傷にさわらぬようにと御者がだいぶ気を使ってくれたので、パリへつく頃にはすっかり夜も更けてしまっていた。
車輪の音が見当違いに大きく響くその街並みは、冬の冷気の中でいつになく重く沈んでいる。
タンプル街か・・・この辺りは久し振りだ・・・・・
不景気のせいばかりではあるまい。ここのような貧民層がひしめく場所は昔からそうだった。日当たりの悪い路地などは昼間でも夕暮れ時のように薄暗く、治安も悪けりゃ疫病の類もあっという間に流行して人々から夢や希望を奪う。パリのいたるところに似たような所はあるが、此処には思い出がある分、余計に空気が重い。
どんな努力をしたとて決して這い上がれない高い壁に囲まれたような・・・ある種“牢獄”のような場所だ。
こんなところに知り合いが住んでいるのか・・・?
貴族の囲われ者が暮らすのにタンプル街というのは合点がいかない。
もっともあいつは女のようだから・・・男の俺が単純に思い浮かべる理由ではないんだろう。
しかし・・・どんな事情があるにせよ、若い娘を囲っておくのにこの区域は適当とは思えない。
近衛連隊長の屋敷からパリまでの道中、・・・こんなにゆっくりと流れる時を過ごしたのはいつ以来だろう?気が付けば何かに追われるように家を飛び出し、志半ばで心が折れたわけではないが、いつしか犯罪組織の一員となった。自分のやって来た事を姑息だとは思わない。が、意味のある行動だったとも言えず。ただ・・・変わりゆく時代の流れは期待するほど敏速ではなく、澱んだ川を眺めて悠長に構えていられるだけの余裕も忍耐も、俺には無かったということだ。
もっと、もっと・・・急流を、激流を・・・!!
飢えながら長過ぎる一日を過ごす民衆は、時代にそれを望んでいる。
・・・・・そう思っていた。
馬車の中で、俺は久し振りに静かに流れる時を感じた。
これまでの自分は何だったのか?考える機会を与えてくれたのがあの女だという事実に若干の反感を覚えているところが、まだ内省しきれていないな、と我ながら思う。が、しかし・・・もしこの怪我を負っていなければ、俺は何処まで道を外した事だろう?
・・・俺のしたことは決して間違いではない。
だがこんな事をして、最終的に得られたのものは“己を振り返れ”という・・・後悔にも似た自己嫌悪の思いだけだった。
「なんてことだ・・・・・」
自嘲気味に笑っていると、ようやく馬車が止まった。
「馬車が入れるのはここまでです。あとは狭い路地になりますので、降りて歩いて貰います」
ランタンの明かりが眩しくて御者の顔が霞んだが、どうやら外に出てもいいらしい。
外へ出て深呼吸をし、冷たい外気を思いっきり吸い込んだところでやっと夢から完全に覚めたような気持ちになった。
不審な動きがないかどうかを気にして暫く訝しげに俺を見ていた御者が、逃走の危険性がない事を確認した後ゆっくりと歩き出し、こっちだと手招きをする。
「やれやれ・・・本気でタンプル街に知り合いがいるんだな・・・」
ぼそりと呟き、歩き始めたところで・・・明かりに目が慣れたのか暗がりに若い女がいる事が分かった。
こっちへ近付いて来る足取りは別段警戒している風でもなく、こんな時刻に急いでいる様子でもない。まとった安物のショールがかえって寒々しい印象だったが、次第にハッキリしてくる娘はなかなか毅然としていて、美しかった。
ああ・・・この娘が謎の囲われ者か。
