−その肆− |
|
きぃんと凍りつく空気を震わせて、いくつもの白刃が闇に淡い光を放っている。 人通りの絶えた夜更けの油小路は、今や殺気を漲らせた幽鬼のような人影に占領されていた。 新選組幹部の予想通り、御陵衛士たちは伊東甲子太郎の遺体を引き取りに、油小路に現れた。 そして、冷たい辻に打ち捨てられた伊東の遺体を、籠に乗せようとしていたところを、待ち伏せしていた永倉、原田率いる新選組隊士たちに、取り囲まれたのだ。 当然、そのことは覚悟していたのだろう。御陵衛士たちは慌てることなく、素早く戦闘体勢に入った。 互いの気配を窺いながら、誰もが息を殺したまま、剣を構えている。 そんな中、永倉は必死にひとつの影を探して、目を凝らした。 なんとしても、自分がその相手に向かい合わなくてはならない。 (いた・・・!) 御陵衛士たちの中でも、一番小柄な人影。今にも機敏な動きで駆け出しそうな藤堂の姿を目指し、永倉は、目立たぬようにじりじりと移動した。 永倉の思惑に気づいた原田が、頭上で槍をわざと大きく振り回し、御陵衛士たちの注意を自分に向けさせる。 その隙に、永倉はなんとか藤堂の真正面へと回り込むことができた。 きっかけは誰だったのか、裂帛の掛け声と共に、いきなり斬り合いが始まった。 それぞれが、刀を閃かせて、目の前の相手に向って行く。 永倉も、気づいた時には藤堂の素早い一撃を、自分の剣で受け止めていた。 火花が散りそうなほどの勢いでぶつかった剣の隙間から、永倉は押し殺した声を鋭く発した。 「平助、逃げろ!」 えっ、と藤堂の目が、間近で見開かれる。かすかに、剣の手応えが緩む。 「局長の命令だ。おまえを助けろと」 藤堂の顔に、戸惑いが滲んだ。 永倉は、大丈夫だと言うように、藤堂に向って小さく頷いてみせた。 これで、自分たちの意志は伝わったはずだ。 近藤の命令を、誰よりもありがたいと思ったのは、実は永倉だった。 試衛館の頃から、藤堂のことを弟のように可愛がっていた。 剣士としての強さも厳しさも、十分に持ち合わせている永倉だったが、身近な人に対する情は厚い。 まだ若く有望な藤堂を死なせたくないと言う思いは、近藤と同様、新選組の冷徹な掟をも超えるほど強かった。 一旦、藤堂の剣をぐっと押し返し、距離を置くと、あらためて永倉は構えに入った。 が、藤堂にだけわかる隙を、片側にわざと作った。 藤堂が打ち込むと見せて、そこをすり抜けて逃げることができるように。 (頼む、うまく逃げてくれ) 永倉は、そう願いながら、剣を振りかざした。 向かい合った藤堂も、ゆっくりと剣を構え直す。 永倉は、はっとした。 藤堂が、笑っていた。 まるで、稽古に立ち会った時のように、剣を構えたまま。 それは見慣れた、いつもの藤堂の笑顔だった。整った顔立ちに、くりっとした目が、どこか少年の面影を感じさせるような、屈託のない笑顔。 (なぜだ・・・) 永倉は迷った。逃がしてくれることへの感謝なのか、それとも・・・ 次の瞬間、藤堂が軽やかな跳躍を見せて、踏み込んできた。 ひらりとかざした剣が、月光を宿したように煌いた。 ***** 「・・・平助!」 眠っているのかと思われた総司が、いきなり飛び起きた。 ぎょっとして、斎藤が目をやると、総司は上半身を起こしたまま、大きく肩で息をついていた。 寝汗でもかいたのか、しきりに額や首筋をぬぐっている。 火影に浮かんだ顔は、蒼ざめているようにすら見えた。 「大丈夫か」 斎藤の声に、総司はゆっくりと振り向いた。 気まずそうに、口元だけ薄く笑いの形を取る。 「すみません。ついうとうとしちゃったみたいで・・・」 「夢でも見たのか」 困ったように小さく首を振ると、 「いえ、ちょっと寝ぼけただけですよ」 そう言って、低く笑い声をもらす。 斎藤は黙ったまま、再び茶の用意をし始めた。 やがて、やわらかな湯気を上げる湯呑み茶碗が、総司に手渡された。 