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その老人は、静かにそこに座っていた。
足を投げ出して、干からびたような、小さくやせ細った身体を、戸の前の階段に預けている。その老人の前に、小柄な少年と、巨大な鎧姿の人物が立ち止まった。
「ちょっと訊きたいんだけど」
小柄な少年、エドワードが、老人に話し掛ける。
「この辺の古い言い伝えに詳しいんだって?」
老人は、虚ろな目を地面に向けたままだ。構わずに、エドワードは言葉を続けた。
「賢者の石って、知っているか?」
しばらくの沈黙の後、老人は口を開いた。
「…賢者の石。持つ者の願いを何でも叶えるという、魔法の石」
しゃがれた声で、老人は言った。
「やっぱり、この辺には、そういう伝説が残っているのか。で?賢者の石はどこにあると伝えられているんだ?」
ぎょろり、と老人がエドワードを見上げた。
「賢者の石。望みを叶える石。おまえらは何を望む?」
その質問に、ふたりは沈黙した。
「わしは、わしはなぁ。この足を取り戻す。この足を失う前の、まだ若かった自分に返る。そして、人生をやり直すんじゃ」
そう言って、老人の叩いた片足は、義足だった。鎧姿の人物、アルフォンスの身体が、僅かに、びくり、と揺れた。エドワードは顔を顰める。
「…馬鹿な。賢者の石は魔法の石なんかじゃない。時間を遡ることなんか、出来る筈がない」
エドワードが、呟くように言う。
けれど、肉体を取り戻すことなら出来るのではないか、と、アルフォンスは思った。それは、自分たちがしようとしていること。
「ひゃはははは」
老人が、歯を剥き出しにして笑った。
「そうじゃ、出来る訳が無い!賢者の石?そんなものは、古い言い伝えに過ぎん。そんなもの、この世にあってたまるか!!」
吐き捨てるように、老人は言った。そして、二度とこちらを見ようとはしなかった。彼は再び、階段へと身体を預け、死んだような目に、虚ろに風景を映していた。
その様子を見て、エドワードは、ため息を吐いた。
「…行こう。アル」
アルフォンスに声を掛け、来た道を引き返す。
「…結局、何も手掛かりになるような話はなかったね」
アルフォンスが、エドワードに話し掛ける。
「そうだな。あのじいさんの言う通り、この土地に伝わる賢者の石の言い伝えは、単なる言い伝えにしか過ぎなかったのかもな」
エドワードは淡々と答える。
ふたりが訪れたこの村には、古くから賢者の石にまつわる言い伝えが残っていた。それが、単なる言い伝えなのか、それとも本当に賢者の石がどこかに存在しているのか。または、嘗て存在していたのか。それを確かめるべく、ふたりは村中の人間に話を聞いて回ったのだが、今ではその言い伝え自体を知っているものが少なく、また、僅かに知っている者達からも、有益な情報は得られなかった。
はぁ、と、アルフォンスはため息を声に出した。
夜の闇に包まれた部屋では、珍しくエドワードが眠りに落ちている。さすがに、今日一日村中を歩き回って、疲れたのだろう。
「死んだように眠っているなぁ…」
その姿を見ながら、アルフォンスは笑いを含んだ声で言う。寝相の悪いエドワードが、ぴくりとも動かない。
アルフォンスは、夜空を見上げた。今日、老人に言われた言葉が、棘のように胸に刺さっていた。
(何を望む?)
そう、問われた時。アルフォンスの胸はざわめいた。まるで、封印していた記憶を辿るように。
(ボクの願いは、兄さんの身体を元に戻すこと。自分の身体を取り戻すこと…)
果たして、そうだったのだろうか?
アルフォンスは、不安な心持ちに震えた。
本当に、自分が願った望みは、そんなものだったか?