新聞記者の癖と言えばそれまでだが・・・なんでも根掘り葉掘り訊けばいいってものではない。ましてや相手は女性・・・いや、『女性同士』の関係だからこそ、尋ねても問題はない・・・のだろうか?いや、しかし・・・・・『ジャンヌ・バロア回想録』を鵜呑みにしたとすれば、この娘は近衛連隊長の愛人という可能性だってあるわけだ。
俺が今考えなくてもいいような事に頭を悩ませ立ち尽くしてる間に、目の前までやって来た娘は御者と一言二言言葉を交わし、布製の袋を何やら大事そうに受け取った後、今度は俺の目を真っ直ぐに見つめて・・・「ロザリーです。どうぞよろしく」と会釈をした。

4日目の朝。
思ったよりも日当たりの良かった部屋には、冬の朝だというのに東の空から早くも暖かい光が届いていた。
暖かい印象は日当たりのせいだけではなく、微かにだが今朝は人の声がする・・・・・そういうところから来ているものかもしれない。
寝台から身を起こし上着を引っ掛けただけのだらしない格好のまま隣の部屋を覗くと、仲のよい二人の女性の姿があった。
「まぁ、ずいぶんと早起きなんですね。ベルナールさん、今日こそみんな一緒に、朝食を食べましょう」
俺に気付いたロザリーが、振り返ってパンを入れた籠をコトンと食卓テーブルの上に置き、微笑んでみせる。
ここへ来て、彼女たちと朝の挨拶を交わすのは初めてだった。どうやら今日は市場の仕事が休みらしい。普段は早朝というか、冬場はまだ深夜にあたるような時刻に家を出て行くので、この数日間、ここへやって来た詳しい事情を俺は話せないままでいた。だが、一方で、“聞きだそうとしない”彼女たちに甘えている自分が居る事にも気付く・・・・・朝から晩まで忙しそうにしている彼女たちだったが、話をする機会が全くなかったかと言えばそうではなく、決定的な部分を告白する事を俺は先延ばしにしていた。現に・・・今朝も他愛も無い会話で、朝食の時間を無為に過ごしてしまった。・・・どうも、切り出すタイミングというのが、解らない・・・
「今日はとっても暖かいわ・・・よかったらちょっと散歩に行きません?ずっと部屋の中に籠もっているより、その方が気分転換になるわ」
身の置きどころがなく、かといって何かを手伝わせてくれと願い出ようにもどうにも使い物にならない体だったので、正直「外に出よう」という誘いは有り難かった。
ロザリーは何処から出して来たものか男物の外套を手にして、同居人の女性に声をかけると「さ、行きましょう」と俺の腕を取った。

「・・・これは誰の・・・?」
外に出て、すっと肩にかけられた外套は真新しく、貧しい庶民の家にあるにしては仕立ての良い物のように見えた。まだ会っていないだけで、あの家には男の住人も居るのだろうか?俺は・・・何も知らせていないし、また何も知らされていないのだ。
大の男が突然転がり込んで来たことによって、実際問題彼女たちはどれだけ迷惑していることだろう。もちろん・・・受けた恩をそのままにするつもりはないが、傷が癒えるまで厄介になれば相当な出費を強いる事になる。
この間までの“黒い騎士”が今日は手負いの体を引きずって、善良な市民に迷惑をかけながら、みじめに匿われてるんだからな・・・情けないもんだ・・・・・・・
「ご心配なさらないで。オスカル様からお金を戴いてます」
考えている事を見透かされていたようで、・・・驚いた。
「貴方の傷が癒えるまで、面倒をみてやって欲しいと・・・事情があってお屋敷ではそれが難しいのだと・・・、10日程前オスカル様は直接此処までいらして・・・私とおばさんに頭を下げられました」
・・・・・・・・あの女は確か「手紙を書いておいた」と言っていたが・・・そうではないのか?
