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アニばらワイド劇場


第36話 「合言葉は“サヨナラ”」 〜満天〜



このところ雨の日が続いているせいか日中のパリは湿気てまとわりつくような重苦しい空気に包まれている。
混沌とする情勢のなか王制への不満で爆発寸前の市民たちは続々と到着する王家の軍隊と街のそこかしこで奇声を上げ小競り合いを演じている。が、それで発散できる者はまだましなのかもしれない。

大多数の市民は飢餓や病に苦しめられつつもただ黙々と日々を過ごしている。
そして軍服を着ている者はその者たちから冷たい視線を向けられ、たちまち憎悪の対象となる。
我々衛兵隊とて例外ではない。それどころかパリ巡回中狭い路地でふいに出くわした見知らぬ兵隊とパリ市民との板ばさみになり、結果双方から罵声を浴びせられるような事態も珍しくない・・・。

7月に入り国民代表による三部会での話し合いが決裂し王室と国民の関係が一挙に険悪化する中、このような面目の立たない状況に置かれ真っ赤になって悔しがる隊員が続出。

彼らの鬱積した思いはいよいよ行き場を無くし、深い溜め息となっては虚空をただただ彷徨う。
些細な出来事に神経を尖らせる一方で日常繰り返される悲惨な光景に慣れつつある自分がたまらない。

一日一日がひどく長く思える・・・・・・・・・』


    


妙に頭が冴え寝付けずにいたアンドレは溜め息をつくと書きかけの日記を閉じランプの火を消した。そして遠くからコツコツと響いて来る足音を聞いて小さく「やれやれ」と呟く。
アンドレは上着を取り、静かに部屋を後にした



日が暮れると同時に吹き始めた涼やかな風がパリの街に重たく覆いかぶさった空気を動かした。
ずっしりと肩に圧し掛かるかのように思えた湿った熱い大気は涼風に流され、ふと身体が軽くなったような感覚を覚える。
肌を撫でてゆく夜風の感触は火照った気持ちや身体を優しく鎮め、疲れた心をゆっくりと癒していくかのようだった。

夏とはいえ深夜ともなればだいぶ涼しい。
気が付けば、夜中の警戒監視の任務は衛兵隊員達にとって苦行ではなく、むしろ“安らげる時間帯”といっていいものになっていた。



心地よい夜風に吹かれ石畳を蹴って歩く軽快な足音が、静まり返った衛兵隊の敷地内に二重になって響く。
そして意外な程に冴え渡った7月の夜空を見上げ、アランは拍子抜けするようなかすれた調子でヒュ〜・・イと口笛を吹いた。アンドレは始まったな・・・と、一瞬ニヤリとし、耳を澄ます。

「ちぇっー・・・、あいつらだけはな・・・下界で何が起きていようがまるでお構いなしだ」

アランのわざとらしいくらい感傷的な言い方がかえって笑えもしたが、普段の雑談とは少し違ったセンチメンタルな口ぶりにアンドレはいつになく興味を引かれた。


「あいつらって?」

「お星様のことよ」

「お星様?」

「高けえところから何千年も何万年も、俺たちの暮らしぶりを見てやがるんだろ?いい加減飽き飽きだろうさ」

「お星様って・・・アランおまえ、面白いなぁ・・・!」




今夜のように起きて待っていた場合でなくとも冬場と違い夏のこの時期、歩哨の交代時間を知らせる合図はかえって気持ちがいいくらいだよ。そう言ってアンドレは笑った。
日中のパリ巡回と比べて夜勤時間帯の敷地内は穏やかそのものだ。だから、むさ苦しい兵舎で仲間のいびきや歯軋りといった不快な音を聴きながらじっとり寝汗をかいているよりも外に出た方が爽やかだと言える。

