唇・2

 兄さんの唇が柔らかい、なんて。
 他人の口から聞きたくはなかった。

 東方司令部からの帰り道。
 アルフォンスは、もくもくと歩いていた。
 隣ではエドワードが、コートの袖で、自分の唇を幾度も擦っている。それを見るだに、アルフォンスは、腹立たしい気持ちを抑えきれない。

 ロイ・マスタングが、エドワードの唇に触れた。

 たかが、指先でわずかに触れたぐらい、と他人は笑うかもしれない。けれど、アルフォンスにとっては、とてつもない衝撃だった。

 どうしてボクが出来ないことを、他人が兄さんにするんだ…!

 理不尽な怒りなのかもしれない。けれど、アルフォンスは怒りで、全身の血が沸騰するかのような錯覚を起こしたほど、激しい怒りに駆られていた。

 悔しい。

 一言で言えば、そういうことだった。
 隣では、まだ、エドワードが顔をしかめて、唇を拭っている。それを見て、アルフォンスは心配げな声音を作って、エドワードに話しかけた。
「大丈夫?兄さん」
 アルフォンスの問い掛けに。
「感触が残ってて、気持ちわりぃー」
 エドワードは心底嫌そうな口調で答えた。
 そんなエドワードを見ながら。
 アルフォンスは、不意に思いついて、言った。
「兄さん、ボクにも触らせて?」
「は?」
 突然のアルフォンスの言葉に、エドワードはポカン、と口を開けた。
「な、なんだよ、突然」
 焦ってエドワードが言うと。
「だって、大佐が言ったことが気になって。兄さんの唇ってどんな感触なのか、ボクも触ってみたいんだ」
 言葉もないエドワードに。アルフォンスは、駄目?と首を傾げて見せた。エドワードが、自分の頼みを断れないことを知っていて、こういう言い方をする自分はズルイ、と、アルフォンスは思う。はたして。
「…別にいいけど」
 エドワードはそう言って、アルフォンスの方へと顔を上向けたのだった。

 アルフォンスは、そっと、エドワードの唇に触れる。ぷくぷくと、その弾力を確かめるように押してみる。
 感触はわからなくても。
 自分が今、エドワードに触れているのだということが。
 アルフォンスには重要なことだった。そして、思う。
(ボクが生身の身体だった時、こんな風に兄さんの唇に触ったことがあったかな…)
 その感触を思い出そうとするのだけれど。多分、こんな風に触れたことなどなかったのだろう。アルフォンスの記憶は、兄の唇の感触を思い起こさせてはくれなかった。

 ひとしきり、エドワードの唇に触れて。それから、アルフォンスは、エドワードの唇の輪郭をなぞった。その途端。
 エドワードの身体が強張るのがわかった。
 それに気付かないふりをして、なおもなぞっていると。
 触れている指を掴まれた。
 アルフォンスは、エドワードに拒絶されたようで、悲しくなる。
 だから、アルフォンスは、自分の指を掴むエドワードの手を無視して、唇をなぞり続けた。すると、エドワードが抗議する為に口を開ける。
 その、赤く濡れた口内に。
 考える間もなく、アルフォンスは自分の指を滑り込ませた。
「も…いいだろ!」
 エドワードが、幾分怒ったような口調で言う。自分の指が、エドワードの舌に触れて濡れるのを見ながら。アルフォンスが、なおも無視して触り続けていると。
「はなせ…って。アル」
 今度は、やや苦しげな声で促される。
「………うん」
 それ以上、続けることは出来なくて。アルフォンスは、その指を離した。
 その瞬間、エドワードは深く息を吐き出し、機械鎧の右手の甲で、すぐさま唇を拭った。
 その行動に、アルフォンスは、少なからず傷ついた。
 なのに、エドワードはアルフォンスの気持ちも知らぬげに、何度も乱暴に口を拭い続けている。
「……兄さん。気持ち悪かったの?」
 たまらずに、アルフォンスは訊いた。すると、はっ、とエドワードがアルフォンスを見上げた。
 アルフォンスの傷ついたような声音に、慌てたのだろう。
 アルフォンスは無言で、エドワードの右手を掴んだ。エドワードの唇は、固い機械鎧に擦られて赤くなっており、痛々しい。
「そんなに擦ったら駄目だよ。こんなに真っ赤になっちゃって…」
 そのまま、そっと、その右手をエドワードの唇から引き離す。
「あ…、ちが、違う。アル」
 エドワードが、慌てて言う。
「気持ち悪くなんかない。そんな筈ないだろ?」
 その言い訳の言葉は、アルフォンスの心には響かなかった。
「じゃあ、なんで、こんなになるまで唇を拭うの」
 悲しみと、痛々しさと、愛しさとで。アルフォンスは、エドワードの右手を掴んでいるのとは反対の手で、労わるような優しさを込めて、エドワードの赤く擦れた唇に、そっと触れた。
 その瞬間。
「アル…!」
 悲鳴のような声を上げて、エドワードが、唇に触れるアルフォンスの指を振り払った。
「兄さん…」
 アルフォンスは、絶望に泣きたくなった。

 同じだというのだろうか?兄にとって、自分の存在は。
 無断でその唇に触れ、振り払われたロイと。
 同じだというのだろうか?

