目の前に広がる風景。この世の美しきものを全て集めたかのような素晴らしい眺め・・・空気・・・匂い・・・音・・・。ここでは降り注ぐ太陽の光ですら、どこか特別であるのだと錯覚させた。
ベルサイユ宮殿。
そこは栄華を極めるフランスブルボン王朝の心臓部であり、18世紀欧州絶対王制の象徴である。
その殆ど滑稽な程に美しく完璧な景色の中に、若き近衛隊士たちはいた。
警護の立場でいる以上、ベルサイユ宮殿の隅々まで完全に把握することは当然と言えたが、実際のところそれは不可能に近い難題だった。
「ベルサイユは生きて蠢く魔物である」 ジェローデルが最初に告げた一言がオスカルにとっては鮮烈であり、表現の全てだったことは、後々振り返ってみた時にも変わらない。
そのベルサイユを一同は眺め歩いていた。オリエンテーションとでも言うのだろう。格段初歩の段階でなくとも、こうして宮殿内をくまなく観察して歩く事は近衛の重大な任務のひとつと言えた。それに今日は蠢く魔物の正体について・・・それについては決して安易に言及できる事ではないにしろ、新任の隊長に伝えておくべき重要項目である事には違いない。
だが、それよりも先にこれを言わねばならない。
先日の花嫁引渡し殿での一件は新生近衛連隊のPRとしては恰好のものとなり、ベルサイユ中の話題をさらった。まさに間一髪のところオスカル隊長の活躍で最悪の事態を免れたのだから、実際これ以上の手柄はない。しかしこの出来事は事件性よりも、日々刺激を求め飢えたように生きる貴族たちを喜ばせる余興として受け入れられ、それゆえに隊長の存在は一気に宮殿内のアイドルにまで持ち上げられる事になったのだからたまらない。
低次元なベルサイユの様子には相変わらず気が滅入る。
しかし、これは浅はか極まりない俗物の感性での話であって、実際にはあの救出劇は・・・すんでのところでフランスそのものを救ったのだ。
副官の座に甘んじる事になった私に対して、当初は驚き戸惑い、一歩間違えれば同情ともとれる不愉快な視線を向けて来る輩がいた。
・・・それは分からないでもない。私が人々の目の前でハッキリと敗北したのなら簡単に納得できた事であろう。
しかしながら、隊長との力の差を認識できたのは私のみ。普通に考えて女が近衛隊長という有り得ない結論には反発こそあれ簡単に納得などできるわけがない。だから私はそれなりの時間をかけて、部下たちを説得するつもりでいたのだ。・・・それは言い過ぎだろうか?
少なくとも、隊長として職務に就くオスカル・フランソワをしばらくのあいだ観察すれば、隊員たちも理解するだろうと言う確信があった。別段【事件】など起こらずとも。
だが事は起こった。
私が何も発見できず、隊長が「女の気紛れ」で消えたのだと陰で毒づいていた時、とっくに彼女は異変に気付き、外敵と対峙していたのだ。
結果、あっさりと隊員たちは隊長の実力を認める事となる。
不謹慎極まりない言い方だが、これで近衛隊の結束が固まったのだから怪我の功名と言えなくもない。隊長はその卓越したスタンド・プレーによって、見事なチームワークを生む事になったのだから、たいしたものだ。私ではまずできまい。
・・・女のする事だから女がいち早く察知し救出できたのだろうか・・・?
明らかに理解の域を越えている。
女の脳は男のそれとは構造が異なるのか?