昼間の暑さで疲れた身体に多少寝起きのだるさは残るものの、夕涼み感覚でブラブラと歩きながら二人は夜空を見上げ、アランは特に上機嫌な様子で鼻歌など唄っている。そして、中途半端なところでくわ〜と大きな欠伸をした。
少し後ろを歩いていたアンドレは、つられて飛び出しそうになった欠伸を我慢し若干潤む目で素早く首を振るとアランに駆け寄り「なぁ、アラン。おまえ天文学に興味があるのか?」と、こちらは豪快な欠伸によって完全に涙目になったごつい男の顔を覗き込んだ。

「天文学だぁ?俺にそんな高尚な趣味はねえよ。ただ、空を見上げるくらいしかないだろう?大昔の羊飼いとたいして変わらねえな。昔から居眠りする仲間の横でよ、夜勤の時たいがい俺は星空を眺めて来たわけだ。不思議と歩哨の間寝ちまった事はねえなぁ・・・アンドレ、むろん知ってると思うが季節によって見えるお星様がよ、違うんだぜ?」

ちょっと得意気でいるアランの様子がおかしくて、今度こそアンドレは警戒中だというのに声を上げて笑ってしまった。それを見て「なんでえ」と不満そうな顔をするアラン。よっこらしょ・・・といつもの場所に腰をおろして「見てみろ。この雄大な星空を!」と芝居がかった言い方をし、ぐいっと大きく仰け反ってみせた。


夜勤時の相棒となり、アンドレはアランから入隊以来いろいろな話を聞かされてきた。それでも星空について何か語っているアランというのは初めてで、またもこの男の意外な一面に触れてアンドレははっとする。

すっかり眠気も消えて、座り込まないまでも夜空を見上げ、アンドレは大きく2回、深呼吸をした。


「俺も星が好きだよ。パリに天文台があるんだ。17世紀にルイ14世陛下が建てられた。美しい建物で、宇宙や天体に興味のある者に広く開放されたんだ。子供の頃にオスカルと何度も通ったよ・・・」

「へーーーー・・・・」と唸り声を上げつつニヤニヤした顔付きのアランが仰け反ったままアンドレの話に耳を傾ける。天とアンドレを交互に眺めて「天文台ねぇ・・・」と小さく呟く声を聞いたアンドレは、それに笑いかけながら「大三角が見えるだろ?」と夏の夜空に大きなトライアングルを描いてみせた。

「あれが白鳥座のデネブ。そしてわし座のアルタイル。あそこに見えるのがこと座のベガだ。オスカルと競争したっけなぁ・・・どっちがどれだけ多く星座を覚えられるかってさ」

「どっちが勝ったんだ?」
面白がってアランが尋ねる。

「俺だよ。星が出る時間にも俺は屋外で働くことがあったし、その時傍にいた大人から覚えるコツもいろいろと教わったんだ。結局、俺が覚えた星座をオスカルに教えてやったくらいだよ」

ほぅー・・・・・とアランは低く唸ってもう一度、星空を大きく仰ぎ見た。

「・・・なぁ・・・おめえと隊長さん、一体いくつの頃からの付き合いなんだ?」

アランの質問に何故かアンドレは不思議そうな顔をして「ああ・・・確か・・・初めて会ったのは俺が6歳でオスカルが5歳の時だったな・・・でも・・・いつからあいつを知っているのかって訊かれれば、もっともっと昔からのような気がするよ」

屈託ない笑顔でそう話すアンドレの様子が妙に逞しく思えた。
アランは身を起こし深い溜め息をつくと今度はぼりぼりと頭をかきながらアンドレを見つめた。

「子供の頃からってよ・・・そんな小せえ時から四六時中一緒にいて、まぁ失礼な質問かもしれねえけど、よく飽きねえなぁ?」

アランの問いに一瞬目を丸くしたアンドレはプッと吹き出し「アラン、おまえだって飽きずに夜空を眺めてるじゃないか」と言って満天の星空を見上げた。


「・・・綺麗だなぁ・・・」

遠い目をして天を仰ぐ男の姿がやけに牧歌的で昼間の混乱した状況が一瞬別の世界の出来事のように思えた。


「見えるのか・・・?」


このタイミングで意地が悪いかと思いながらも空を眺めて微笑むアンドレの様子にアランは訊かずにはいられなかった。

「おめえの見てるのは・・・記憶の中での星空であり隊長だ。今の姿じゃねえ。・・・違うか?」

アランの質問にアンドレが特に動揺した素振りを見せることはなかった。
だが直ぐに返事をすることもせず、アンドレは暫く星空を眺め続けていた。そしてふっと笑うと「アラン」と呟き、アンドレは静かに振り向いた。