総司は、熱い茶を一口すすると、ほっと息をついた。 「美味しい・・・」 斎藤は、ほんの少し照れたような顔をすると、自分も湯呑みを口に運んだ。 「斎藤さんがお茶を淹れるのが上手だなんて、意外だったなあ」 総司は、両手で大切そうに湯呑み茶碗を包みながら、香り高い茶を味わった。 斎藤も、無言のまま、茶を呑んでいる。 二人ともまるで、何事も起きていない、穏やかなひとときを演じてでもいるように。 どれほどの時間が経っただろう。 総司が、ふいに横顔から表情を消すと、耳をそばだてた。 「帰ってきたようですね」 斎藤も、じっと気配を窺う。 確かに、ざわざわと足音や物音が、闇を隔てて感じられる。 「様子を見てくる」 斎藤は、すっと立ち上がった。 総司の視線が、背中を刺すように追ってきたが、そのまま障子を閉め部屋を出る。 すでに、近藤も土方も別宅から戻っているはずだった。 永倉たちは、近藤の部屋に報告に向うだろう。 予想される結果に、気が重くなるのを感じながら、斎藤は廊下を進んだ。 ひんやりとした冷気が、足元から這い上がってくる。 総司は、大人しく待っているだろうか。 残された総司がうな垂れている様が浮かび、斎藤はそれを振り切るように、足を早めた。 ***** 部屋に入ると、すぐに目に飛び込んできたのは、近藤の苦しげにゆがんだ顔だった。 その前で、永倉が頭を下げている。 原田は隣にどっかと座り、あらぬ方を向いて、唇を噛みしめている。 そんな3人から、少し離れた場所で、土方はじっと目をつぶり、腕組みをしていた。 重苦しくよどんだ空気。 それだけで、襲撃の結果がどうだったのか、斎藤には察せられた。 「だめだったか・・・」 近藤の力ない声が聞こえた。 永倉の代わりに、原田が声を荒げた。 「仕方ねえだろ。平助の奴、逃げるどころか、本気で新八に向ってきやがったんだ」 ああ、やっぱり、と斎藤は思った。 「そうか、では永倉くんが・・・」 「いや!」 近藤の言葉を、永倉が遮った。 「すまない、局長。俺は、平助に引導を渡してやることすら、できなかった」 近藤が、困惑顔をする。 「油断していた。平助は逃げてくれるだろうと思っていたんだ。一瞬、俺の剣が遅れた隙に、隣にいた奴が平助を斬っていた」 藤堂は、永倉と戦いたかったのだろう。だから、まっすぐに永倉だけに向って行った。 けれど、他の隊士とて、御陵衛士を討とうと必死になっていたのだ。 「あいつらみんな、鎖を着こんでいなかった。まともに斬られりゃ、ひとたまりもねえ」 原田が苦々しい声で言った。 新選組は、戦いに備えての場合は、必ず鎖帷子を着込む。 御陵衛士たちにしても、もちろんいつもはそうしていただろう。 今回に限り、無防備なままで来た。 油小路に、新選組が待ち構えていることを、考えないはずはない。 わかっていて、いや、わかっていたからこそ、新選組の思惑通りに戦いに来たなどと思われたくなかったのか。 あくまでも、自分達の大切な師を引き取りに来ただけだと、暗に言いたかったのかもしれない。 襲われたなら、いっそ潔く討ち死にする、と。 御陵衛士の誇りにかけて・・・ 「平助は・・・」 ふいに、永倉の声が震えた。 「笑ったんだ、俺に向って」 皆の顔が、一様に切なげにゆがむ。 誰もが、藤堂の胸のうちを想像したに違いなかった。 痛いほどの静寂が、ひたひたと部屋の中に満ちて行く。 新選組は、大切な仲間をまた一人失ったのだ。 その後の報告で、結局油小路に出向いた御陵衛士は、七人。そのうち、四人は死地を切り開いて逃げていたことがわかった。 藤堂とて、逃げたとしても、誰も責めはしなかったろう。 けれど、新選組隊士たちから「魁(さきがけ)先生」と呼ばれるほど、常に先頭を切って戦いの場に臨んでいた藤堂にとって、敵に背を見せるなど考えられなかった。 