「兄さん…」
アルフォンスは、そっと窓辺を離れ、眠るエドワードの傍らに跪いた。エドワードの顔を覗き込む。
「兄さん…。お願いだ。笑っていて…」
搾り出すような、その声は。うな垂れるその姿は。まるで、祈りを捧げているようだった。
「でないと、ボクは…」
その言葉は、闇に消えた。
翌朝、ふたりは旅支度をして宿を出た。
「あーあ…。また無駄足だったなぁ」
エドワードがぼやく。
「そうだね…」
アルフォンスが、いつになく沈んだ声で答えたので、エドワードは、弟の顔を見上げた。
「まあ、いつものことだしな?気にする程のことじゃねーって」
にかっ、と笑って見せるエドワードの顔を見て。アルフォンスは黙り込んだ。
「……?どうしたんだよ、アル?何をそんなに落ち込んでんだ?」
エドワードが、心配げに眉根を寄せた。
「別に落ち込んでなんか…」
「嘘吐け」
アルフォンスの言葉を遮って、エドワードが断定する。
「おまえがひとりで悩むと、ろくな事にならない。ほら、オレに言ってみろよ」
困ったように、アルフォンスは首を傾げて、兄の顔を見た。
「…昨日の、おじいさんがいたじゃない?」
「ん?じいさん?どれだ?」
昨日は、村中の老人に会っている。
「最後に会ったひとだよ。片足が義足だった…」
「…ああ、あのじーさんか…」
「うん、あのおじいさん、賢者の石があっても、自分の足も、肉体も取り戻せないって言っていたけど、そうじゃないよね?賢者の石があれば、取り戻せるかもしれないよね?」
エドワードは、不可解そうに眉根を寄せた。
「アルがあのじーさんの何をそんなに気にしてんのか、わかんねーけど…。あのじいさんが言っていたのは、失った足を取り戻したい、とか、若返りたい、とか、そういうことじゃないんじゃないか?」
「え!?どうしてさ!取り戻したいって、おじいさんが言ったんじゃないか」
アルフォンスが声を上げる。
「本当に取り戻したいのは、そういう物理的なものじゃなくて、これまでの人生で、あの人が失ってきたあらゆるものなんだと思う」
「…?どういう意味?」
「人生をやり直したいって、言ってたろ?そういうことだよ。まだ、何も失っていなかった頃の自分に戻りたいって、そういうことなんじゃないか?」
「………」
「なんだよ、不服か?」
黙り込んだアルフォンスに、エドワードは問い掛ける。
「ううん…。兄さんがそう言うのなら、きっとそうなんだね」
アルフォンスは、それきり黙り込んだ。エドワードが気遣わしげに、彼を見上げる。
(あの人の本当の望みは、失ったもの全てを取り戻すこと。そして、人生をやり直すこと)
エドワードは、「それは出来ない」と、言った。それならば。
(ボクも、失ったものを取り戻すことは、出来ない。人生を、やり直すことなど出来ない)
(ボクの本当の望みはなんだったんだろう…?)
足元から崩れていくような、絶望感。
「アル?」
腕を引かれて、足を止める。エドワードがアルフォンスを見上げていた。その瞳は不安げに揺れている。
(いけない…。兄さんに、こんな顔をさせてはいけない…)
アルフォンスは、自分の左腕を掴むエドワードの手を、そっと右手で覆った。
「ごめん。なんでもないんだ。あのおじいさん、きっと辛い人生を送って来たんだな、と思ったら、なんだか悲しくなっただけだよ」
アルフォンスは、そっと嘘を吐く。明らかに、エドワードは安心した表情を見せた。
「なんだ、そんなこと…。あのなぁ、おまえが他人の人生まで背負うことはないんだぞ?全く、人が好いんだから…」
エドワードが笑う。その顔を見て、アルフォンスは安心する。
(笑っていて。貴方は)
(そうでないと、ボクは…)
アルフォンスが、駅で切符を買って戻って来ると。
エドワードは、老婦人の連れた犬とじゃれていた。子どもといる時。動物といる時。エドワードは、年相応の…むしろ、年よりも幼い表情になる。顔を舐められて、声を上げて笑う兄を。アルフォンスは、しばらく見ていた。
汽車に乗り込んで。エドワードは早速本を開いた。そんな彼を、アルフォンスはじっと見ていて。
その視線に気付いて、エドワードは顔を上げた。
「なんだよ?」
小首を傾げて訊く。
「ん…。兄さんの笑い顔って、太陽みたいだな、と思って」
「はぁ!?」
突拍子もない言葉に、エドワードは顔を赤くする。
「な、何言って…」
