「天狼の哭く夜」について




「油小路の変」と呼ばれる死闘が繰り広げられたのは、1867年11月18日だったそうです。
旧暦ですから、今で言えば12月中旬くらいになるのでしょうけれど。

久々に、新選組のお話を書いてみたいなあと思い、ふと頭に浮かんだのが、油小路の変のことでした。
確か、寒い時期の出来事だったと記憶していたせいでしょうか。
新選組の事件の中でも、いちおう元の仲間だった者たちを抹殺したと言う点では、芹沢鴨一派の暗殺と並んで、陰惨なイメージが強い。
それだけに、係わった人たちの葛藤を思うと、切なさもひとしおです。

油小路の変。
近藤勇が、江戸で勧誘してきた伊東甲子太郎とその一派は、あくまでも尊皇攘夷派でした。
勤皇の思いはありつつも、実際には幕府側についていた新選組とは、最初から相容れないところがあったはず。

案の定、空気が合わず、やがて伊東たちは、崩御した孝明天皇の陵墓を警護する話にかこつけて、分派と言う形で、新選組を離れようとします。
新選組の局中法度では、脱退は切腹と決められていたからです。
脱退ではない、御陵衛士として、別個に活動するだけだと言う伊東の話を、近藤と土方は認めます。
こうして、伊東一派は無事、新選組と袂を分かつことができました。

この御陵衛士の中には、試衛館時代から、近藤たちの側にいた藤堂平助もいました。
藤堂は、もともと伊東の弟子。尊皇攘夷の思想も、しっかり持ち合わせていたようです。
そのせいで、どんどん左幕に傾いていく新選組に、疑問を持ったのかもしれません。

納得して、御陵衛士たちを送り出したかに見えた近藤たちですが、実は、土方歳三はひそかに、間者を紛れ込ませていた。
それが、斎藤一でした。
斎藤の報告で、御陵衛士たちの近藤暗殺計画を知り、土方たちは、逆に御陵衛士たちの抹殺を企みます。
こうして、血なまぐさい油小路の変が起きたのですが・・・

それぞれの人物の、様々な思い。命を賭けて、自分の居場所を守らなければならなかった時代の人の生き方は、今の私たちには想像つかないかもしれません。
そうとわかってはいても、ついあれこれ考えてしまいます。


拙いものですが、読んで頂ければ幸いですm(__)m


                                 管理人  翠蓮


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