完成したばかりの肖像画の前でオスカルは思案にくれていた。
眼前に現れた軍神は見慣れた部屋で異彩を放ち、見る者を静かな高揚感で包み込む。更に、漂う真新しい絵具の香りは適度に刺激的で心地よく、視覚以外でもその肖像画は周囲に十分な存在感を発揮しているようだった。
気が付くと、窓から差し込む光はすっかり夕刻のそれとなり、ガラスに反射した光はオレンジ色の光線となって“私”を照らしている。
人々が去り、独りになった部屋でぼんやりと軍神の姿をした“私”を眺めていると、光線はやがてゆらゆらと揺れ広がって、薄いベールのようにキャンバスを覆った。
ふと意識が遠のいて、瞼を閉じる。
倒れるように椅子に腰を下ろし、ゆっくり深呼吸を繰り返す。額にうっすらと汗が滲むのを感じて、にわかに恐怖心が込み上げる。
胸の鼓動が速い・・・・・・どくっどくっと不自然なリズムで脈打つ心臓。今にも悲鳴を上げて飛び出して来そうな感覚に指先が震えるのが分かる。
私は唇を噛んだ。そして固く目を閉じ、激しい発作に襲われ咳き込む悪夢と闘う。
はぁ・・はぁ・・はぁ・・はぁ・・
近付いたり遠くなったり・・・どこかまだ他人事のようだった。椅子にもたれて天井を見つめていると、ままならない息づかいがどうしようもない焦燥感と重なって、じわりと涙が滲む・・・その感覚で、我が身のことなのだと思い知る。
どのくらいそうしていただろう・・・・?
発作は起こらなかった。
恐る恐る姿勢を正し、呼吸を整え胸を撫で下ろすと静かに目を開く。
先程の薄い光のベールはしばらくの間、煙のようにもやもやと視界を漂い、やがて消えた。
額に滲んだ汗を指先で拭いながら私は目を見開き、鮮明になった“私”を見つめる。
軍神マルスの装束で誇らしげに微笑む自分は他人のようで、やはり・・・それは自分であった。
何もない、白い画布に刻々と描き出される自分を感じながら、考えて来たことがある。
そう長くはもたない、恐らくは半年・・・いや数ヶ月・・・消えかけたこの命が、最期に望むことは何であろう?
これまでも、生命の危機に瀕することはあった。いま選択した道が破滅へ通じるものだと自覚した上で、何度も、私は人生の岐路を通り過ぎて来た。もたらされる結果に、決して悔やみなどしない。
そう・・・誰に何と言われようとも分岐点で私を突き動かしたもの、確かにそれは信念と呼べるものであった。
だがしかし、今、残酷なほど明確に突きつけられた命の期限は私に、微かな困惑と・・・後悔にも似た感情を思い出させている。
病んでどこか弱気になった自分の心が歯痒い。
どうすれば最期に納得できるのか、その答えはとうに分かっているはずなのに・・・。
だが、残り僅かとなったこの身で、これ以上、後に誰かの重荷となるような振る舞いはすべきではないのかもしれない。
そう思う一方で、どうしても押え切れない感情が叫んでいる。
『私を・・・忘れないでくれ。ここに、オスカル・フランソワという人間が居たことを・・・どうか忘れないでくれ・・・・・』
なんと単純で、しかし切実な私の願いは、目の前の肖像画の完成を見届けたことで一応の安堵感を得ることが出来た。
・・・・一応の、安堵感である・・・。
「軍神マルスとはな・・・・・ずいぶんと晴れがましい姿だが、・・・おまえは、それで満足なのか・・・?」
小さく呟いてクスッと笑う。すると絵の中の“私”も気恥ずかしいとみえて、同じようにクスッと笑い返したようだった。
ゆっくり椅子から立ち上がり肖像画にそっと手を触れてみる。
不思議と温もりを感じる滑らかな感触と絵具の懐かしい香りが伝わり、思わず数回、深呼吸をした。
そして、何かもの言いたげに私を見下ろす“私”に向かい、問い掛ける。
「アンドレに・・・、見て欲しかっただろう・・・・・?」
いつの間にか溢れ出た大粒の涙がぽとりと一滴落ちて、床を濡らした。
「・・・軍神などではない、本当の私を・・・・・アンドレに・・・見て欲しかっただろう・・・?」