「子どもの頃から思っていたんだよね。母さんの笑い顔は、陽だまりみたいに暖かくて、安心できたけど…兄さんの笑い顔は、いつも眩しくって、見ていると、わくわくして、嬉しくなった」
「お、おまえなぁ…」
エドワードは、顔を赤くして、俯いてしまった。
「何、急に恥ずかしいこと言い始めるんだよ」
「照れてるの?」
アルフォンスが、エドワードの顔を覗き込むように、首を傾げる。
「照れてねーよ!…だいたいなぁ、それ言うんなら、アルの笑い顔だって…!おまえって、母さんに似てるよな。ほんと、優しい顔で笑っててさ。オレはその顔が見たくって、仕方なかった…」
顔を赤くしたまま、エドワードが言う。
「ふぅん…そうだった…?」
穏やかに答えてみせながら。アルフォンスは、
(嘘吐きだね、兄さんは)
心の中で囁く。
(兄さんは、ボクの話をしているようで、その実、母さんの話をしている。兄さんが見たかったのは、母さんの笑顔で、ボクのじゃない)
アルフォンスの空洞の胸が、ずきん、と痛んだ。
(ボクじゃない。ボクじゃない。兄さんが求めているのは、ボクじゃない)
(ああ、そうだ。ボクが望んだのは…。ボクの本当の望みは…)
「アル?」
エドワードがアルフォンスを見上げる。
ぷっ、とアルフォンスは声に出して噴き出した。
「兄さん、よだれ、付いてる…。コートの肩…。さっきの犬に付けられたんだね」
笑いに声を震わせながら、指摘すると。
「おわっ!?」
慌てて、エドワードはコートを脱いだ。
ふたりは、比較的大きな町で汽車を降りた。
「ま、しばらくはここで、文献探しといくか」
な?、と、エドワードがアルフォンスを見上げて笑う。
「うん」
頷きながら、アルフォンスの心はここには無い。
気付いてしまった思いは。とめどなく、その記憶を紐解いていく。
図書館で、本を読み漁るエドワードを横目で見ながら。アルフォンスは、自分もまた、本に集中している振りをした。
(母さんは陽だまりの笑顔。兄さんは、太陽の笑顔)
アルフォンスは、幼い頃の記憶を辿る。
彼は、自分の兄が大好きだった。明るくて、元気で、表情がくるくると変わる。
何か新しいことを思いつくのは、いつでもエドワードで、びっくり箱みたいに、次々とアルフォンスを驚かせ、楽しませた。
頭が良くて、運動神経もよくて。照れ屋で素直じゃないけど、本当はとても優しくて。
アルフォンスは、いつでもエドワードの後を付いてまわった。エドワードが、その笑顔を自分に向けてくれることが嬉しくて。誰よりも自分が、彼の近くにいることが誇らしかった。けれど。
何時の頃からか、アルフォンスは気付いていた。エドワードの特別な相手が、自分ではないことに。
アルフォンスの大好きな、エドワードの太陽のような笑顔。その顔が、ただひとりに対しては、違うものになる。
眩しくて、きらきらと光っているようなそれが。そのひとの前では、その光を和らげる。少し、はにかんだような。愛しさと、思慕をその瞳に湛えて。それは、これ以上はない程、優しい表情になる。そのひとに笑い掛けることが、嬉しくて仕方ないのだというような。その喜びを満面に表して。
お母さん。
エドワードが、他の誰にも見せることのない笑顔を見せる相手。それは、彼らの母親だった。
大好きなエドワード。大好きなお母さん。
なのに。
ふたりが笑い合うその光景を。歪んだ顔で見ている自分を、アルフォンスは自覚していた。
図書館の閉館時刻が近づいていた。
「兄さん。もうそろそろ、時間だよ」
本に没頭しているエドワードに、アルフォンスは声を掛ける。
「ああ、もうそんな時間か」
エドワードは、んしょ、と立ちあがると、
「これとこれとこれが、オレの分。こっちがおまえの分な」
と、借りて帰る本を指定して、アルフォンスに笑い掛けた。
比較的軽い本がエドワードに、見るからに重そうな分厚い本がアルフォンスに振り分けられる。
「もー、いいけど。こんなに借りて、徹夜しないでよ?」
一応、注意してみるが、「わかってるよ」と軽く流されてしまう。
「こんなに借りなくても…。特に目新しい文献ってわけでもないんでしょ?」
本を抱えてカウンターへ向かいながら、アルフォンスが言う。
「ガレキの山にお宝が眠っているかも知れないだろー?」
エドワードは、軽い口調でそう言いながら、カウンターに本を積んだ。
静かな夜。アルフォンスは、ぼんやりと活字を追っていた。本を読む振りをして、自分の思いに没頭する。
ふと気付くと、ベッドで横になって本を読んでいたエドワードが、寝息を立てていた。