    


「オスカルって美人だろ?」


・・・何いってやがんだ、こいつ?
と、最初の頃の俺なら確実に引いたと思われるアンドレのこの台詞だが、今となっては目の前の相棒のペースがだいぶ掴めてきているんだ。だから逆にからかってやる余裕すらある。
しかしアンドレのやつ、オスカルって美人だろ?ときやがった。夜勤の時間帯に星空を眺めて・・・まぁ最初に話を振ったのは俺だが・・・オスカルって美人だろ?と。

つくづく変わった奴だと思う。
・・・おう、それが何だ?美人だと何だってんだ?


ペースを掴めたとは思ってもやはり予測した通りにはいかないアンドレの言動に苦笑しつつアランは身を乗り出した。

「おいアンドレ。寝言は寝てから言えよ。満天の星空の下で隊長への熱い想いを語られちまってもよ。聞かされる俺は一体どうすりゃいいんだ?」

苦笑いするアランを見てアンドレもはははっ!と笑う。

「アラン、オスカルはさ、子供の頃から本当に綺麗だったよ。初めて軍服を着た時も近衛連隊長に昇進した時も、いつも輝くようだった。俺が想像した以上なんだよ・・・・・。だから今もオスカルはきっと・・・・・・・」

急に言葉に詰まるアンドレを、アランは息を殺してじっと見つめていた。

「おかしいと思われるかもしれないけどさ、アラン、・・・俺は今ほどオスカルを近くに感じたことはないよ。目で見えることが全てじゃないし、言葉に出したことが真実だとは限らない。もっとさ、自分の感覚を信じていいんだって・・・分かった」

普段は無口な男だが、今夜のアンドレはなかなか面白かった。
話せばマイペースで味のある野郎だ。
・・・このアンドレの穏やかな物腰を眺めていて、出会って間もない頃の俺なら気取りやがってこの野郎と幾分胡散臭さを感じることはあっても感心するなんて事はまずなかったに違いない。だが、どうだろう。今となってはこれが育ちってもんか・・・と、素直に思う。
貴族の臭いもそう悪いもんじゃねえな・・・そう思っている自分に気が付いた時は流石にちょっと驚いた。が、まぁ、実際、悪いことばかりじゃねえ。目の前の男と、隊長も同じ臭いがする。特権階級であるのとは別に・・・“貴族”の臭いだ。
気に入らねえ言い方だが、俺たちにはねえこの鷹揚さと高潔さはやはり、貴族の持つ何某から漂ってくるものなのだろう。

アランはアンドレの様子を観察しながら過去と未来を繋ぐ思考の波の間をゆっくりと漂っていた。




「・・・お互いを映し出す鏡みたいなものだ。だから、今の自分の状態を思えばオスカルのことが分かる・・・」

真剣な口調で話すアンドレの表情がもどかしげに歪んでくるのを見てアランは我に返り身を起こす。

「・・・オスカル・・・」

そして苦しげに呟いたアンドレの横顔が何もかもを見通しているかのように感じ、アランは静かに溜め息をついた。

     


「・・・生きるも死ぬも一緒か?」

問いかけたアランが石のように硬直し、じっと動けずにいた。

暫くして振り向いたアンドレは普段通りの穏やかな表情で明るく笑い、固まった相棒の肩を威勢よくポンと叩く。そして、「オスカルほどの美人はな、そうはいないぜ、アラン」と悪戯っぽい口調で囁いた。


           

    



