雪  椿



寒い・・・

ぶるっと肩を震わせて、沖田総司は眠りから醒めた。
夕べ、少し熱っぽかった。
いつもより食欲がないところを、土方歳三に見抜かれ、異常なほどに心配され、とにかく寝ていろとどやされた。
池田屋で倒れて以来、周りの者たちが何かにつけ、気遣ってくれるのはありがたいが、総司にはいささか窮屈でもあった。
自分の身体のことは、自分が一番わかる。
決して安心していられる状態ではないだろう。
それでも、総司はあえて、気楽に考えようと決めていた。

あの時、血を吐いたことを知っている者はわずかだ。
その者には口止めしたし、総司自身もそんな素振りは、微塵も見せなかった。
(それでも、土方さんはちゃんと知っているんだ)
総司は確信していた。確信した上で、土方がはっきり聞かないのをいいことに、こちらも知らんふりを続けていた。

その土方は、朝方になると、ご丁寧に枕元に来て、総司の額に手をやって熱の具合を測り、大丈夫だと言う総司を、またもやどやしつけると、
「今日は一日寝ていろ」
と、すごんで見せた。
仕方ないので、そのまま布団の中にいるうちに、いつのまにか、とろとろと眠ってしまっていた。
やはり、体調がよくないのかと、総司は少し気持ちがふさいだ。


今日は殊更冷えるようだ。
そう言えば、夕べちらほらと雪が降っていたっけ。
積もっているのかな・・・
ふと気になり、どうしても外が見たくなった。
身体を起すと、ぞくぞくっと背中から寒気が上ってくる。

総司はごそごそと起きだし、夜着の上から着物を羽織って、からりと障子を開けた。
「えっ・・・」
思わず、驚きの声を上げる。
庭に面した廊下に、まるで総司が抜け出さないよう、見張ってでもいるように佇んでいたのは、山南敬助だった。
もっとも、山南はその静かな横顔を、じっと庭に向けていたのだが。

気配に気づいて、振り向いた山南は、いつものように穏やかに微笑んだ。
「おやおや・・・、おはよう、と言うには、ちょっと遅いみたいだね」
総司も、ふっと笑うと、いたずらっぽく言葉を返した。
「びっくりした。山南さん、てっきり私を見張っているのかと思いましたよ」
山南は、柔和な顔のまま、平然と言った。
「もちろん、見張っていたのだよ。土方くんに頼まれてね」
「じょ、冗談でしょ・・・」
「冗談だよ」
あっさりと返す山南に、総司は面食らって、言葉に詰まった。
山南は、横顔に笑みを含ませたまま、また視線を庭に向けた。


土方に頼まれて、と言うのは、案外本当かもしれない、と総司は思った。
土方と山南の仲が険悪なのは、皆の間で暗黙の了解みたいになってはいたが、その実、それほどでもないことを、総司は知っていた。
確かに、二人は性格も正反対、思想も目指すところも違っているのだろう。
けれど、共に夢を抱き、共に近藤勇と言う人物を盛り立てあって、新選組を作り上げてきた者同士である。
反発しながらも、互いに認め合っていることを、どちらも承知している。

土方は、今日は出かける用事があったはずだ。
出かけ際に、さりげなく、山南に総司のことを頼んでいったとしても、おかしくはない。
そういうことに関しては、山南ほど安心して任せられる者はいないのだから。
「悪いが、総司の様子を見てやってくれ」と、ぶっきらぼうに言い放つ土方の顔が、目に浮かぶようだ。
そして、黙ってやわらかに頷く山南の顔も。
まるで、二人して自分の病状を知った上で、がっちりと結託しているようだと、総司は心の中で苦笑いをもらした。


「夕べの雪、積もったんですね」
総司は、山南の視線の先を見やった。
さほどの降りではなかったはずだが、庭はうっすらと白い雪に覆われていた。
「京は冷え込みがきついからね」
山南は、そう言うと、気遣わしげに総司をちらりと見る。早く布団に入りなさい、と今にも言い出しそうである。
総司は、急いで、わざと無邪気な声をあげてみせた。
「でも、きれいだなあ。京には雪が似合うんですね」

ふと気づくと、庭の隅に白い椿の花が咲いている。
すでにいくつか、雪の上に落ちている花もあった。
白い雪に、白い椿。目を凝らして見ないと、こぼれ落ちた花に気づかないほど、白い花弁は雪の中に溶け込んでいた。
「赤だったら、いいのにな」
ぽつりとつぶやいた総司の言葉を、山南が聞きとがめた。
「赤?」
「椿のことですよ。だって、ほら、赤い椿なら散っても雪の上に映えるでしょう」

