残 像



あなたは・・・誰?

秋琳は、必死に目を凝らした。
いきなり、荒れたお堂の中へと背を押され、扉を閉ざされてしまった。
うす暗がりに目が慣れず、誰かが、そこにいる、と言うことくらいしかわからない。
その者は、まるで据えられた仏像の如き静けさのまま、そこに座していた。

誰? いったい何のために、私をここへ?

いや、何のためかは、察しがついていた。
おそらく、数日前から行方がわからないと言う夫に、事は関係しているのだろう。
突然、家に押しかけてきた兵たちから、夫が帰っていないか、行方を知らないか、しつこく聞かれ、疑われ、乱暴に家捜しをされたのは、つい昨日のことだった。
何事があったのかは、誰も口にしなかったが、尋常ではないことは察せられた。
夫は、姿を消してしまったのだ。


戦いに赴き、討たれたのか、それとも敵に捕まったのか。
まさか逃げ出したと言うことはあるまいと、それだけは固く信じていたが、兵たちはそれすらも疑っているようだった。
いずれにしても、夫の無事は期待できないのかもしれない。
不安と怖れ、いたたまれない思いの中に、どこか覚悟もでき始めている自分を、秋琳は感じていた。
武人の妻である以上、こういうことも起こり得ると、常に自分に言い聞かせていたからだ。

そして今日、薬草を摘んでの山からの帰り道、いきなり見知らぬ男に、このお堂に連れてこられたのだ。
まったく気配を感じさせず、気がついた時には、背後から低い声が忍び寄っていた。
「さる御方が、話をしたいと待っておられる。ご足労願いたい」
口調は丁寧ながら、その声音には有無を言わせぬ、研ぎ澄まされた鋼の如き響きがあった。
断れば、すぐにでも首筋に刀が当てられそうな、そんな不気味さを覚え、秋琳は従うしかなかった。
並の人間ではない。おそらく、誰かに雇われている細作(密偵)なのだろう。
いったい、夫に何があったのだろう。
秋琳は、誰よりも慕わしい夫、姜維のことを強く案じた。



姜維。字は伯約。
天水郡の太守に仕え、知略も武術も優れ、若き頃より周りから「天水の麒麟児」と噂され、尊敬されてきた。
けれど太守は、そんな姜維を、さほど重くも用いず、むしろ扱いかねているようだった。器が大きいとは、お世辞にも言えない、凡庸な太守だったのだ。
国のために、働きたいと願う思いは、誰よりも強い姜維だっただけに、どれほどか、もどかしさに身を苛まれていたことだろう。
鬱屈した思いを、家族にさらすような姜維ではなかったが、秋琳は夫の胸のうちを、切ないほどに感じ取っていた。
もっともっと、尊敬できる主に、持てる力の全てを尽くして、夫は仕えたいのだ。
けれど、秋琳には、そんな夫をただ静かに見守ることしかできなかった。
いつか、夫の道が開けることを願いながら・・・


                             * * *


秋琳は、目を据え、息を殺して、相手の様子を読み取ろうとした。
今、目の前にいるのは、郡の太守の手の者か、はたまた夫を捕らえた敵の者か。
出奔した夫の行方を聞き出そうとしているのかもしれないし、夫への見せしめのために、自分を殺そうとしているのかもしれない。

(落ち着かなくては・・・)

決して夫に災いをもたらす振る舞いだけはできない。
秋琳は、必死に自分に言い聞かせ、白い頬を強張らせた。
怖ろしくないと言えば、嘘になる。
背筋に冷たいものが流れるほどの恐怖に、秋琳はじっと耐えていた。


「そなたが、姜維の妻女に相違ないな?」


ふいに発せられた、思いがけないほど穏やかな声に、秋琳ははっとした。
答えるべきなのか、それとも・・・
先ほどの細作の近づき方を見ても、自分が姜維の妻であることは、すでに確認の上での態度であったことが知れる。
今更否定しても、意味はないだろう。それに、声の主は、粗暴な人間には思えない。
話をしたいと言うのは、嘘ではないようだ。
それらのことを、瞬時のうちに脳裏に巡らせ、秋琳は覚悟を決めた。
しっかと顔を上げ、薄闇に紛れた相手の顔に、まなざしを据える。


「姜伯約が妻、秋琳にございます」


声が震えぬよう、背筋を伸ばし、はっきりと告げた。
一瞬、相手は気圧されたように、間を置き、
「ほぉ・・・、これはなんとも、潔い」
と、かすかに、満足そうな響きを声に含ませた。

「無作法なまねをして、すまなかった。さぞ、怖ろしい思いをしたであろう。
だが、こうしなければ、そなたと話すことかなうまいと思ったのだ」
落ち着いた口調は、少しも揺るがない。
その声から、敵意も脅しも感じられないことに、秋琳はかえって戸惑った。
いったい何者なのか、目的は何なのか、これではますますわからない。
秋琳の困惑を察したように、相手はゆっくりと言葉を発した。