「お父さん?今日は随分早いお帰りね。急ぎのお仕事なのでしょう・・・?陽が射しているうちは帰れないっておっしゃっていたのに」

表通りも路地裏も喧騒に包まれすっかり落ち着きをなくしてしまったパリにあって此処の一角だけは奇跡的といっていい程に穏やかで安らかな空気の漂う場所であった。
予定よりも早く帰宅した画家のアルマンは出迎えた娘の笑顔にホッと安堵の表情を浮かべ沈んだ気持ちが少し軽くなるのを感じ息をついた。

「そのつもりだったんだが・・・だいぶお疲れのご様子で・・・・・今日はゆっくり休まれることをお勧めした」

椅子に腰掛けてもまだ画材を抱いたままでいる父の表情がいつになく深刻なのに気付いて娘のアンヌは心配になり腰を屈めて覗き込んだ。

「オスカル様は具合がお悪いの・・・?座っていられない程に・・・?お父様がこの仕事をお受けになった時から私も考えているのよ。・・・きっと、何か深いわけがあるのね・・・・」

ポッドを抱えたままじっと考え込む娘の様子を見てアルマンはようやく自分が画材をおろし忘れていることに気付いた。古びたケースを膝に置き大事そうに撫でると静かに溜め息を付いて目を閉じる。こうすると、今でも鮮明に思い出すことが出来る。20年前の黄金色の髪をした凛々しい近衛隊長。そして・・・それよりも更に昔・・・まだ子供でいらした頃のあどけないあの方のお姿を。

「お父さん・・・私、オスカル様にはとても感謝しているのよ。だって、お父さんが絵を描くのなんて何年ぶりかしら?あのアトリエだってずっと閉めたままで・・いま大事そうに抱えていらっしゃる画材だって長いこと埃をかぶっていたのよ?私、お父さんの絵を描いている姿が大好きだったから、今回お話を戴いて引き受けられた時・・・本当に嬉しかったの」

優しい笑顔で屈託なく話す娘が愛しくてアルマンは目を細めた。

「ねえ、オスカル様はどうしてお父さんを選ばれたのかしらね?理由をうかがったの?」

子供のように好奇心に満ちた娘の瞳と“あの日”の記憶が重なり目頭が熱くなる。アルマンは慌てて瞬きをした。

「・・・若い頃にシャルル・ペローの童話に挿絵を描いたことがあってね。あの方はそれをお読みになったらしい。随分とお気に入りの本だったようで・・・私の絵が強く印象に残ったとおっしゃって下さった。そして探し出して下さった・・・。今はこんな老いぼれで絵筆も、もう何年も握っておりませんとお答えしたが・・・それでもいいと」

「・・・そうだったの・・・。シャルル・ペローの童話って、私が子供の頃毎晩読んで貰っていたのときっと同じものね。なんだか不思議・・・・そんな高貴なお方と同じものに心を動かしていたなんて!」

アルマンは笑って娘の顔を見つめ返した。

「それだけじゃないよ。さすがにこれから先はあの方の記憶にはないだろうが・・・私は子供の頃のオスカル様に会っているんだ」

えっと目を丸くしてアンヌは身を乗り出した。

「ちょうど・・・その童話を喜んでお読みになっていた頃だろう。まだ10歳にもならない頃のことだが、間違いなくあの方だ・・・。
パリの天文台から依頼されて絵を描いたことがあってね。それがどんな風に飾られるのかが気になって何度か見に行ったことがあった。そこであの方と出逢った・・・。決して目立つ場所ではなかったが私の絵が飾られて、それを長いことじっと見つめる二人の少年がいた。あまり熱心に眺めてくれるので私は嬉しくなって話しかけたんだ。この絵、そんなにいいかい?って。そうしたら元気よく返事をしてくれたよ。『うん、何時間見ていても飽きない。すごくいい絵だと思う。大好きだよ』と・・・。
子供に絵を褒められるのは初めてだったが、本当に嬉しかった・・・」