 アルフォンスは、自分はエドワードにとって、特別な存在なのだと思っていた。

 だって、生まれてからずっと、あのひとの側にいる。
 そして、それからずっと、ほとんどの時間を、あのひとと過ごしている。
 誰よりも、あのひとの側にいて、近くにいて。
 心も、その魂すらも。交わりあっているのではないかと思うほどなのに。
 それは、単なる自分の勘違いだというのか?

 アルフォンスは、のろのろと口を開いた。
「ごめん…。もう、触らないから…」
 絶望的な言葉だった。エドワードに疎んじられた自分に、存在意義を感じられない自分がいる。
 アルフォンスは、そのことにも絶望した。
 自分の存在とは、一体、何なのか。エドワードなくしては、立ち行かないものなのか。そんなに脆い存在なのか。それは、本当に、ひとりの人間だと言えるのか。
 自分ひとりが、エドワードに依存していたのか。

 そんなことを考えながら、エドワードに背を向け、歩き出していたアルフォンスに。焦りを含んだエドワードの声が届く。
「だから、違うんだって…!待てよ、アル!!」
 エドワードが走ってくる足音が聞こえたかと思うと、彼はアルフォンスを追い越し、正面からアルフォンスの両腕を掴んで、立ち止まらせる。
 そして、必死な面持ちで、アルフォンスに訴える。
「嫌なんじゃなくて…、その…嬉しいから!アルに触れられるの、嬉しいから!だから困るんだろ…!」
 その言葉を、アルフォンスは信じることは出来なかった。そんな理由で、エドワードが、アルフォンスの手を振り払うとは、考えられないことだった。普段、アルフォンスに、あんなに優しいひとが。そんな理由で弟を傷つける筈がない、と、アルフォンスは思う。
「…嬉しいと、なんで困るの?」
 ひとまず、理解できない、と、声に滲ませて。首を傾げてエドワードを見る。
 それに対してエドワードは。
「恥ずかしいからに決まってんだろ!!」
と、顔を真っ赤にして、力いっぱい叫んだ。
 アルフォンスは納得したわけではなかった。そんなことで、エドワードが自分に、あんな態度を取るわけがないと思っている。けれど。
「兄さんは、照れ屋だもんね」
 そう言って、アルフォンスは笑った。
 エドワードが、自分にそう、言うのなら。そんなに必死に、言い張るのなら。
 自分は、騙されていなければならないのだろう、と、アルフォンスは思う。問い詰めても、きっと、自分が傷つくだけ。エドワードの本心なんて。今は聞かなくてもいい。アルフォンスが大切だと、エドワードが言うのなら。アルフォンスは、それを否定したくはなかった。
 エドワードの言葉が、たとえ偽りでも。
 自分は、真実、エドワードを愛しているから。

 エドワードが、アルフォンスの言葉に本気で照れて。いつものように、蹴ってくるのを。アルフォンスは、「もー、蹴らないでよ、兄さん」などと、嘆息してみせながら。
 自然に見えるように。いつもの日常に、戻っていった。

 

<あとがき >
2004.9.22作。「唇」第2弾はアルヴァージョンでした。こっちの方がシリアスですね。
エドに比べると、アルの方がいろいろと自覚もあるし、エドに依存しているのかも知れません。エドもアルに依存しているのだけれど、アルのいう「エドワードがいなくては、自分の存在があやふやになる」という感覚は、やはり魂をエドワードによって錬成されたアル特有のものだと思うのです。
エドは、所詮人間なので、アルの気持ちは理解できないし、多分、その魂のあり方や、アルの不安定さについては、あんまり深く考えていないんじゃないかな。
エドが思うよりずっと、アルの心はデリケートなのですね。
で、結局、この話のアルフォンスは、エドワードの気持ちを誤解したままです(笑)。悲観的に過ぎるよ、アル…。逆だから!エドの気持ちは逆なんだよ!と教えてあげたい気分です。(じゃあ教えてあげればいいじゃん…。いやでも、伝わらないのがいいというか…)。←勝手。
全てはエドが奥手なのが悪いんです。ごめんねー、アル。エドはまだ、お子ちゃまなんだよ。
2004.12.6.up