アルフォンスは、そっと近づいて、エドワードが顔をうつ伏せている本を、抜き取った。エドワードに布団を掛け直してやり、静かに離れる。
エドワードが眠ってしまえば、もう本を読んでいる振りをする必要もないので、アルフォンスは本を閉じた。
エドワードは、悪夢にうなされることが、度々ある。初めは、あまりにも辛そうなのを見かねて、アルフォンスは、その度にエドワードを起こしていた。しかし、悪夢にうなされていたことをアルフォンスに知られると、エドワードは酷く、気にした。「うるさくしてごめん」と。そう、何度も謝るその姿は。眠る自分を。夢を見る自分を。悪夢にうなされる自分を。そして、…罪を犯した自分を。その何もかもを責めているような。あまりに痛々しい姿だったから。
何時の頃からか、アルフォンスは、エドワードを起こすことを止めた。
今では、エドワードの苦しそうなうめき声や、うわ言を、ただ、聞いている。
(そんなに自分を責めなくてもいいのに)
アルフォンスは、いつもそう思う。ふたりで犯した罪なのに。エドワードは、自分ひとりが悪いと思っている。それは、アルフォンスが肉体を失ったせいでもあり、母親を生き返らせようと言い出したのが、エドワードだったせいだろう。しかし。
(確かに、兄さんがいなければ、ボクはこんなことにはならなかったし、まっとうに生きていたと思うけど…)
それでもアルフォンスは、罪深いのはエドワードよりも、自分の方なのだろうと思えてならない。
(兄さんは、知らないから。ボクが本当は、何を望んで、母さんを錬成したか)
そう、母親を生き返らせることを望んだのは、エドワードだけではない。アルフォンスもまた、それを望んだのだ。しかも、それはエドワードとは僅かに違う理由だった。
(兄さん、ボクの本当の望みはね…)
そっと、アルフォンスは、ベッドの傍らに跪き、エドワードの髪を撫ぜた。
「本当にボクが望んだのは、貴方だけだ…」
アルフォンスは、小さく呟いた。
母親が死んだ時、アルフォンスだって、とても悲しかった。優しくて、綺麗で、大好きだったお母さんが、突然いなくなった。そして、大好きなエドワードは、笑ってくれなくなった。だから。
エドワードが、「母さんを生き返らせよう」と言った時。アルフォンスは、一緒に母親を生き返らせることが出来たなら、エドワードが笑ってくれると思ったのだ。そして、兄と一緒にそれを行うことによって、エドワードが、自分にも、あの「特別な笑顔」を向けてくれるのではないか、と。アルフォンスはそんな風に期待した。
だから、人体練成を行ったのだ。
「本当に罪深いのは、ボクの方なんだ…」
痛ましげにエドワードを見つめ。
アルフォンスは、眠っているエドワードに告げる。
「本当に罪深いのは、兄さんではなく、ボクの方なんだよ」
だから、そんなに苦しまないで。
アルフォンスは祈るように思う。
自分が身体を失ったのは、自分の錬金術の力が兄と違って未熟だったせい。そう、わかっているのに。自分が身体を失ったのは、自分の犯した罪に対する罰なのではないか、と。
アルフォンスは、そう思わずにはいられない。
アルフォンスの犯した罪。
「ボクは、兄さんの特別になりたくて。その為に、母さんの死すら利用しようとした」
それは、到底、許されない罪だと、アルフォンスは思う。
「だから、ボクがあちら側へ持っていかれたのは、当然の罰なんだ」
本当に罪を犯したのは、純粋に母親を生き返らせようとした兄ではなく、策を弄した自分なのではないかと。
太陽を手に入れようとして、地に落とされた愚か者は。
本当は、自分の方なのではないか、と。
思って、アルフォンスはうなだれた。
(望んだものは何?)
(望んだものは、兄さんの笑顔)
ただ、ボクは、兄さんの「特別」になりたかった。
子どもじみた独占欲。
それが、こんな結果になったことに。アルフォンスの心は押しつぶされそうになる。
まるで、自分がエドワードを、この罪の道に引きずり込んだ気がしていた。
だから、エドワードが苦しむ必要などないのだ。
(ごめんね、兄さん)
(ごめんね、ごめんね…)
(でも…だから)
どうか、どうか。貴方は笑っていてください。自分勝手な言い分だとわかっているけれど。
貴方はどうか、笑っていて。
今は、それが。ボクの本当の望みだから。
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