山南は、あらためて椿の花に目をやり、しばらく眺めていたが、やがて、
「白いほうが、散っても目立たない。散り終えた花は、むしろそっと、気づかれずにいたいのではないかな」
しんみりとつぶやき、すぐに
「私が言うのも変だがね」
と、小さく笑った。


山南の表情に、ほろ苦いものが混じり始める。
いつしか、白い椿の散り様に、己を重ねている自分がいた。
そうだ、散る時は、誰にも気づかれずに消えていくのがいい。
いつ散ったかもわからず、いっそどこに散っているのかも、知られずにいるほうがいい。
このところ、ずっと心を占めている重苦しい翳が、またしても、範囲を広げてきたようだった。

自分は何のために京に来て、新選組と言う旗揚げに係わったのだろう。
今、新選組の総長と言う地位にいることが、山南に、どこか方向感覚がずれてしまったような、居心地の悪い違和感をもたらしていた。
表面的なことや、個人的な確執ではない、もっと心の深い場所で、自分の目指したものとの食い違いを感じていたのだ。
それは、今から方向修正できるものではないような気がして、そのことが山南を孤独にしていた。

逃れたい・・・
ごまかしようのない正直な気持ちが、時折強く湧いてきて、山南を苦しめる。
がんじがらめのような、この状態から逃れて、もう一度最初から、自分の目指す道を考え直したい。
いや、いっそ、夢など捨ててしまい、何にもわずらわされない、平穏な日常に紛れてしまった方が、自分らしいのかもしれない。
だからこそ今も、雪に埋もれた白椿を見て、ふっとうらやましいような気になってしまったのだ。
あんなふうに、誰にも気づかれずに消えることができたらいい、と。


「寂しいなあ」
暗い思いに捕らわれて、ぼんやりしていた山南の耳に、いきなり総司の声が入り込んできた。
見ると、少し寒そうに肩をすくめながら、総司はじっと雪の上に落ちた椿の花をみつめていた。
「寂しいって、沖田くん・・・」
気がかりそうな山南の声に、総司は慌てた。
「あ、私のことじゃないですよ。いやだなあ、山南さんてば。私は、椿のことを言ったんですよ」
笑いながら、総司は、自分を「沖田くん」と呼んだ山南に、逆にほのかな寂しさを思い起こさせられていた。

江戸の試衛館にいた頃、山南は他の人たちと同じように、自分のことを「総司」と呼んでくれていた。
山南が「総司」と呼ぶ時の、どことなく優しさを含んだ声音が心地よかった。
けれど、京に来て、新選組が形を成すに当たり、山南の呼び方は「沖田くん」に変わったのだ。
「歳さん」と呼んでいた土方のことも「土方くん」となった。
それは、目に見えない距離を、総司に感じさせた。
新しく入った隊士たちへの手前もあり、馴れ馴れしい呼び方は控えた方がいいと言う、土方の提案があったことも確かだが。
でも、当の土方をはじめ、他の人たちは相変わらず「総司」と呼んでいるのにと、山南に対して、ほんの少し不満に思っていた総司ではあった。

一瞬よぎった、そんな思いを振り払うと、総司は言葉を継いだ。
「散ったことに気づかれないなんて、哀しいじゃないですか。
せっかくきれいに咲いたのだから、ああ、散ってしまったんだなあ、寂しいなあ、と思いたいんですよ」
山南は、驚いたように、総司の横顔に目を向けた。
「だって、頑張って、咲いていたんだもの」
子供っぽいような口調の奥に、不思議なほどの温かさや切なさがこもっているようで、山南はふいに目頭が熱くなった。


この青年は、いったいどんな思いの中に生きているのだろう。
山南は、今更のように、総司のことを考えた。
子供の頃から慣れ親しんだ仲間たちに囲まれて、そのまま京に来て、天から授かったような剣の腕前を、人を斬ることのために、人の命を絶つことのために使っている。
斬るべき相手を前にして、ほんのわずかでも、ためらった様子など見せないこの青年は、自らの手で、椿の花のようにあっけなく、地に落としてしまった骸(むくろ)に対して、「頑張って生きていたんだな」と、やるせないような寂しさを抱いてきたのだろうか。

