夢  影

   ― 追補編 ―




「帰っているかな、晴明」
源博雅は、いつも通り、独り言をもらしながら、一条戻り橋を渡っていた。
このところ、宮中も平穏で、博雅ものどかな気分だった。
五月の陽射しが、川面にきらきらと反射している。

右大臣家の怪事件がなんとか解決した後も、博雅は変わらず、晴明の屋敷を訪ねていた。
特に用事があるわけではない。ただ、酒を酌み交わしながら、他愛ない話をする。それも、今までと変わらない。
変わったのは、蜜虫の出迎えがなくなったことくらいだ。
それは、博雅にとって、ひどく寂しいことではあったが、それでも、いつかもしかしたら、と言うかすかな希望を持って、晴明の屋敷の前に立つのだった。


          *****


「晴明、いるか」
声をかけ終わらぬうちに、すっと目の前に現れたのは、当の晴明だった。
白い狩衣姿で、にこりともしないまま、博雅の前に立っている。
「珍しいな、いつもは奥で寝転がっているのに」
いささか驚いて、博雅は目を丸くした。

晴明が、こうして出迎えることは、まずない。
返事があろうと、なかろうと、博雅はずかずかと上がり込むのだから。
一時、蜜虫の代わりの式神が出迎えたこともあった。
だが、それがひどく博雅に不評だったせいか、気がつくと、いつのまにかいなくなっていた。


なにせ、その式神はカラスだったのだ。
屋敷を入ったとたん、「グゥァアッ」と不気味な声で迎えられ、真っ黒に濡れそぼったような髪の男が、鋭い目つきで、博雅を射抜いていたのだ。
思わず、悲鳴にも似た声を上げてしまった博雅に、晴明は
「すまぬな。まだ、人の声の出し方が、よくわからないらしいのだ」
と、言い訳した。

だが、博雅にとっては、声だけでなく、その式神の存在そのものが、とにかく薄気味悪くてたまらなかった。
晴明としては、何か急の用の時の知らせにも使えるし、重宝だったのだろう。
だが、博雅の強行な抗議に、出迎えに立たせるのは、あきらめざるを得なかったようだ。
晴明にとっても、博雅が訪ねてくれることは、楽しみに違いなかったから。


そんなわけで、その後、晴明の屋敷で、博雅が式神を見ることはなかった。
おそらく、使っていないのではなく、博雅の目に触れないように、苦心していたのだろう。
どちらかと言うと怠惰な晴明だったが、仕方なしに、酒や肴の用意を、自らすることになっていた。
それでも、わざわざ出迎えることは、まずない。



ぽかんとしている博雅に、晴明は
「なんだ、博雅か。やっぱり来たのだな」
と、無感情な声で話しかけた。
答えようとする博雅を無視して、さらに晴明は言葉を継ぐ。
「すまぬ。今留守にしているのだ。勝手に上がっていてくれ」
へ?、と博雅は、眉をしかめた。
何を言っているのだ、いったい。

「おい、晴明・・・」
「すぐに帰るから、先に一人で飲んでいてくれ」
晴明は、博雅の言い分に耳も貸さず、それだけ言うと、ぱたっと黙り込んだ。
「せ、晴明・・・?」
博雅は、不気味そうに、目の前の晴明を眺めすかす。
ふいに、陽炎でも立ち上ったかのように、ゆらゆらっと、晴明の姿がぼやけ始めた。
「ええっ!」
驚く博雅の前で、晴明は掻き消え、代わりに小さな紙の人形が、はらりと足元に落ちた。


「なんだよ、式だったのか。まったく、自分の式を置いていくなんて」
博雅は、驚きを静めようと、ふうっと大きく息をつくと、家に上がりこんだ。
庭を見渡せる部屋で、二人で酒を酌み交わすのがほとんどだったが、このところ博雅はその前に、一番奥の、晴明が巻物等を置いてある部屋を覗くことにしていた。


          *****


そこには、影秋が描いた蜜虫の絵があった。
笙子によって、真っ二つに引き裂かれた絵を、晴明は丁寧に継ぎ、その部屋に置いていた。
博雅は、いつも立ち寄っては、絵の中の蜜虫に、じっとまなざしを注いだ。
雅やかな裳唐衣をまとい、たおやかに佇む蜜虫は、とても美しく、それでいて、どこか痛々しかった。
いつか必ず帰って来いと言う、祈りの思いをこめて、博雅は絵を拝むように眺めるのだった。


