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アニばらワイド劇場 |
ムードン城のこじんまりとした庭園は、周辺の森林から届く涼やかな風と爽やかな緑の薫りに包まれていた。穏やかに優しく流れる時間の中、小鳥たちの無邪気なさえずり声が響く。
「・・・あんなに嬉しそうに笑うジョゼフを見たのは久しぶりです。ありがとう、オスカル・・・あの子にとって今日あなたと過ごした時間がどれほど幸せなものであったか・・・。本当に・・・・・ありがとう」
王妃マリー・アントワネットはそう言って静かに微笑むとオスカルから遠く霞む森の先に視線を移し、小さく溜息をついた。
「…わたくしのせいなのです・・・今のあの子の苦しみは。きっと、今までわたくしがして来たことを神様が怒っていらっしゃるのね・・・ならば、わたくしにだけ罰を与えて下さればいいものを・・・・神様とは残酷なことをなさるものですね・・・」
日に日に悪化する愛し子の病状を前に覚悟を決めたかに見えるマリー・アントワネットは、絶望というよりは既に達観の表情を浮かべていた。
「・・・アントワネット様・・・」
少しでも慰めをと思索するも言葉に詰まるオスカル。マリー・アントワネットはそんな彼女に視線を戻し再び優しく微笑んだ。
「あぁオスカル、いいのです。・・・ごめんなさいね・・・あなたはいつだってジョゼフを笑顔にして下さるというのに・・・わたくしがこんな話をしてあなたに辛いお顔をさせているのを知ったら、きっとあの子にも怒られてしまうわ」
うつむいてなおも思案顔でいるオスカルにマリー・アントワネットは笑いかけると、少しだけ悪戯っぽくトーンを変えた声で問い掛けた。
「ねぇオスカル、一体あの子は今日、あなたに何の話をしたのかしら?」
顔を上げ狼狽の色をみせるオスカルを見つめると、マリー・アントワネットは左の人差し指を唇に当て、内緒話でもするかのようにゆっくりと囁いた。
「当ててみましょうか?」
懐かしい仕草と楽し気ですらある王妃の姿にオスカルは久しぶりに少女の頃の面影を見る。
途端に、温かく不思議な感慨に包まれた。
ふいに悲しみとは別の感情で涙が込み上げ、オスカルは瞬きを繰り返す。
その時、庭園を吹き渡る風が小さなつむじ風となって噴水を巻き上げ、王妃が大袈裟な悲鳴をあげた。
水飛沫に濡れた顔を互いに見合わせ、どちらからともなく吹き出した。
緊張が解けたように、同じタイミングでマリー・アントワネットとオスカルが深呼吸をすると、何処からやって来たものか可愛らしい子リスが2匹、二人の周りをクルクルと走り回っていた。
「もう少し大きくなられたら、今度はもっと・・・田園地帯まで遠乗りに出掛けましょうと・・・そう殿下とお約束致しました」
「ふふふ・・・オスカル、あの子は・・・ちゃんと次期国王の自覚があるのですよ・・・」
細い指で額の水飛沫を拭いつつ、いつの間にか潤んだ瞳の王妃マリー・アントワネットは、静かな口調でオスカルに語り出した。