「オスカル、ワインを持って来たよ!」
ふいに扉が開いてアンドレが笑いながらやって来た。
「秘蔵のやつ。いつ開けるのかと思ってさ。実は前から様子をうかがってたんだ。今夜・・・いいだろ?肖像画に乾杯しよう!」
屈託のない笑顔でアンドレはワインのボトルを高々と掲げた。
・・・・・私の気持ちも知らないで・・・・・。
思わず私は心の中で呟いた。
こんなにも感傷的でいる自分とは裏腹に何故か楽しげな態度でいるアンドレ。
不思議な男だと・・・今日一日だけで何度思わされたことだろう?
いや・・・いつだって・・・そうだった。いつだって・・・そうだったではないか・・・。
彼の言動ひとつで動き出せたことがあった。
幾度も幾度も、数限りなく・・・その明るさに、気が付けば私は救われて来た。
二、三度瞬きをし、素早く涙を拭うとオスカルは振り向き、精一杯の笑顔で答えた。
「よし!この際だ。二人で飲みきってやろう。アンドレ、一本と言わず、いい酒は全部持って来てくれ!」


「・・・美しい・・・たとえようもなく!輝くおまえの笑顔がこの世の光をすべてその身に集めているかのようだ・・・」
肖像画を前に乾杯をし、何杯目かのグラスを空にした後・・・アンドレは静かに語り出した。
夕暮れの紅い雲が部屋の空気を暖色に染める。子供の頃のように・・・穏やかに私たちの時間は流れた。
ところが、先程まで賑やかに笑い合っていた私たちの間に沈黙が訪れる。
肖像画の前でじっと佇む彼の背中を見つめる私は、溜まらなく・・・溜まらなく、彼にすがり付きたい!・・・そんな自分勝手な衝動と、それは密かに闘っている時のことだった・・・。
「特に・・・おまえのブロンドの髪におかれた月桂樹の冠が鮮やかだ!」
咄嗟に考える。
・・・ラソンヌ先生に、もし知らされていなかったら・・・今の彼の言葉に私はどう反応しただろう・・・?
知っていても、・・・衝撃だった。
だが、怖くて体が震える感覚を、絶望感に苛まれる苦しみを、夜通し味わった昨夜の経験は・・・今、この瞬間、ほんの少し私を強くしてくれるに違いない。
・・・アンドレ・・・無理をしなくてもよい・・・おまえの目が見えないのは分かっているんだ・・・。その絵の私は、月桂樹の冠などかぶってはいない・・・。
彼に悟られてはならない。彼に・・・・・・・それなのに私は、こうして涙を流し、嗚咽しそうな自分を抑えるので精一杯だ・・・
気がつけなかった私、振り返らなかった私、無力感にこうして・・・涙を流すばかりの私・・・・・・・
「白い薔薇がひとつ、ふたつ・・・いや、野原一面に・・・!・・・何処の森だろう・・・?・・・そうか、いつか行ったアラスの泉の辺りだ。そうだよな?オスカル」
アラス・・・?
思いがけない一言に懐かしさが込み上げる。
アンドレ・・・?何を見ている?何を感じている?
そうだ・・・・・目で見えるものなら、私が見ればよい。
大切なのは今まだこうして、二人で居られること。
おまえがこんなにも優しく・・・私を想ってくれていることだ・・・。
「・・・そうだよ、アンドレ。画家のアルマンはわざわざアラスまで行ってスケッチをして来たと言っていた」
「素晴らしい絵だ。おまえの優しさ、気高さ、そして喜びまでもが全て表現されている。忘れない、俺は・・・この絵に描かれたおまえの美しさを。決して忘れない・・・」
彼の言葉が、仕草が、愛しい。
熱く、強く、揺るぎない感情に包まれ、私はまたも気付かされる。
・・・このうえなく、幸福な人生を歩んで来たのだと・・・。
アンドレ、おまえがいて・・・・・本当に私は、幸せだった。

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