突然」
焦ってエドワードが言うと。
「だって、大佐が言ったことが気になって。兄さんの唇ってどんな感触なのか、ボクも触ってみたいんだ」
言葉もないエドワードに。アルフォンスは、駄目?と首を傾げて見せた。エドワードが、自分の頼みを断れないことを知っていて、こういう言い方をする自分はズルイ、と、アルフォンスは思う。はたして。
「…別にいいけど」
エドワードはそう言って、アルフォンスの方へと顔を上向けたのだった。
アルフォンスは、そっと、エドワードの唇に触れる。ぷくぷくと、その弾力を確かめるように押してみる。
感触はわからなくても。
自分が今、エドワードに触れているのだということが。
アルフォンスには重要なことだった。そして、思う。
(ボクが生身の身体だった時、こんな風に兄さんの唇に触ったことがあったかな…)
その感触を思い出そうとするのだけれど。多分、こんな風に触れたことなどなかったのだろう。アルフォンスの記憶は、兄の唇の感触を思い起こさせてはくれなかった。
ひとしきり、エドワードの唇に触れて。それから、アルフォンスは、エドワードの唇の輪郭をなぞった。その途端。
エドワードの身体が強張るのがわかった。
それに気付かないふりをして、なおもなぞっていると。
触れている指を掴まれた。
アルフォンスは、エドワードに拒絶されたようで、悲しくなる。
だから、アルフォンスは、自分の指を掴むエドワードの手を無視して、唇をなぞり続けた。すると、エドワードが抗議する為に口を開ける。
その、赤く濡れた口内に。
考える間もなく、アルフォンスは自分の指を滑り込ませた。
「も…いいだろ!」
エドワードが、幾分怒ったような口調で言う。自分の指が、エドワードの舌に触れて濡れるのを見ながら。アルフォンスが、なおも無視して触り続けていると。
「はなせ…って。アル」
今度は、やや苦しげな声で促される。
「………うん」
それ以上、続けることは出来なくて。アルフォンスは、その指を離した。
その瞬間、エドワードは深く息を吐き出し、機械鎧の右手の甲で、すぐさま唇を拭った。
その行動に、アルフォンスは、少なからず傷ついた。
なのに、エドワードはアルフォンスの気持ちも知らぬげに、何度も乱暴に口を拭い続けている。
「……兄さん。気持ち悪かったの?」
たまらずに、アルフォンスは訊いた。すると、はっ、とエドワードがアルフォンスを見上げた。
アルフォンスの傷ついたような声音に、慌てたのだろう。
アルフォンスは無言で、エドワードの右手を掴んだ。エドワードの唇は、固い機械鎧に擦られて赤くなっており、痛々しい。
「そんなに擦ったら駄目だよ。こんなに真っ赤になっちゃって…」
そのまま、そっと、その右手をエドワードの唇から引き離す。
「あ…、ちが、違う。アル」
エドワードが、慌てて言う。
「気持ち悪くなんかない。そんな筈ないだろ?」
その言い訳の言葉は、アルフォンスの心には響かなかった。
「じゃあ、なんで、こんなになるまで唇を拭うの」
悲しみと、痛々しさと、愛しさとで。アルフォンスは、エドワードの右手を掴んでいるのとは反対の手で、労わるような優しさを込めて、エドワードの赤く擦れた唇に、そっと触れた。
その瞬間。
「アル…!」
悲鳴のような声を上げて、エドワードが、唇に触れるアルフォンスの指を振り払った。
「兄さん…」
アルフォンスは、絶望に泣きたくなった。
同じだというのだろうか?兄にとって、自分の存在は。
無断でその唇に触れ、振り払われたロイと。
同じだというのだろうか?
アルフォンスは、自分はエドワードにとって、特別な存在なのだと思っていた。
だって、生まれてからずっと、あのひとの側にいる。
そして、それからずっと、ほとんどの時間を、あのひとと過ごしている。
誰よりも、あのひとの側にいて、近くにいて。
心も、その魂すらも。交わりあっているのではないかと思うほどなのに。
それは、単なる自分の勘違いだというのか?
アルフォンスは、のろのろと口を開いた。
「ごめん…。もう、触らないから…」
絶望的な言葉だった。エドワードに疎んじられた自分に、存在意義を感じられない自分がいる。
アルフォンスは、そのことにも絶望した。
自分の存在とは、一体、何なのか。エドワードなくしては、立ち行かないものなのか。そんなに脆い存在なのか。それは、本当に、ひとりの人間だと言えるのか。
自分ひとりが、エドワードに依存していたのか。
そんなことを考えながら、エドワードに背を向け、歩き出していたアルフォンスに。焦りを含んだエドワードの声が届く。
「だから、違うんだって…!待てよ、アル!!」
エドワードが走ってくる足音が聞こえたかと思うと、彼はアルフォンスを追い越し、正面からアルフォンスの両腕を掴んで、立ち止まらせる。
そして、必死な面持ちで、アルフォンスに訴える。
「嫌なんじゃなくて…、その…嬉しいから!アルに触れられるの、嬉しいから!だから困るんだろ…!」
その言葉を、アルフォンスは信じることは出来なかった。そんな理由で、エドワードが、アルフォンスの手を振り払うとは、考えられないことだった。普段、アルフォンスに、あんなに優しいひとが。そんな理由で弟を傷つける筈がない、と、アルフォンスは思う。
「…嬉しいと、なんで困るの?」
ひとまず、理解できない、と、声に滲ませて。首を傾げてエドワードを見る。
それに対してエドワードは。
「恥ずかしいからに決まってんだろ!!」
と、顔を真っ赤にして、力いっぱい叫んだ。
アルフォンスは納得したわけではなかった。そんなことで、エドワードが自分に、あんな態度を取るわけがないと思っている。けれど。
「兄さんは、照れ屋だもんね」
そう言って、アルフォンスは笑った。
エドワードが、自分にそう、言うのなら。そんなに必死に、言い張るのなら。
自分は、騙されていなければならないのだろう、と、アルフォンスは思う。問い詰めても、きっと、自分が傷つくだけ。エドワードの本心なんて。今は聞かなくてもいい。アルフォンスが大切だと、エドワードが言うのなら。アルフォンスは、それを否定したくはなかった。
エドワードの言葉が、たとえ偽りでも。
自分は、真実、エドワードを愛しているから。
エドワードが、アルフォンスの言葉に本気で照れて。いつものように、蹴ってくるのを。アルフォンスは、「もー、蹴らないでよ、兄さん」などと、嘆息してみせながら。
自然に見えるように。いつもの日常に、戻っていった。
|