それでも、迷ったり、沈んだり、誰かを恨んだりする様子など見せずに、ひたすら明るく笑っている総司は、自分などが太刀打ちできないほどの、強さを持っているのかもしれない。
この青年なら、人に知られずに消えたいと願ってしまう今の自分に対して、
「だめですよ、そんなの。寂しいじゃないですか」
と、あっけらかんと言って、引き止めてしまいそうだ。
いや、すでに自分は、総司の言葉に触れたとたん、さっきまでの考えがぐらつき始めている。
ひっそりと消えてしまうのだけは、やめておこうか、などと・・・


ごほっ、ごほっ、と咳き込む声がして、総司がいきなり口元を押さえたまま、かがみ込んだ。
山南は、とっさに総司をかばうように身体を支えると、慌てて背中をさすった。
「総司! 大丈夫か!?」
総司は、素早く胸元から黒い布を出して、口元を拭うと、大きく何度も息をつき、ようやくおさまったと言うように、頷いてみせた。
「すみません、冷たい空気が胸に入っちゃったみたいで」
「いや、私が迂闊だった。こんな寒いところで、長々と話し込むなど、どうかしている」
山南は、自分の方が苦しいと言うように、顔をゆがめた。
「とにかく、早く休まなくては。立てるかい、総司」
「いやだなあ、平気ですってば」
総司は、ゆらりと立ち上がると、少し背を丸めたまま、部屋の障子を開けた。


山南は、布団に入った総司の枕元に、小さな紙包みを置いた。
「忘れていたよ。これを渡そうと思って来たのに」
「なんですか?」
総司は、手を伸ばして、紙包みを開けてみる。
そこには、色とりどりの金平糖が入っていた。
「わあ、きれいだなあ」
子供のように、はしゃいだ声を上げる総司を、山南は嬉しそうに見た。
「珍しいだろう、この間、知り合いからもらってね。咳き込みそうな時になめるといいよ」

「山南さん、ありがとうございます」
総司は、にっこり笑うと、
「さっきね・・・実は、ちょっと嬉しかったんです」
少し、照れくさそうな顔をした。
山南が、怪訝そうに首を傾げる。
「久しぶりに、私のことを総司と呼んでくれたから」
「あ、ああ、それは・・・」
山南は、困ったように、ぎこちなく言葉を継いだ。
「君も新選組の副長助勤だしね。けじめはつけないと」
総司は、素直に頷いた。
「そうですね。でも、たまには前みたいに呼んでくれると、嬉しいな」
山南は、穏やかに微笑むと、
「さて、そろそろ退散するとしよう。ゆっくり休みたまえ」
そして、いたずらっぽい目になって、
「君の熱が上がっていたりしたら、私は歳さんに、どんな目に遭わされるかわからない」
そう言って、部屋を出る。
総司の視線を背中に感じるのが、なぜか哀しく思え、急いで後ろ手に障子を閉めた。


山南は、再び廊下から、庭の椿を眺めた。
うっすら雪の衣に隠れているような、でも間違いなくそこに在る白い椿の花。
「がんばって、咲いている、か・・・」
小さく笑って、歩き出そうとした時、ふとわずかだが赤い色が、視界の隅をよぎり、ぎくりとして足を止めた。
それは、廊下のすぐ下の雪の上だった。
はっとして目を凝らすと、それが血であることがわかった。
さっき、総司が咳き込んだ辺りだ。
山南の胸に、暗い予感がよぎる。
もしかしたら、総司の病は、自分が考えた一番悪い結果に近いのではないだろうか。

しかし・・・
「私には、何もできないのだな」
山南は、苦しげに顔をゆがめ、ぽつりとつぶやいた。
総司は、時たま熱を出すことはあっても、今まで通り、勤めもはたしているし、稽古も続けている。
今の状態で、休養を取れと言われても、絶対に聞きそうにない。
朗らかに笑いながら、すっと言い逃れてしまうか、頑固なくらい大丈夫だと言い張るかの、どちらかだ。
けれど、いつかもっと状況が悪くなったとしたら・・・

その時、総司をなんとか説得して、療養させることができるのは、おそらく、土方だけだろう。
誰よりも近くにいて、誰よりも総司に信頼されている。
土方ならば、引き摺ってでも、総司を安静にさせることができるはずだ。
もし、そんな時が来てしまったなら・・・


「歳さん、総司のことを頼むよ」
どうやら自分は、力になれそうにないから。
後の方の言葉は、口の中で苦く消えた。
人の運命など、誰しも一寸先はわからない。
どう転がろうとも、覚悟して受け止めるしかないのだろう。
山南は、厳しくも静かな横顔のまま、もう一度庭に目を向けた。
その視線の先で、ぽとりとまたひとつ、白椿の花が雪の上に落ちる。

一年の終わりが、すぐそこまで来ている、冬の京だった。

            
 <完>