今日も、いつもと同じく、その部屋に向おうとしていると、突然後ろから声がかかった。
「なんだ、博雅か。やっぱり来たのだな」
振り向くと、白い狩衣姿の晴明。
「お、帰ってきたのか、晴明。まったく人が悪いな」
博雅は、ほっとして笑顔になった。
ところが、晴明は無表情のまま、
「すまぬな、出かけているのだ。先に酒でも飲んでいてくれ」
と言うが早いか、さきほどと同じように、ゆらゆらと掻き消えた。


後に残った人形を見て、博雅はため息をついた。
「だから、わかったよ。いくつも置いていくなよ、式なんぞ」
むっとしたまま、奥の部屋に入ると、なんと、またもや狩衣姿の晴明が、すました顔で座っている。
「いい加減にしてくれよ」
博雅は、うんざりした。
「なんだ、博雅。やっぱり来たのだな」
懲りもせず、同じことを言う晴明もどきを、博雅は無視した。
すると、今度は、
「あんまり蜜虫に見惚れるなよ」
晴明もどきは、皮肉っぽくそう言って、三たび、ゆらゆらと掻き消えて行った。



「晴明め、よほどひまらしい」
ふんと鼻を鳴らすと、博雅は気を取り直し、神妙な面持ちで、絵の置いてある場所に近づいた。
いつものように、少しどきどきしながら、絵を覗き込む。
ところが、
「あっ、こ、これは、いったい・・・」
博雅は、慌てふためいて、絵を手に取り、まじまじとみつめた。
絵の中から、蜜虫が、消えていた。


「う、嘘だろう、何で、こんな・・・」
紙の上に残されていたのは、最初に右大臣家を訪ねた時に見たのと同じ、わずかな線で表された立ち姿らしきもの、そして背景の木のようなもの、それだけだった。
(消えている、消えている、なぜ?)
博雅の混乱した頭の中には、その言葉だけが、ぐるぐると回っていた。
ここに来て、蜜虫の絵を見る、それが今の博雅のささやかな喜びだったのだ。
なのに・・・
蜜虫は、どこへ、いや、どうなってしまったのだ?
もしや、ついに完全に、その存在が消滅してしまったのか。
博雅の瞳に、じわっと涙が浮かんできた。


          *****


「なんだ、博雅か。やっぱり来たのだな」
突然、後ろから聞こえた声に、ギョッとして、博雅が振り向くと、やはりそこには、白い狩衣姿の晴明もどき。
博雅は、苛立ったように、地団駄を踏んだ。
「だから、しつこいぞ、式神! 今、それどころじゃないんだ!」
「おい、博雅・・・」
「何度出たら気がすむんだ! さっさと紙に返れよ!」
涙目のまま、わめく博雅を、晴明もどきは、あきれたように眺めている。


「蜜虫・・・、蜜虫が消えてしまったと言うのに・・・。晴明の奴、いったいどこに行ってるんだ!」
おろおろしたり、爆発したりする博雅に
「だから、ここにいるではないか」
晴明もどきは、冷然とした声で告げる。
「うるさいぞ、式のくせに!」
やれやれ、と晴明もどきはため息をつき、
「どうすれば信じるのだ? いっそ、呪でもかけてみせようか」
「できるもんなら、やってみろ!」

勢いで、思わず博雅はどなり返した。
すると、ぶつぶつと呪を唱える声に続き、
「やっ!」
鋭い掛け声と共に、博雅の身体が硬直した。
「うっ、なんだ、これは?」
「だから・・・、やってみろと言ったではないか、おまえが」


博雅は、まじまじと、晴明もどきを眺め回した。
「ほ、本物の晴明、か?」
ふっと、晴明が苦笑を漏らした。
「なるほど、よほど出来がよかったのだな。私の式は」
そう言って、拾ってきたらしい白い人形を、ひらひらと振って見せた。
「そ、そうではない! あんまりしつこく出るからだ!」
「たいそう歓迎したつもりなのだが」
しれっとする晴明を、博雅はぐっと睨みつけた。
「どうでもいいが、早く呪を解いてくれ」


          *****


身体の強張りが消えると、ほっと博雅は息を漏らした。
と、思う間もなく、晴明に詰め寄る。
「晴明、大変だ! み、蜜虫、蜜虫が消えてしまったのだ!」
え?、と不審気な顔をすると、晴明は絵に近づき、手に取った。
眉根を寄せ、じっと絵をみつめる。
まるで、その絵から、何かを感じ取ろうとしているようだった。