昔話をする父を見るのは初めてではなかったがこれほど懐かしく幸せそうな様子でいる事はそうはないと思いアンヌは微笑んだ。

「お父さん、何を描いたの・・・?」

「ヘラクレスさ」

「ギリシャ神話の?」

「そう。大人になってからの勇猛果敢な姿は有名かもしれんが・・・私が描いたのは子供の頃の姿だ。ヘラクレスともう一人、イピクレスという子供がいて、二人は双子なんだ。ヘラクレスは神の子。イピクレスは人の子。大変な宿命のもとに生まれてあえて苦難の道をゆく・・・ヘラクレスの道だ。それを準えて銀河を描いた」

「・・・ヘラクレスが双子だったなんて初めて知ったわ」

「有名なのは片方だけということが世の中には多いものだ」

「その絵を見て『大好き』っておっしゃったのね。さっき二人の少年がいたって言ってたけど・・・」

「もう一人の少年は、まだあの方のそばにいる・・・。それで、ハッキリと分かった。あの時の少年たちだと」

「・・・そう・・・。そう言えば、見える時期が違うのかもしれないけど、ふたご座の二人も神と人間でいろいろと大変だったんじゃなかったかしら・・・?」

「普通よりも過酷な運命を背負わされる子だから・・・助け合えるように、最初から二人で・・・なのかもしれないよ」

アンヌは遠い目をして窓の外を眺める父にハッとした。そして軽く首を振ると背筋を伸ばし、「・・・・・よく分からないけど・・・オスカル様がお元気になられるよう・・・私、祈っています」と静かに告げポッドを手に立ち上がった。

「お茶、入れるわね」

明るく言う娘にアルマンは再び笑顔でこたえると絵筆を取り出し、じっと眺めた。


「今日は・・・陽があるうちに画材の手入れをしようか」


黄金色の絵の具をほんの少し指に取り優しく伸ばす。
するとそれは柔らかい夕暮れ時の陽に照らされて、ブロンドの髪のようにキラキラと眩く輝いた。

   

     


大蔵大臣ジャック・ネッケルが罷免されたとの情報が流れるや否やパリの街は轟音を上げて動き出した。
それまで塞き止められていた川の流れは怒りや混乱といった負の感情と新しい時代を渇望する熱い心によって濁流となって溢れ出し、広場や大通りにまで武器を手にした市民たちが飛び出し群がった。


1789年7月11日。
決起した民衆を取り締まることは事実上不可能となり軍隊は一旦後退を余儀なくされる。
弾圧に十分堪え得るだけの力を徐々に発揮しつつある民衆に対し、王家の軍隊は冷徹に戦闘態勢を整える。
パリの街は一触即発の危機に直面していた。



緊急出動に備え武装した状態での待機を命じられている王家の軍隊の中にあって、衛兵隊内の空気だけはどこか違っていた。
緊張感よりも、寂寥感と言った方がしっくりくるような乾いた風が兵舎の中を吹き抜ける。
目標の見えぬ、満たされぬ思いがいくつも集まった敷地内には諦めとは別の沈鬱としたムードが漂い辺りを包む。そうかと思えば熱い何かを求めてやまない高揚した意気が瞬間的に走っては燻り続ける兵士たちの心を静かに揺さぶるのだった。




「・・・え・・・これからアントワネット様に?」


司令官室で今後の任務に関して隊長の指示をきいていたアンドレは思わず聞き返した。


「うん。恐らく、最後の進言になるだろう」

「だが、今ベルサイユに行けば・・・」


不安に思うアンドレの心中を察したのかオスカルは彼の言葉を遮り、窓辺から振り向くと少しだけ小首をかしげ、困ったような仕草をしてみせた。

殆ど機能しなくなった右目に加え、窓から差し込む陽射しで逆光になり、アンドレはオスカルの表情を確認できなかった。だが危険を予測しての行動なのだろう。オスカルの雰囲気と口調からは静かな覚悟と緊張感が感じられ、困難な試みに対する彼女の複雑な思いが伝わった。


「危険人物としてマークされているからな。今、ベルサイユに行けば・・・身柄を拘束され、二度と戻って来れないかもしれない・・・そう思うか?」


オスカルの言葉が耳に届いた瞬間、ふいに雲間から強い光が差して彼女のシルエットが白く霞んだ。
アンドレは目を細めてなんとか彼女の姿をとらえようとするも、ぼやけた視界はたちまち光に包まれ瞼がオレンジ色に染まった。

オスカル・・・?