「私は、蜀の者だ。そなたの夫を捕らえた」
秋琳は、息を呑んだ。
やはり、捕まってしまった、あの人は。
もしや、すでに殺されて・・・ 知らず、唇を噛みしめた。
だが、
「姜維は、今、我が軍のうちにいる」
優しく諭すように、相手は言葉を継いだ。
凍りつきそうになっていた心臓が、安堵にふっとゆるむ。
よかった、生きている。まだ・・・生きている。
とたんに、まぶたが熱くなってきた。

そんな秋琳の様子を、相手はしばらく見守っていたようだったが、
「あまり時間がない。肝心なことを話さなくてはな」
と、少しだけ身を乗り出した。
秋琳は、再び緊張に硬直した。
油断してはならない、相手の魂胆が、まだ何も見えていないのだ。


「正直に申そう。私は、姜維に蜀に来てもらいたいと思っている」
予想だにしなかった言葉に、秋琳は愕然とした。
蜀に来てもらいたい? それはまさか・・・
「蜀のために、力を貸してほしいのだ」
蜀に降る? 魏を裏切って、蜀につくと言うのか。
ありえない、あの人に限って、そのようなこと。
たとえ、戦いに敗れ、捕らえられたとしても。
姜維が、どれほど魏のために尽くそうとしていたか、秋琳が一番よく知っていた。


「そのようなこと・・・ 叶うはずもない」
無意識に、心のつぶやきが声に出ていた。
「叶わぬ、か?」
相手の声に、落胆が混じる。
それは心底、がっかりしたように聞こえた。
その、あまりにまっすぐな反応に、逆に秋琳は不安になった。
「承諾したのでしょうか、夫は?」
すると、相手は小さく、ふっと笑った。
「まだわからぬ。こちらの思惑は伝えた。しばらく蜀の陣にいて、考えてくれるよう頼んではあるが。なかなか手強そうだ」

秋琳は、あっけにとられた。まだ味方になるかどうかもわからぬ者を、近くに置くと言うのだろうか。
それに、こんなにも重大な話を、たとえ女とは言え、敵国の者に、たやすく明かしてしまうとは。
もしかしたら、これは何かの罠なのだろうか。
いや、しかし、そのような邪悪さは、微塵も感じられない。
なぜだろう、秋琳の直感は、目の前の人物が信頼に足る、と告げている。
真実を、正直に話してくれている、そう思えた。
けれど、いったい、この者は・・・


秋琳の困惑をよそに、相手は話を続けた。
「だが、もしも・・・、もしも姜維が承諾し、力を貸してくれることになったら」
ほんの少しだけ間を取ると、その者は、ゆったりと穏やかに言葉を継いだ。
「その時は、そなたも蜀に・・・姜維のもとに来て、共に暮らす気があるだろうか?」
秋琳は、今度こそ仰天して、言葉が出なかった。
蜀へ? 私も蜀へ行くと言うのか。
魏を捨て、新たなる主に仕えようとする夫について、私も?


「それは、無理にございます」


思いがけぬほど、素早くきっぱりと、否定の言葉が口をついて出た。
「なぜかな?」
相手は、やわらかく問いかけてくる。
秋琳は、素直に胸のうちを話す気になった。
「もし、夫が蜀に行くことを決意したならば、今までのことは、すべて捨て去り、新たなる気持ちで赴くのでしょう」
薄闇の中で、相手が頷いた。

「おそらく、自分は一度死んだものと思い、身ひとつになって生きる覚悟で・・・」
相手は、沈黙したままだ。
秋琳の言うことに、じっと耳を傾けている様子だった。
「ならば、私がお側に行くのは、夫の意に適わぬこと。邪魔にしかならぬでしょう」
相手が、かすかに首を傾げるのが窺えた。
「それは・・・そなたが決めることではなかろう。姜維は、そなたと共にいたいと思っているやもしれぬ」
「いいえ」
秋琳は、今度も間を置かず、否定した。


そうだ、自分にはわかっている。
夫の胸のうちが、本心では認めたくないと思っている夫の決意が、無骨なほどまっすぐな生き様が・・・哀しいくらい、はっきりと読み取れてしまう。
自分が側にいれば、間違いなく、心から優しく気遣ってくれるであろうことも。
けれど、それが夫に魏での暮らしを思い出させ、蜀の軍で働く上で、何らかの形で妨げになることも。
だからこそ、蜀に行くならば、どれほど苦しくとも、冷酷と思われようとも、魏でのすべてを切り捨てようと、夫が思っているであろうことも。
そうだ、わかっている。だからこそ、できるはずがない、私は・・・


「夫が、蜀へ行くのなら、私も、夫はすでに死んだものと、心に・・・」
ぐっと胸にせり上がってきた悲しみが、秋琳の言葉を途切れさせた。
これ以上、声に出せば、涙が溢れてしまいそうだった。
秋琳は、俯いて必死に嗚咽を呑み込んだ。
「・・・そなたは、強いのだな」
温かにさえ聞こえる低い声に、秋琳の胸は、さらに切なく塞がれた。