「オスカル様は私の命の恩人です。その方からお願いされた事をお断りできるはずはありません。それに・・・オスカル様がお話にならない事を、私から詮索するつもりもありません。でも・・・考えれば考える程・・・気にかかります。貴方が今着ている服はオスカル様から戴いたお金で買いました。暖炉の薪も、今朝食べたパンも、スープに入れたお肉も野菜も・・・全部オスカル様が用意して下さったものです。・・・何故ですか?・・・オスカル様は自分が誤って負傷させてしまったと仰ってました・・・でも、それは嘘です。私には分かります。オスカル様は誤って貴方を負傷などさせていない。どちらかと言えば・・・貴方は命を助けられた。違いますか?・・・私のように、貴方もオスカル様に助けて貰ったんでしょう・・・?」
「・・・・・・・・・・」
「ベルナール・シャトレ。私、貴方を知っています。10年以上も前ですけど・・・母さんが貴族の馬車に轢き殺された時に、貴方にはお世話になりました」
「・・・何から先に驚いていいか・・・・・君があの時の・・・?あれから、どうしていた・・・?」
「オスカル様と出逢って、お屋敷に引き取って戴いて、身も心も救われました」
「何故もとの貧しい生活に戻ったんだ・・・?」
「パリの暮らしが好きなんです。どんなに貧しくても・・・貴族社会の息苦しさよりはこっちの方がいい。オスカル様とお別れするのは辛かったけど・・・お傍に居たら私ってば、どんどんあの方に甘えてしまう・・・だから、決意しなきゃ駄目だって思ったの・・・」
「命の恩人・・・・・・」
「・・・貴方、何をしたの?」
「・・・あの女の親父から銃200丁を奪い、あの女の従僕の目を潰し、あの女を5日間監禁した・・・」
ロザリーの顔色がさっと変わったかと思うと、すかさず彼女から発せられる深い絶望感が辺りをどんよりと包む感覚に襲われた。そのまま、どのくらい無言でいた事だろう。最初に口を開いたのは又もロザリーだった。
「黒い騎士なんか・・・ちっとも英雄なんかじゃないわね。殺されないで今ここにこうして居る事が不思議なくらいだわ。・・・オスカル様が今頃どんな思いでいるか・・・・・憎いわ。貴方のことが物凄く!!」
怒声は真正面から、俺の胸に突き刺さった。
ロザリーの瞳に燃える怒りの炎は・・・あの時と同じだ。
・・・こんな運命って、あるだろうか・・・。
あの時、俺は随分と気楽な立場だった・・・正義感を振りかざし貴族の馬車を止めたが、結局何が出来たというわけじゃない。当事者じゃなかったから・・・。あれが精一杯だった・・・。ひとりぼっちになった君を、引き止める事すらできなかった。
あれから10余年・・・今は傍観者でいる事すら許されない。
この娘の怒りは真っ直ぐに・・・俺に向かって、突き刺さる。
家族を殺された彼女に同情した俺は・・・年月を経て、今度は彼女の恩人を殺すところだったというわけか・・・?
なんの因果であろうか・・・神は俺のした事を否定し、決して許さないと【罪人】の烙印を押す。
ロザリー・・・怒りに燃えた君の大きな瞳に、どうにか鼓動する俺の心臓は、今にも焼き尽くされそうだ。
間一髪、難を逃れた心臓が、今にも焼き尽くされそうだ・・・・・・
「アンドレは・・・アンドレは・・・?無事でいるの・・・・・?」
怒り狂った瞳に、涙が混じった。
・・・こんな、こんな複雑な女の表情は見たことが無い。俺は全身に鳥肌が立つのを感じた。
「アンドレ・・・・・・・黒髪の男か?生きてはいる・・・」
「オスカル様は私が母の仇を討てるよう、根気よく訓練して下さいました。アンドレも・・・アンドレだって・・・・・
ベルナールさん、私が母の仇をとったとお思いですか?オスカル様が、私に本当に仇をとらせたとお思いですか!?何も知らない貴方に言っても無駄でしょうけど、私はオスカル様とアンドレに・・・“憎しみを乗り越える”という事を、教えて貰ったんだと思っています。人を憎むのは簡単な事です。それに、憎しみの渦中にいる人を炊きつけたり、同情したり・・・そんな事はたやすい事なんです!誰にだって出来ます!でも・・・あんな風に出来る方は、きっといません。「許せ」と言うのではなく、あの時オスカル様は「私のために生きろ」と仰って下さった。仇をとって、人生を終わりにするのではなく・・・一緒に生きて希望をみつけよう、私がきっと探し出してやるって・・・・・オスカル様は、そういう方なんです。貴方に分かりますか・・・!?」
「・・・・・・・」
「・・・アンドレは、大丈夫・・・オスカル様の為に、きっと大丈夫・・・」
「え?」
「とにかく、貴方は・・・生かされている事に感謝することね!」

春はまだ遠いが、ふと見渡したセーヌの流れはいつになく穏やかで、こうやって移りゆく季節もあったのだと・・・何故か遠い昔、少年の日々を思い出した。
転換の時はもうすぐだ。
この先、時代の流れはセーヌほど悠長ではないだろう・・・
それでも、こんな風景を、思わぬ展開から生まれた余暇に眺めて・・・忘れかけていた何かを想い、春を待つ。明るい陽射しの春を・・・待つ。
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