・・・ああ、こんな事を考えている私は、やはり不謹慎なのである。
いま目の前に居る隊長は・・・そんな捕物劇を繰り広げられるような豪快な人物には思えない。極端に凛々しいのでとても貴婦人のようには見えないが・・・美しい女性である。
純白の軍服に真紅の襷、近衛隊長の真新しい勲章は、すべてが絵空事のように眩しく私の目に照り映える。
・・・・・見とれている場合でなないのだ・・・。
「隊長、壮観でございましょう?ベルサイユは人々を虜にする。ひたすら権力に固執する者たちが力の全てを結集して造った楽園です。見事な庭園を隔てて広大な運河を眺める時、人は世界を制したかのような錯覚に捕らわれる。ここは退屈な人間たちが日々快楽のみを追求しようとするところです」
あえて大仰な言い方で様子を見ると、隊長は特に気にさわった感じもなく、目線を運河に向けたまま微かに唇を動かした。「世界を制したかのような・・・」と見てとれた。
「ベルサイユは生きて蠢く魔物です。美しい景色に酔って油断していれば、あっという間に足をすくわれる。その恐怖ゆえ人々は日々おっべかを使い保身の道だけを考え私腹を肥やす事のみに専念する」
これは免疫なのだ。どのような実力者であろうと、オスカル・フランソワはまだベルサイユを知らない。少々どぎついくらいの物言いがちょうどいいのだ。そう信じて話を続ける。
「我々近衛隊の役割はベルサイユを警護する事。貴族たちの安寧とした暮らしを保護する事。しかし、その任務は決して貴族全体の為ではありません」
ゆっくりと振り返り、視線を広大な庭園から豪奢な王宮に向けた。世界を制する幻想に捕らわれた最高権力者たちが棲むところ。それは圧倒的な力で人々を拘束し、自由を奪う、時代の象徴であった。
「我々が身を呈して守るべきは国王と王室です。ところが大貴族たちの中には少なからずそれに反感を持ち、失脚を願い、我が身の台頭を目論む者がおります。そういう者たちは手段を選ばない。口封じの為には何のためらいもなく人の命を奪うような者がひしめいております」
花嫁誘拐を企てたのは王太子の従兄弟、オルレアン公爵である。しかしこれは決して明白には出来ない事柄であり、このように闇から闇へ葬られる事件はベルサイユでは後を絶たない。
「すんでのところで危機回避さえできれば、事件は次から次へと揉み消され、火種は絶える事なくくすぶっている・・・」
「敵は外から来るわけではない。王室は常に内部からこそ狙われていると言う事か?」
またも視線は王宮に向けたまま、一通りの理解を示したらしい隊長はなおも続ける。
「権力者の失脚を願うのはその地位に次ぐ立場にいる者。オルレアン公などはその最たる人物だ」
・・・隊長にはもっと単刀直入な言い方で良かったのだろうか?そのアッサリとした口振りに拍子抜けする事このうえない。同時に自分のもったいぶった言い回しが非常に後悔された。
この金髪の美しい武人を隊長と呼んでまだ日が浅いが、言葉より先に行動に移る性格はだいぶ読めてきた。・・・心配なのはそこである。
「隊長、これから先、単独行動は控えて下さい。万が一の事態が起こってからでは遅いので・・・」
「万が一を阻止せねばならない立場の者が自分の万が一を恐れていてどうする?」
これだ。隊長はこのてのやり取りでは、まず絶対に人の言うことを聞かない。気のせいか若干面白がっていそうな面持ちで、碧い瞳をこちらに向ける。
・・・・・・この人の傍で、自分こそが注意深くいればいいのだ。
議論とまでいかない会話の結論は、ハッキリしていた。私の中で。
そして恐らく・・・この平民の従僕の中で。
常に数歩下がったところで静かに存在する男、アンドレ・グランディエは、平民の分際でありながら物怖じしない態度で新隊長に見事に追従していた。
何故一介の従僕がこうまで特別待遇を許され、隊長と可能な限り行動を共にできるのか?
当初疑問視していた部分はこの短期間のうちに私にも理解できるようになっている。
彼には彼女の動きが読めるらしい。少なくとも私の倍・・・いや、比較にならないレベルで隊長の行動を把握しているようだ。
なんなのだ?忌々しい・・・。補佐役は私なんだぞ・・・。
あまつさえ私には嫉妬とも取れる感情が芽生え出す・・・・副官の勲章を付けているのは私だ。
たかが平民の従僕相手に!・・・さざ波立つこの気持ちは一体なんだ?子供か、私は?
慌てて我に返り、人にはこんな青臭い感覚もあるのだなとおかしくなる。
新隊長を迎え、華々しくも平坦だった自分の人生が少しづつ起伏を帯びて来る。
あれだけ空虚に思われたベルサイユの景色が思わぬ時にひどく輝かしいものに思える・・・。
ふと見ると、隊長はまた女の気紛れとも言える仕草で踵を返し、壮大に広がった庭園へと独り歩き出していた。
初夏の風が爽やかに庭園を通り抜け、近衛隊士の密談も一応の収束を見せる頃・・・
ベルサイユに巣くう魔物が動き出す。
そして繁栄の陰で又も、鎌首をもたげて瞬きをする微かな音がした。
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