トリアノンで過ごす間 あの子が話す事と言ったら、もぅオスカル・・・あなたのことばかり。誰に似たのかしらね?信じられないくらいにませたところがあって・・・
まだ元気だった頃、ジョゼフの誕生日にあなたやジェローデルが来て下さった事があったでしょう?近衛の閲兵式の様子を見せて下さった時のこと、覚えているかしら?あの子の喜びようといったら・・・っ!
わたくし、てっきり将来は近衛兵になるんだ!って・・・そう言い出すのかと思いましたのよ。でも、そうじゃなかった。あの子ったらメルシー伯のところへ行って『大きくなって結婚するひとは僕が自分で決められるのですか?』って・・・わたくしの答えは当てにならないと思ったのかしらね?おかしいでしょう、メルシー伯に訊くなんて!
メルシー伯も突然ジョゼフにそんなことを訊かれてビックリしたでしょうね。それで、彼ったら何故そのようなことを申されるのですか?って真面目な顔で訊き返して・・・
ふふふ・・・ジョゼフがなんて答えたのかは・・・もぅ、分かるでしょう・・・?
「僕、オスカルを王妃様にしてあげたいんだ!」
目を輝かせながらそう叫ぶ王太子に仰天したメルシー伯爵は咄嗟に周囲の様子を伺うも身を屈め、質問を繰り返した。
「あの、ジョゼフ殿下・・・どなたを王妃様にと・・・?」
「オスカル!」
「殿下・・・それはちょっと・・・いや、かなり難しいかと存じますぞ。オスカル殿は母君と同じご年齢でありますゆえ・・・殿下とは、釣り合わないのではないかと・・・」
「じゃあ、僕が急いで大人になればいいんだね?僕、頑張るよ!たくさん運動して、本も読んで、お勉強だってするよ!」
「いや・・・その・・・オスカル殿は既に近衛の隊長をされているわけで・・・・・お忙しいと思いますぞ!そのうえ王妃様となると・・・やはり、難しいのではないかと・・・・」
「大丈夫だよ!そのぶん僕がうんと頑張ればいいのでしょう?オスカルに大変な思いはさせないよ」
幼児らしい頑なさでオスカルとの結婚を主張する王太子にうろたえ気味のメルシー伯は言葉を濁しながら続けた。
「あの、殿下・・・ご結婚となりますと、その・・・相手のお気持ちが大事になって参りますので・・・オスカル殿がなんとおっしゃるかー・・・」
「そうだね・・・今はまだこんなに僕は小さいもの・・・・・オスカルは困ってしまうかもしれないね・・・。メルシー!このことはまだ誰にも言っちゃダメだよ。早く大きくなって・・・守ってあげられるくらいに大きくなって・・・オスカルが安心してくれたら、お願いするんだ。僕と結婚してくださいって、僕がオスカルに言うからね!」
「・・・おー・・・殿下、頼もしいですなぁ・・・このメルシー、感服致しましたぞ!さすがは将来のルイ17陛下でいらっしゃる!それに何と申しましょうか・・・目の付けどころが違いますなぁ。応援致しますぞ。ええ、メルシーは殿下を応援致しますとも!」


「全員配置につきました」
ベルサイユ宮殿―――
翌日に控えた三部会の開会式に先立ち、サンルイ教会ですべての議員を集めミサがあげられた。
教会へ向かう議員の行列を守るのはスイス近衛連隊、そしてフランス衛兵隊―――
オスカルは宮殿の窓を見渡しながら呟いた。
「・・・アンドレ、私は王妃になりそこなった・・・」


「は?どういうことでしょうか・・・?」
ダグー大佐は言葉の意図をはかりかねていた。
三部会の開会が決定してからというもの特別訓練や長時間に渡る議場警備の任務が追加され衛兵隊は連日休み無しの状態が続いている。
交互に訪れる炎天と雨天の中、日がな一日議場に立ち尽くさねばならない警備の仕事は時に死と隣り合わせの市内巡回をも上回る過酷さで、最近では過労で倒れる兵士も現れた。
そういう状況なので、それぞれの健康状態を気に掛けるというところまでは理解できる。
いや、もっとも、これまでの経験で言えば隊員の一人、二人欠けたところで気付きもしない上官というのが普通なので、ジャルジェ准将の対応には驚くべき点が多々あるのだが、それについては慣れて来た私がいる。
慣れて来て・・・・・という表現は適切ではないのかもしれない。
軍隊の統率とは本来こうあるべきだと、長年待ち望んだ理想の形が徐々に出来上がってゆく様を見ているうち、それを実現しているのが女性なのだという事実に感動を覚え、そしてすべての言動に納得せざるを得なくなっているのだ。
副官とは名ばかりで、これまでの自分は単なる傍観者でしかなかった。
ある日突然、王后陛下の命によりやって来たあの時の“少女”―――
彼女はこれまで出会ったことのないタイプの軍人であり隊長だったが、不思議と親近感を覚える部分があった。不謹慎を覚悟で言うならば、彼女は妻に似ていた。
私の愛する妻は昨年、37歳という短い生涯を終え 天国へ旅立った。
胸を患い、あっという間にやって来た別れの時を、私は傍にいてやることさえ出来ずに・・・この兵舎の窓から見送った。
ちょうどその頃、やって来たのが・・・いま目の前にいる隊長である。

