陽が落ち、闇に包まれると、森は静寂に代わって自然の音色に包まれた。
賑やかな夏の虫たちの声に混じって川のせせらぎが聞こえる。
月の薄明りと深い緑の匂いの中で次第に此処がどこか遠く、異世界であるかのような感覚にとらわれ出したのは、きっと閉じ込められ、行き場を失くしたせいだからだろう。
一触即発なパリの空気に人々はまんじりともせず、夜通し叫び声を上げるのだろうか・・・?
四方を武装した市民に塞がれた二人は怒りのシュプレヒコールから逃れるように森の奥へ奥へと進み、改めて互いの姿を確かめ合った。
今宵は満月であったか・・・・・?
ぽっかりと夜空に浮かぶ月影から届いた青白い光が川面を照らし、時折砕けてはキラキラと輝いている。
ふと見ると、彷徨い歩くふたりの足元からふわりと小さな光がひとつふたつ舞い上がり、ゆっくりと頭上を浮遊する。
ゆらゆらと心許ない微かな光を静かに目で追うアンドレの仕草に、オスカルは胸を撫で下ろし、小さく安堵の溜息をついた。
「大丈夫か・・・アンドレ、頭の傷は・・・?」
「ああ、大丈夫だ。どうということはない」
・・・何度同じ質問をしてみても、彼の答えは同じだった。私を安心させようと、「大丈夫」ばかりを繰り返す・・・・・
大丈夫なことがあるものか。
核心を突かぬよう精一杯気を遣った私の言動は、ただ不自然さを生むだけで、先ほどから少しも状況は変わらない。
・・・大丈夫なことがあるものか!
ふいに湧き上がった感情に任せて、アンドレに問い掛ける。
「よくも今まで私を騙し続けていたな」
急にアンドレが立ち止まった。
振り返って、彼を見つめる。その顔に、もう驚きの表情はなかった。
「右目のことだ。ラソンヌ先生に聞いた。・・・もう、殆ど見えないんだろう・・・?」
沈黙するアンドレの口元が、何故だかほんの少しだけ・・・微笑んだように見えた。

ようやく、彼女は言葉に出した。
これまで長い時間、ずっと気にしていたであろう事をようやく、オスカルは言葉に出した。
なんだかホッとして、俺は焦りや緊張感から一気に解放されたような気分になった。
負傷した俺を気遣うオスカル。彼女が振り返り、諭すような口調で静かに話し始める。
「やはり、もう一度屋敷へ戻ろう。明日のパリへの出動におまえを連れて行くわけにはいかない。おまえをばあやに返し、宿舎へは私だけ戻る」
一歩二歩とオスカルが近づく。まっすぐに俺の目を見つめていた。
「・・・そうしてくれ アンドレ。おまえに万が一のことがあってはいけない・・・」
深い碧色の夜風に乗って、切ない胸の鼓動が伝わる。
月明かりの中、瞬きもせずじっと俺の目を見つめ、俺の名を呼ぶオスカル・・・
俺はただ・・・彼女のことを、美しいと思った。

息を殺して彼の言葉を待つ間、期待と不安と・・・そして、どうしようもない贖罪の念が、私の体の中を駆け巡った。
彼が、もし応えてくれたのなら・・・・・私は、・・・私には、言わねばならないことがある・・・・・
「俺は行くよ オスカル。今までもそうだったが、これからもそうだ。俺はいつも おまえと共にある」
たったひとつ残されたアンドレの瞳が・・・私を見つめる。
遥か昔から当たり前のように降り注がれてきたその眼差しに、途方もないほど・・・胸が騒いだ。
アンドレは・・・「今更そんな話を」と、あきれるだろうか・・・?
私が今・・・こんな話をしたら・・・・・おまえは、あきれてしまうのだろうか・・・?
だが、途切れずにもし これを訊けたなら、きっと・・・ただそれだけで・・・
私にとっては小さな、小さな奇跡――――
不甲斐ない私は最後の勇気をふり絞り、目の前のアンドレを見つめ返した。

「アンドレ・・・私はかつて フェルゼンを愛した・・・おまえに愛されているのを知りながら、フェルゼンを愛した・・・・・そんな私でもなお・・・愛してくれるのか・・・?」
罪の意識は言葉にしたことで心なしか軽くなったような気がした。
やっと伝えることができたのだと、私の中に微かな満足感が生まれる。そして・・・・
・・・小さな奇跡は起きる・・・。
アンドレ・・・・・・・あなたに愛されたい・・・・・!!
いつしかさんざめくような私の心臓は、声の限りにその一言を、アンドレに向かい叫んでいた。

「すべてを・・・・・・・命ある限り」
オスカルの頬を大粒の涙が伝い落ちた。
柔らかな月明かりの中、浮遊する小さな光たちはゆるやかな波のように足元を伸び上がり、オスカルの瞳を眩しく照らし出す。
気がつくと無数の光の粒は水しぶきのように優しく二人に降りかかり、暗闇の中、そこだけが仄明るい不思議な空間を作り出していた。
「アンドレ・・・」
一歩づつ、静かにアンドレに近づくと、オスカルは崩れるようにその胸に全身を預けて瞳を閉じた。
「愛しています・・・私も・・・・心から」
はじめて口にする愛の言葉に身体中が熱くなるのを感じたオスカルは、どうしようもない程のもどかしさに溢れる涙を堪えることが出来なかった。
次から次へと込み上げるアンドレへの想いは、言葉で伝えることのできる次元をとうに超え、オスカルを激しく震わせた。
あぁ・・・アンドレ!愛してる・・・・・愛してる・・・・・・!!
止めどなく頬を伝う涙の感覚に、押し殺していた積日の叫び声が重なる・・・・・
微かに意識が遠のきかけたところで、オスカルはその声を聞いた。
「分かっていたよ・・・そんなことは」
ビクンッと心臓が跳ね上がる。
・・・心で必死に叫んだ愛の言葉に応えるよう、優しく・・・アンドレは私を抱き寄せた・・・・・・

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