何故か言葉にならず息苦しさを感じた。頭の中に響いた自分の声があまりに頼りなく、思わず拳に力を込める。
何かを話すオスカルの声がどうしてこんなにも遠いのか・・・
鮮明なのは硬直する身体に汗が滲む感覚だけで、他のすべての事が不確かでもどかしかった。
激しい耳鳴りがする・・・反射した光の矢にこめかみを射抜かれたかのような鋭い痛みに襲われ、アンドレは顔をしかめた。
目の前の光景がぐにゃりと歪んで今にも平衡感覚を失いそうになりながら、頭蓋が割れそうな程の激しい頭痛と闘う・・・・・片目を失ってからというもの頻繁に襲い来るこの症状に精神力だけで堪えてきたアンドレは、この時も両目を閉じ、静かにゆっくりと深呼吸を繰り返した。



「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・? 
アンドレ、また、ここへ帰って来たら・・・その時、話したいことがある」


「・・・・・・・話したいこと・・・・・・?」


それは、金縛りが解けたようにすべての感覚が戻った瞬間だった。
目を開ける。すると霞んでいた視界が晴れオスカルに焦点が合う。
時間が正常に動き出し、呼吸が楽になったのを感じ、アンドレはふー・・・と息を吐いた。



窓辺からゆっくりと歩いて来るオスカルは真っ直ぐに俺を見つめ、少しだけ寂しそうな目をしながら微笑んでいる。
不謹慎を承知で、ああ・・・綺麗だな・・・・・・・・と思った。



「じゃ、後を頼むぞ」


部屋を出る瞬間、オスカルから漂った香りは昔と少しも変わらない・・・
俺の居るべき場所はここだ。
強い確信を得て自分の存在を今、誇りに思う。




「・・・必ず、戻って来るさ」

部屋に射し込む柔らかな黄金色の光の中でアンドレは呟いた。



           
     
    


近衛連隊から衛兵隊へ転属後、三部会の議場警備のあり方を巡って抗議を重ねたうえ重大な軍規違反を繰り返す事となったオスカル・フランソワ。
この一連の出来事で彼女は陸軍幹部から注視され警戒を受けるようになっていた。
ところが、本来ならば厳罰に処されるべき命令違反に対しても国王夫妻の恩情により一切処分なし。更に要注意人物として彼女を常に監視下に置くようにとの元帥命令は王妃マリー・アントワネットによって即日却下される事となる。

オスカルに対する王妃のこの温情は軍の内部に少なからず波紋を呼び、怒り狂った元帥はただちに軍法会議を招集した。しかし、何が何でもオスカルを断罪しようという幹部の思惑に反して、近衛連隊の突入を食い止めたのはむしろ賢明な判断であったと国王自らが発言。三部会会議場に武力介入した際に出たであろう犠牲者の数と、その後勃発したに違いない諸問題の大きさを改めて検討した末の“賢明”な判断であった。

かくして、それまでの軍における功績に免じてオスカルには改めて寛大な措置がとられる事となり、元帥は再び、凄まじい形相で歯軋りをする展開となったのである。


    


王妃マリー・アントワネットは話を切り出す際、私に若干気を使った様子であった。

「貴方ほど職務に忠実で完璧な人をわたくしは他に知りません。貴方は信頼に値する人です。それは今回オスカルの命令に従い軍を引いた事からも分かります。おかしいですね・・・貴方は本来の命令を無視したというのに。いえ・・・平民議員をどういった手段で排除しようと、その事の是非についてわたくしがあれこれ論じるつもりはありません。ただ・・・そう、オスカルを撃たなかった貴方に、わたくしはお礼を言いたいのです」