「ダグー大佐、アンドレ・グランディエが入隊した際、身体検査のような事をしたと思うのだが・・・その時の記録を見せてくれないか?」
「は?どういうことでしょうか・・・?」
隊長は議場警備の際 兵士一人ひとりの顔つきや姿勢等を入念に見て周る。それは勿論、三部会という歴史的議会の警備担当として服装に乱れはないか、無駄な動きはないかをチェックする為の行動であるが、もう一つ、彼女は部下の体調の変化に対し何よりも気を配っていた。
日照具合をみて兵士の配置場所を変え、日陰に給水所を設けることで脱水症状と体力消耗を抑え、それでも明らかに顔色の悪い者は速やかに控えの者と交替させた。
割に合わない重労働に逃げ出す隊員が後を絶たず、慢性的な人員不足に陥っていた以前のフランス衛兵隊を思えば、我がB中隊のここ1年の安定ぶりには目を見張るものがあった。
大切なのは有事の際、職権により部下を強引に命令に従わせることではない。
組織を管理するため自ら動き、それによって自然と人心を掌握してゆく様子は隊長の名に相応しく、誠に彼女は有能な人物だった。
私が見て来た中で最も理想的な形でリーダーシップを発揮しているジャルジェ准将。
だが・・・そこには我々との決定的な違いが一つあった。
「アンドレ・グランディエに何か問題でも?」
隊長と同時期、彼が身元を偽ってフランス衛兵隊に入隊したという事実は以前、近衛連隊のジェローデル大佐と接見した時に明らかになっていた。しかし、今になって身体検査の記録を見せろとは一体どういうわけか?
入隊直後からいろいろと目立つ兵士ではあったが取り立てて言う程の不祥事があったわけでもなく、それどころか我が隊では際立って品行方正な・・・アンドレ・グランディエは貴重とも言える人材であった。
「彼の・・・特に視力についてだが、知っておきたい事がある」
「・・・見た通り左目は失明していると思われますが・・・右目に関しては・・・」
「・・・・・右目に関しては・・・・・なんだ?」
知りたいと要求しながら、返答を恐れるかのような微妙なニュアンスだった。
注意深く隊長の様子を窺う。
「右目に関しては、特に問題なしでしょう。でないと審査に通りませんので」
「・・・ならば記録を見ても無駄だな・・・」
微かに溜息らしきものをつくと隊長は訝し気な表情で私を見つめた。
次に言うであろうことはだいたい察しがついたので先にお答えする。
「近衛連隊のようなエリート揃いの部隊ではありませんので、身体検査などあってないようなものです。ただ、誰にでも入隊を許可するわけではありません。実はアンドレ・グランディエを強力に推した隊員がおりまして、その者の我が隊における功績から・・・多少の問題には目を瞑り、特別許可を出しました」
片目と告げただけでジェローデル大佐の口からすんなりアンドレ・グランディエという名前が出てきた時点で彼が近衛連隊と繋がりのある人物であることは明白であった。そのうえ同時期に入隊ともなれば彼はジェローデル大佐よりもジャルジェ准将とより深い繋がりのある人物だと思った方がいいだろう。そしてそれが憶測でないことは隊長の醸し出す雰囲気からも伝わった。
「彼の左目の怪我は私に責任があってのことだ・・・」
思いがけない一言だった。
普段あまり感情を表に出すことがない人であったが、この瞬間の隊長は明らかに動揺していた。
一兵卒として隊長に追従する姿からは他の隊員との差を目立って見出すことは出来なかったが、アンドレ・グランディエはジャルジェ准将と相当に近しい人物であるらしい。
「5歳の時から共に過ごして来た。アンドレは 私の従者だ・・・」
私が抱いた疑問に簡潔に答えた隊長は、すぐに私から視線を反らし、じっと窓の外を見つめた。
それきり会話は途絶えたが・・・実に呼び慣れた調子で響いた「アンドレ」の一言が、彼とジャルジェ准将の関係性を如実に物語っていた。