しばらくして、晴明はいつも通りの冷静なまなざしを、博雅に向けた。
「博雅、これはもしかしたら・・・」
博雅は、うわぁっと言って、耳をふさいだ。
「ま、待ってくれ、少し。今、心の準備をするから」
そう言うと、目をつぶって、何度も大きく深呼吸した。
ふうっと、胸をさすり、
「覚悟はできた。何でも言ってくれ」


ふと見ると、晴明は笑いを必死にこらえているような顔をしている。
博雅は、きょとんとした。
「あいかわらず、早合点だな、博雅」
晴明の言葉に、博雅は混乱の中に、ひとすじの希望が射し込むのを感じた。
「まさか、晴明、それは・・・」
晴明は、慎重に言葉を継いだ。

「自然のものには、それぞれ力を蓄える時、その力が満ちて発散される時がある。今は、ちょうど藤の花の咲く時期、もっとも力が満ちる時だ」
「ならば、蜜虫も?」
晴明は、わずかな躊躇の後、しっかりと頷いた。
「ようやく、影秋の呪縛から逃れたと言うことだろう。おそらく・・・おい、博雅!」
晴明の次の言葉を待たずして、博雅は怖ろしい勢いで、部屋を飛び出した。


          *****


博雅は、まっしぐらに庭の見える部屋へと走る。
さきほどは、ちょうど晴明の式が現れたために、見ずに通り過ぎたのだ。
部屋に入ると、すぐに、庭の隅に目を向ける。
「おお・・・」
博雅の口から、感嘆の声が漏れた。


ずっと枯れ果ててしまったようだった藤の木から、たわわな薄紫の花房が、数えきれないほど下がっていた。
甘い香りが、博雅のもとまで流れてくる。
ひらひらと、花びらが風に乗る。
あの事件が起きるまでは、ここを訪れるたびに、いつも目にしていた美しい光景が、そこにあった。
博雅の目に、新たなる涙が湧き上がってきた。



「博雅、泣くのは早いぞ」
晴明は、そう言うと、すっと博雅の脇を通り過ぎ、庭に降り立った。
そのまま、藤の木の下へ行くと、やわらかい手つきで、印を結び始めた。
小さく呪を唱える。
すると、まるで誰かが揺らしてでもいるように、たくさんの花びらが降ってきた。
そして・・・


「み、蜜虫・・・」
博雅の声が震えた。
たおやかな立ち姿、長い黒髪に、白い頬。能面のように無表情な顔。
藤の花びらの中に現れたのは、まごうことなく蜜虫だった。
けれど、じっとみつめているうちに、博雅の胸に不安がよぎった。

蜜虫は、ぴくりとも動かない。まなざしも、どこか虚ろに見える。
感情を持たない、式神独特の無の表情。これは、いったい・・・
蜜虫の姿はしていても、これは本当に、あの蜜虫なのか。
蜜虫の心は、ちゃんと帰ってきているのか。


ふいに、晴明が振り向いた。
「博雅、なぜ来ない?」
「え、でも・・・」
ためらう博雅に、晴明は涼やかな笑顔を向けた。
「蜜虫が、待っているではないか」
恐る恐る、博雅は庭へ降り、藤の木に、蜜虫に近づいた。
蜜虫の無表情は変わらない。人形のように動かない。
博雅の足が、不安気に止まる。

晴明の声が優しく響いた。
「よく帰ってきた、蜜虫」
すると、突然、人形に命が吹き込まれたように、蜜虫の白い頬に、うっすらと赤味が射した。
口元が、やわらかく微笑みの形に変化する。
美しい所作で、晴明に向かい、礼を取る。
「ただいま戻りました、晴明さま」

そして、顔を上げた蜜虫は、そのまま博雅の方へと向きを変えた。
「ありがとうございました、博雅さま」
博雅は、感激のあまり、声も出せず、ただ目を見張って、もごもごと不器用に口を動かした。
「博雅さまのおかげでございます」
え、と問いたげな顔をした博雅に、
「あなた様の祈る声が、ずっと聞こえておりました」
そう言って、蜜虫は目元を和らげた。

あの時、博雅に「あなた様にしかできないのです」と、必死に願い、微笑んでみせた蜜虫の声、蜜虫の笑顔だった。
うん、うん、と博雅は頷いた。
声を出せば、一緒に、大量の涙まで溢れてきてしまいそうだった。

目を真っ赤にし、笑い顔とも泣き顔ともつかないほど、顔をひきつらせている博雅を、晴明は、静かに微笑みながら見遣った。
「いい季節になったな」
しみじみとつぶやく。
甘やかな花の香りが、三人を包み込むように、ゆるやかにたゆたっていた。



            
 <完>