王妃は最初不安と安堵の入り混じった複雑な表情を浮かべ私を見つめていたが、直ぐに毅然とした態度に戻り「よく思いとどまってくれました」と微笑んだ。

この出来事に妙な違和感と戸惑いと、そして不思議な連帯感を覚えた私は改めて、自分の立場というものに思いを巡らせてみた。
何故、連隊長を撃たなかったのか?と問われれば・・・出来るわけがない。そんな事が出来るわけがない。と答えるしかない。
連隊長の命令の方が正しかったからなのか、それとも個人的な感情からなのか、・・・いや、明確な理由などは無くていいだろう。少なくとも、それは言葉で説明できる類の感情ではなかった。そして、同じ感情を目の前の王妃も抱いている。

私たちは何に翻弄されているのだろう・・・・・・・・

動揺する心は連隊長とて同じに違いない。
大きな波に呑まれそうになりながら、もがき生きるその姿は今にも壊れてしまいそうで・・・二人の女性が哀れでならない。


だが、そう思う私は独りよがりなのかもしれない。

王妃マリー・アントワネット・・・長年このお方に仕えているが最近驚くことがある。
混乱する情勢と次々と身に降りかかる不幸にも関わらず、この方は強くなっておられる。
国民から敵視され、貴族からさえあたかもブルボン王朝を傾けた張本人のように陰口を叩かれる日々を過ごしながら、この方は確実に強くなっておられるのだ。それは時に権力の暴走にも通じるような愚かで痛々しいものではあった。が、しかし、私は以前よりもこのお方に対して忠誠心を感じている。運命と言うものがあるならば、たとえ破滅する道だとしても私はこの方を最後までお守りする立場でいるであろう。

・・・私の心にそうせよと命じるもの・・・・・
オスカル・フランソワを想う自分自身が、そうせよと強く、強く己に命じていた。


愚かなのは誰だ?鏡を見て苦笑する。
だが、自分の感情に流され軍人としての本分を忘れたわけではない。

オスカル・フランソワに対する私の想いとは何であろう・・・?
同じ問いを何度自分の中で反芻してきたことだろう・・・常識や理性で割り切れない感情を恋心と呼ぶならば、私の中にあるそれは少し種類が異なるもののような気がしている。
いや・・・分からない・・・・・・。
確かなのは私の抱くこの想いの常に上を、あの人が行く・・・という事だ。
常識や理性では量れない鮮やかな行動力で様々な局面を切り抜ける彼女を見て、私は自分の役割を思い知る。
彼女の大胆さは私を鼓舞し、彼女の謙虚さは私を落ち着かせ、見つめる時間はいつしか・・・
そう、幸福で満たされていた。


    


もうじき太陽が沈む。
真っ赤に染まった雲が大空を流れ暗闇がゆっくりとベルサイユを包んでいく。

瞬きもせず真っ直ぐに私を見つめる連隊長の瞳が美しい。
過酷な任務で痩せられたのか、いちだんとか細い肩が風に吹かれ時折小さく震えて見える。


「私を、自由にさせておいていいのか?」


連隊長の声が胸に響いた途端、全身が熱くなり心が奮えるのを感じた。


アントワネット様とのお目通りは恐らく、“訣別”という形で終わったのだろう。

連隊長の眼差しは共に命をかけて王室をお守りしたあの頃と少しも変わらない・・・
だが、全身から立ち上る超然とした雰囲気からはもう貴女がこちら側の人間でないことを如実に感じ取ることが出来た。
それが何を意味するのか・・・・・・分かっていればこそ、猛然と貴女を抱き締め束縛したい衝動に駆られるのが、恐らくは恋心というものなのだろう。
だが、いま私の中に渦巻く感情はそれだけではない。貴女を失いたくない一方で、誰にも手の届かぬ場所に飛翔する姿を見てみたい。自由という何よりも尊いものを手にした貴女がどのように生きるのか、見てみたい。
・・・そう思う。
そして、その為に出来ることがもしあるとするならば、私はたとえこの瞬間、命を絶たれたとしても悔いはない。