「敗走」と言う言葉ほど、藤堂に似つかわしくないものはない。 ある意味、望んだ最期だったのかもしれない。 事件のあらましは、すべて把握した。 斎藤は、さりげなく目礼をして部屋を退去しようとした。 が、それよりも早く、土方の声が飛んできた。 「おい、斎藤」 はっと顔を上げる斎藤に、土方は無愛想な調子で問いかけた。 「総司は、どうしている?」 一呼吸おいて、斎藤は答えた。 「横になっています」 ふん、と鼻で頷いた土方だったが、その目が注がれている場所に気づき、斎藤はぎくりとした。 先刻、総司が抜刀した際にかすめた着物の袖に、真一文字に切れ目が走っている。 あと少し内に入り込んでいれば、腕が斬られていたのだろう。 気づかなかった自分の迂闊さに、斎藤は内心舌打ちをした。 勘のいい土方のことだ。どんな悶着があったのか、察しがついてしまっただろう。 問い詰められるのも、覚悟した。 だが、それ以上の追求はなく、ただぶっきらぼうに土方は言葉を継いだ。 「面倒ついでですまねぇが、総司に事の顛末を教えてやってくれ」 斎藤はわずかに眉をひそめ、土方を見遣った。 「ま、あいつのことだ。とっくに察してるだろうがな」 土方の言う通りだと、斎藤は思った。 総司は最初から、藤堂が逃げることなど信じていなかった。 ただ、せめて永倉の剣に斃れるならと、観念していたのだ。 それすらも、叶わなかったわけだが。 土方も、おそらく総司のことなら、わかっているのだろう。 端正な顔をしかめると、 「後はお前に任す」 行け、と目で合図した。 「承知」 斎藤は、短く答えて頭を下げた。 ***** 戻ってみると、案の定と言うべきか、部屋に総司の姿はなかった。 だが、居場所はすぐに知れた。 廊下の雨戸が一枚、開けられている。 そこから庭に降りたのだろう。 斎藤は、小さくため息をつくと、自分も庭へ降りた。 満天の星空の下に、背の高い人影が佇んでいる。 斎藤が近づくと、総司は振り向かずに、空を見上げたまま、ぽつりと問いかけた。 「平助、逃げなかったんでしょ」 「ああ」 斎藤の答えに、後ろ姿のまま頷く。 「それで・・・永倉さんが?」 「いや」 斎藤は、一瞬言葉に詰まった。せめて、永倉の手にかかったと伝えることができたら、どんなにいいだろうと思った。 だが、 「そうですか。それも仕方ないですね」 総司は、意外なほどあっさりと納得した。 細かい説明は必要ないのだろう。 総司とて、なんども死地をくぐり抜けてきている。斬り合いの場で、何があっても不思議はないと承知しているのだ。 風の音すらも、聞こえない。 総司も斎藤も、沈黙のままに佇んでいる。 身体が凍えるほどの冷気が、総司の病にこたえるのではないかと気になった斎藤だったが、部屋へ戻れと無下に言うのもためらわれた。 黙って星を見上げている総司の背を、気遣わしげに眺めるのがせいぜいだった。 「三ツ星・・・」 ふいに総司が、ひどく穏やかな声で言った。 「ほら、見えますか、斎藤さん。あそこに、三つ並んだ星があるでしょ」 斎藤は、総司が指差す方向を振り仰いだ。 行儀よく一列に並んだ三つの星が見えた。 「冬になるとね、いつも見えるんですよ」 自分は気づきもしなかったな、と斎藤は思った。 「でね、その下のほうにひとつだけ、すごく光る星が・・・わかりますか」 斎藤はもう一度、総司の言うままに、視線を移動させた。 確かに、他の星より際立って瞬く星がある。 その光は、やけに蒼白く冷たく見えた。 「あの星がね、好きなんですよ」 総司の声が、かすかに笑いを含む。 秘密を打ち明ける子供のようだと、斎藤は思った。 「三ツ星から離れて、ぽつんとひとつだけ・・・。なんだかすごく孤独で、なのに誇り高く輝いているように見えて・・・」 斎藤は、少し意外な思いで、総司の言葉を聞いていた。 いつも仲間に囲まれて、明るく笑っている総司。 誰とでも、人懐こく話し、親しまれている総司。 