強くなどない!
苦しい、悲しい、本当は泣き叫びたいほどつらい。
もう一度、夫に会えるなら、何を引き換えにしてもいい、自分の命すらなくしても構わないのだと、秋琳の本心は訴えている。
どうして耐えている? 死ぬほど夫に会いたいのだと、なぜ言わない、と、もう一人の秋琳が、狂おしく責めたてている。
けれど・・・ 


「まだ、姜維は蜀に来ると決めたわけではない」
とりなすような相手の言葉に、秋琳は、またもや首を振るしかなかった。
「いいえ、夫はきっと、蜀に・・・、貴方様に仕えることを願うでしょう」
ふっと、相手の張り詰めた気配が緩んだ。
「そなたに、わかるのか?」
やわらかな声。夫にも、こんなふうに穏やかに話しかけるのだろうか。

頷きながら秋琳は、絶望の中に、かすかな救いが湧き上がってくるのを感じた。
そうだ、この御方に、夫はきっと仕えるだろう。
いつのまにか秋琳は、目の前の姿もわからぬ相手から漂う、清雅な雰囲気や、冷静でありながら温かさを感じさせる声、誠実な人柄をしっかりと受け止めていた。
同時に、この相手が、何か大きな運命を背負っていることも感じた。
夫が仕えたいのは、きっとこういう人なのだと確信した。
そして、この御方ならば、存分に夫の力を引き出して下さる。


秋琳は、自分自身にも言い聞かすように、言葉を継いだ。
「敵であった夫のことを、これほどに考えて下さっている貴方様。そのお心に、夫が答えぬはずはありませぬ」
絶望と希望、それらが背中合わせなのだと言うことを、秋琳は今、切ないほどにはっきりと悟った。
おそらく、夫の心はすでに決まっている。
ただ、慎重なだけに、性急に答えを出すことをためらっているのだろう。
けれど、それも時間の問題。夫は、この人に仕え、蜀の国のために、自分のすべてを捧げるつもりなのだ。
秋琳は、涙声になりそうなのをこらえ、まっすぐ顔を上げ、告げた。


「どうか、夫の力、存分にお使い下さい。そして・・・」


こらえきれずに、秋琳の顔が涙に歪んだ。
「夫に生きる道を・・・、お与え下さい」
秋琳は、ひれ伏すと、肩を震わせ嗚咽を漏らした。
一瞬の間の後、静かに近づく気配があり、秋琳の肩に温かな手が置かれた。

「・・・すまぬ」
ぽつりとつぶやかれた言葉に、秋琳は涙に濡れた顔を上げた。
「そなたたちを引き離す私を、恨んでくれてよい」
秋琳は、首を振った。いいえ、と言いたいけれど、声にはならなかった。
ただ、泣きながら首を振り続けた。
優しい手が、秋琳をあやすように、何度もそっと肩を叩いた。
これでよかったのだ、と秋琳は自分に頷いた。


                             * * *


お堂の扉が細く開き、薄暗い中に、夕暮れ時の茜色の光が流れ込んできた。
外へ出ようとする、丈高い背に向かい、秋琳は思わず声をかけていた。
「あの・・・あなた様のお名を伺ってもよろしいでしょうか」
その者が、つと足を止める。
「私の名か」
ゆっくりと振り向くと、整った横顔に、穏やかな微笑を浮かべた。
よく通る、涼やかな声が答えた。


「諸葛亮・・・。蜀の丞相をしておる」


秋琳は、口元を手で押さえ、目を見開いた。
驚きで声も出ない秋琳に、諸葛亮はひとつ頷くと、外へ足を運んだ。
「息災でな、秋琳」
夕映えの色が細くなり、ぱたんと扉が閉められた。


                             * * *


再び暗くなったお堂の中で、秋琳は座り込んだまま、動けずにいた。
先ほど見た、茜色の光に彩られた神々しいほどの横顔と、告げられたその名前が、秋琳の脳裏に、くっきりと刻み込まれた。
諸葛亮・・・蜀の丞相。
なんと、まるで天上の人ほどに、とてつもなく遠い御方だったのだ。
これから、あの御方の示す路が、夫の運命となると言うのか。
よかった、と秋琳は心から思った。
本当によかった。ようやく夫は、出会いたいと思っていた真の主に巡り合えたのだ。


自分の記憶から、一生消えないであろう貴い残像に向って、秋琳は祈るように、深く頭を下げた。
その残像に、愛おしい夫の面影が重なる。
懐かしい、優しい笑顔に、秋琳は呼びかけた。

(どうか、どうかまっすぐ、振り返らずに、ご自分の道を・・・)

もしも、いつか果てしない時を経て、向こうの世界で再び逢えたとしても、あなたは、私を見忘れてしまってくれていい。
それほどに、一途に、ご自分の信念のまま、歩き続けて下さったなら。
私は遠くから、あなたのご武運と、そして新たなる幸せを祈っています。
あなたを忘れることは、きっとできないでしょう。
これから先も、あなたをお慕い続けることを許して下さい。
あなたのすべてを、いつまでも・・・

秋琳の白い頬に、幾筋もの涙が、次々と伝って落ちた。