「王后陛下は私がお守り致します」

互いに身じろぎもせず視線を交わした間に伝わった想いはどれ程のものであったか。
私とオスカル・フランソワの間には特別な繋がりがあり、だからこそ私だけが彼女に誓うことが出来る、これは最大級の“約束事”である。

     


「ジェローデル、私は以前『もし人は生まれ変われるのだとしたら、自分はどうなりたいのか?』と、考えていた・・・」


静かに語り出した連隊長は瞳を閉じ、風の吹く方角に向かってゆっくりと深呼吸をした。


「・・・どうなりたいのですか?」

連隊長は私の質問に少し戸惑った様子で、しばらく黙ったまま遠くを見つめていた。
そして静かに振り返り、小さく咳払いをして何かを呟いた。まるで独り言のように微かな声だったので私に聞こえるはずもない。だが、不思議なことに・・・風の音にかき消されて聞こえなかった言葉は耳にではなく、心に届いたような気がした。


「ジェローデル、貴方ならどうだ?」

ふいに訊かれた事だったが答えはとうに決まっていた。

「・・・生まれ変わった後のことなど、考えたくもありません」


一瞬訝しげな顔をした連隊長は額にかかる髪を払い再び穏やかな表情に戻ると、じっと私を見つめた。


「貴女と共に過ごした・・・この人生こそが全てです」


風のせいか連隊長の瞳がうっすらと潤むのが分かり、切なくて溜まらない・・・。


「それでは答えになりませんか?・・・では、たとえ生まれ変わったとしても、私は今と全く同じ人生を選ぶでしょう」



いつの間にか空の色は朱色から紫へと変わり星の明かりがひとつふたつキラキラと輝き出した。

どのくらい無言で向き合っていたのだろう。一瞬であったのかもしれないが私には永遠の価値がある、愛しい・・・愛しい時間であった。


心なしか風が落ち着き、やがて無数の星が空に現れる。
連隊長の唇が微かに動くのを見て私は耳を澄ました。

「・・・・・同じだ・・・私も。生まれ変わっても、きっとこの人生を選ぶだろう」



薄紫の光に照らされて微笑む連隊長があまりに美しくて、私は言葉を発することが出来なかった。
私が全力で守りたいものはただひとつ、貴女の自由であるべき未来だ。体中で叫びたい衝動に駆られるも、声にならない。

勇気を出し一歩、また一歩と連隊長に近付く。

その間じっと動かずにいたオスカルの頬に触れた瞬間、込み上げる感情に嗚咽しそうな自分がいた。彼女の柔らかな肌の感触が指に伝わり20年分の想いが溢れ出す。

気が狂いそうな程に貴女が愛しい。
私は目を瞑り、歯を食いしばるより他なかった・・・。



ふと、掌に熱いものを感じた。
流れ落ちるオスカルの涙が私の指を濡らす・・・・・

このままでは自分を抑えられなくなりそうで、私は静かに彼女を手放した。



「どうか・・・お体をお大事に」

当たり前の台詞を言うのが精一杯だった。


素早く涙を拭い、何事もなかったかのように私に背を向け、彼女は歩き出す。
決して振り向くことのなかった貴女の背中を見つめ、遠く過ぎ去った青春の日々を想う・・・・・・。
幾度となく眺めた光景がどうしようもなく恋しく、溜まらない。

      


最後に、私にとって小さな奇跡が起きた。

静かに立ち止まり、初めて連隊長が振り返る・・・。
そして彼女はいつもの凛々しい声で私に呼びかけた。




「ジェローデル、貴方に出逢えて良かった」




それから一切振り向くことなく、足早に去って行った連隊長。

天上で瞬く星のように・・・一瞬の煌きだけ残し、彼女は去った。


もう二度と、私には手の届かぬ存在である。

         
       
              


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