そんな総司が、冬の空に物寂しく輝いている星を、一人眺めているのだろうか。 いったい、何を思って・・・ 斎藤の心の声が聞こえたかのように、総司は言葉を続けた。 「人も、いつか一人になってしまうのかもしれない。そんな時が来ても、私は、あの星みたいに頑張れるかなって・・・時々思うんです」 一人になる、それは総司にとって、死を意味しているのだろうか。 それとも、仲間たちと別れる日が来ることを予感しているのだろうか。 いずれにしても、避けられない孤独を覚悟し、それを乗り越えたいと願う総司がいる。 そのことに、斎藤は驚き、総司の真の強さを実感すると共に、胸の痛むような切なさをも味わっていた。 「笑っていたそうだ、藤堂さん」 気がついた時には、言葉がこぼれていた。 なぜ、そのことを口にしたのか、自分でもわからないうちに。 はっと息を呑み、初めて総司が振り向いた。 「笑って・・・いた?」 きょとんと見開いた目に、無邪気な驚きが宿っている。 「永倉さんが、そう言ってた。最後に向かってくる時、笑っていたと・・・」 「そう、ですか」 総司は、小さく数回頷いた。 きっと、つらそうに顔をゆがめるだろうと、斎藤は思った。 そのことを聞いた時の自分たちと同じように。 だが、次の瞬間、斎藤が目にしたのは、やわらかな総司の笑顔だった。 無理に絞り出したのではない、安堵感が滲み出たような自然な笑顔。 思いがけない反応に戸惑う斎藤をよそに、 「よかった。平助は後悔していなかったんだ」 総司は、納得したと言うように声音を明るくした。 「平助は、信念のまま、戦って死んだ。武士として、それは本望でしょう」 確かにそうかもしれない。けれど・・・ 斎藤の葛藤に気づかぬように、総司はうんと伸びをすると、再び先ほどの青白い星を振り仰いだ。 「私も、そんなふうに死ねたらいいなあ」 斎藤は、今度こそ愕然と言葉を失った。 ああ、そうだ。まさに、それこそが今の総司の一番の望みなのだろう。 剣に生き、剣に死ぬ。 斎藤自身も、そう思ってはいる。 これほど、人を斬って生きてきたのだ。いつか、自分より腕の優る相手に出会えば、その者の剣に斃れる。それが道理だろう、と。 けれど、以前の総司から、死を望む言葉など聞いたことはなかった。 誰かの剣に斃れることなど考えられないほど、総司は強かったのだ。 病が、総司の体力を容赦なく奪い去っている。 その事実は、つい先ほども斎藤に突きつけられたばかりだ。 人は、叶わぬ願いにほど焦がれる時がある。 総司にとって、剣を握って死ぬのは、今や切実に願わなくてはならないほど、叶いそうもないことなのかもしれない。 そう思うと、やりきれなさに胸が塞がった。 何も言えぬまま、斎藤は、総司の視線を辿るように、天の星に目を向けた。 青白く、凛とした誇りを持って、瞬く星。 だがこの瞬間、斎藤には、その星が哭いているように見えた。 声に出さず、誰にも気づかれず、心の奥底で慟哭している、そんなふうに・・・ 星を見上げる斎藤の視野に、総司の後姿が入り込んでいた。 無造作に束ねられた髪が。 そして、紛れもなく、以前よりも痩せてしまった肩が。 哭くな・・・ 斎藤は、青白い星に向って、心の中で叫んだ。 志し半ばで斃れた男の、笑顔の裏の涙。 それを惜しむ仲間たちの、こぶしに隠された涙。 凄絶であったろう、その最期すらもうらやむ男の心に落ちる、おそらく己自身すら気づいていない涙・・・ 星が瞬くたびに、見えない涙が流れるようだ。 もしかしたら、哭きたいのは自分なのかもしれない、と斎藤は思った。 強く美しく孤独な星。 冷たく煌くその星が、中国では天狼と呼ばれていることを、斉藤は知らない。 もちろん総司も、知るよしもなかった。 だが、壬生狼(みぶろ)と呼ばれた彼らに、天を翔ける狼の蒼い瞳は、哀しいほど似合っていた。 |
|
<完> |