「何故 急に・・・そのような話を私になさろうと思われたのですか・・・?」
「mon chéri ・・・」
「は?」
「mon chéri と呼ばれていた・・・陸軍士官学校で」
いよいよ私は仰天してしまった。
しかし、このタイミングで、一体どうしたことだろう・・・
20年近く前のことを・・・だが少女は覚えていた―――
そして私にも、思わず口をついて出て来た言葉があった。
「・・・・・ma princesse」

「懐かしいな・・・」
暫し時間を忘れて見入ってしまう程に―――
無邪気に微笑んだ隊長には、あの頃の少女の姿がくっきりと重なった。
私は確かにmon chéri と呼ばれていた。
普段一切笑うことのなかった私のもとに面会にやって来た妻、そのやり取りをたまたま見掛けた友人が茶化して付けたあだ名だった。
私には勿体ないほどに美しく聡明だった妻は言葉に尽くせない幸せを私に与えてくれた。
だが、唯一いけないところがあった。恥ずかしいので、せめて人前ではそう呼ぶのをやめてくれと何度も頼んだのに・・・彼女は頑なに、私のことをmon chéri と呼び続けた。そして面白がって同じ呼び方をした友人の真似をして、気が付けば学校中の者が私を見ては面白おかしく「mon chéri ―愛しいひと―」 と呟くようになっていた・・・。
「mon chéri ・・・すまん・・・いつかまた、呼び掛けてみようと思っていた」
恥ずかしさの入り混じったような、なんとも複雑な笑顔で隊長は私を見つめる。
突然の出来事に唖然としながらも、不思議なくらいにma princesse に妻の面影が重なり、私はふと意識が遠のくのを感じた・・・
成績優秀とは別の意味合いで圧倒的存在感を誇っていたオスカル・フランソワは、憧憬と羨望と嫌がらせの意味が込められた「ma princesse ―お姫さま―」というあだ名を嫌い、取っ組み合いの喧嘩を引き起こす事もしばしばだったが・・・
ma princesse――― そう呼び掛けたくなる可憐さが、どんな姿をしていても 目の前の女性には確かに在った。
あの日以来、隊長の言動を注意深く観察している。
視力を失くした左目を気遣ってのことだろう。
アンドレ・グランディエに話しかける時は極力右側から、彼の視界を意識して指示を出しているのが分かる。
休みなく一カ月以上、荒れる三部会を暗示しているのか冷たい雨が続いている。
隊長は、今日も兵士一人ひとりに気を配りながら、濡れた石畳の上を行く。
だが・・・足を止めて、振り返り見つめる先には――― いつも彼がいる。
アンドレ・グランディエに注がれた隊長の視線には、不躾ながら見覚えがあった。
妻と、同じ目をしていた。
誰よりも私が愛し、・・・誰よりも私を愛してくれた妻と、隊長は同じ目をしていた。
フランス中を探してみてもこれ程 有能な指導者を探し出すのは難しいだろう。
だが、我々との決定的な違いが そこにはあった。
オスカル・フランソワは女性である。
男よりも遥かに脆く儚いその身体は・・・今、病魔に侵されつつあった―――

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