〜 三国志編 〜
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《魏》
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《そうそう》 字は孟徳(もうとく)。魏の太祖。黄巾の乱で功を立て、董卓に対する軍事行動等を通して頭角を表してきた。三国で最大の勢力を築く。献帝の身柄を擁し、自身は「魏王」に封ぜられたが、死後子の曹丕が帝位についた。 ![]() 演義では悪役に書かれている曹操ですが、実際にはスケールの大きな実力者。三国志の花形ですね。 |
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《じゅんいく 》 字は文若(ぶんじゃく)。曹操の謀臣。祖父の代から後漢に仕えた名門の出身。若くから「王佐の才の持ち主」と謳われた。曹操の参謀として戦略の献策、人材の発掘、登用と、軍の強化に尽力した。 ![]() 郭嘉を曹操に推薦し、その郭嘉が亡くなった時、曹操から深く嘆いた手紙を受け取ったとのこと、なかなか複雑な気持ちだったのでは、などと思ってしまうのですが(^^; |
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《かくか》 字は奉孝(ほうこう)。曹操の謀臣。荀いくの推挙によって曹操の傘下に加わった。その優れた知略を曹操に認められながら、惜しくも38才で病死。曹操を大変落胆させた。 ![]() 傍若無人でたびたび指摘されてもいっこうに気にしなかった点も、かえって曹操には気に入られていたと言います。だからこそ、亡くなった時、曹操が手放しで嘆いたのでしょう。 |
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《ちょうりょう》 字は文遠(ぶんえん)。曹操配下の勇将。もとは呂布の下にいたが、曹操に敗れ降伏し、その後は曹操に重んじられた。 ![]() |
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《しばい》 字は仲達(ちゅうたつ)。後漢王朝の廷臣だったが、のちに曹操に仕えた。曹操の長子、曹丕(文帝)、その子の曹叡(明帝)をも補佐した有能なる人物。 ![]() 司馬懿と孔明、お互いに相手の実力を認めていたからこそ、自分なりの戦いを最後まで通したのだと思います。 |
《呉》
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《そんさく》 字は伯符(はくふ)。呉の初代皇帝孫権の兄。勇猛果敢で江東を支配し、「小覇王」と呼ばれた。以前戦いの時に殺した元呉郡太守の食客に襲われ、その傷がもとで26歳で没した。 ![]() 孫策は秀でた容姿とおおらかな気性で、人望を集めたと言います。また周瑜との「断金の交」と呼ばれるほどの仲も、三国志では珍しいビジュアル系コンビ(?)として女性ファンの人気をさらっているらしい(笑) 戦いでは自ら先頭にたち突進奮闘する武勇が、逆に自らの命を縮めることになろうとは、なんとも皮肉な運命ですが・・・ それでも颯爽とした若き君主の姿は想像するだに爽やかです。 |
《しゅうゆ》 字は公瑾(こうきん)。孫策と同い年で親友。孫策の死後も孫権に仕え、よく補佐した。赤壁の戦いでは、卓越した作戦、指導能力にて曹操に壊滅的な打撃を与え、勝利を導いた。呉の人々から「美周郎」と呼ばれたほどの美貌の持ち主だが、36歳で病死。 ![]() でも、周瑜は決して美しいだけではない、知力も武力も兼ね備えた優れた武将でした。なんと言っても1番の晴れ舞台は赤壁の戦い。これぞまさに周瑜の戦いです。演義では仙人なみの孔明が周瑜を翻弄したり東南の風を起こしたり、と派手に動き回りますが、実際には降伏派に偏りかかっていた孫権を説得した程度。後の活躍は周瑜にかかっています。水軍を指揮し操る凛々しい姿が似合いそうですね。 |
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《りくそん》 字は伯言(はくげん)。孫権に仕え、呉の興隆に貢献した功臣。孫策の娘を妻とする。劉備の大軍が攻め寄せた際、じっくりと守りを固め、一瞬の火攻めにて大勝利を得るなど、見事な兵法を用いる。孫権の信頼も厚く、知略に優れしかも清廉な人物。 ![]() 清廉を貫いた陸遜の家には何の財産もなかったとか。 |
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《りゅうび 》 字は玄徳(げんとく)。蜀漢の初代皇帝。漢の中山靖王の子孫と称し、漢室復興の大義を掲げてようやく61歳の時、蜀王となる。幼くして父を失い、母とわらじやむしろを作って生計を立てたと言われる。 ![]() |
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《かんう》 字は雲長(うんちょう)。劉備が若かりし頃、故郷を出る際から義弟として常に間近に仕える。長く美しい髯が有名。青龍偃月刀を武器とする一騎当千の武将。後に神様として祭られる。横浜の関帝廟もそのひとつ。 ![]() |
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《ちょううん》 字は子龍(りしょう)。劉備の配下の勇将。「長坂の戦い」でり劉備の子、阿斗を救い出した功績は有名。常に誠実、冷静なる優れた武将で、劉備亡き後も、常に第一線で戦い、丞相である孔明を支え続けた。 ![]() 「長坂の戦い」で、群がる敵をかいくぐり、赤ん坊だった阿斗を助け出したことで、劉備の信頼はますます厚くなります。 ただひとつ難点(?)は・・・ どうも女嫌いの気があったのでは、と言う噂(笑) これは趙雲が赴任した先の元太守が亡兄の未亡人(もちろん美女らしい)との縁談を持ちかけて懐柔しようとしたのを一蹴した、と言う話しからです。あくまでも職務第一。公私混同をしない真面目で潔癖な趙雲らしいエピソードです。 |
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《しょかつりょう》 字は孔明(こうめい)。蜀の丞相。劉備に三顧の礼によって迎えられ、「天下三分の計」を劉備に説き、蜀を平定。劉備の死後、南方征伐をして平定し、魏を打つため数度の北伐を敢行するも、戦い半ば五丈原にて病没。北伐に当たり、劉禅(劉備の子)に奉った「出師の表」は有名。 ![]() ただし軍事戦略は、本来得意ではなかったのでしょう。劉備の死後、自ら軍を率いて北伐に乗り出しますが、逆に考えれば孔明に代わって指揮を取れる人材が蜀に不足していたから。自分の亡き後の蜀がどれほどか気がかりだったのでは、と思います。 |
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《きょうい》 字は伯約(はくやく)。もとは魏の将であったが、孔明が北伐で出撃した際、進退きわまって投降した。その武勇、兵法の才能を孔明に見出され、孔明の片腕となって歴戦。孔明亡き後、ひたすら魏への攻勢を計るが乱戦の中、惨殺される。 ![]() 孔明の死後、国力の疲弊を心配した丞相らに遠征を押さえられていましたが、上から押さえつける者がいなくなると連年のごとく魏へ侵攻しました。ただし蜀の内政は乱れ、後押しもないままの孤独な戦いでした。これはまるで自らの破滅へと向かうようなもの。最後の最後まで戦いぬいて非業の死を遂げます。 |
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《じょしょ 》 字は元直(げんちょく)。劉備がまだ荊州の新野に駐屯していた頃に、劉備に仕え重用されたが、曹操に母親を捕らえられ、やむなく劉備のもとを去り、曹操のもとへ行った。孔明とは学友であり、劉備に孔明を紹介したのも徐庶だった。 ![]() 母を曹操に捕らわれ、涙ながらに劉備のもとを去るシーンも印象的。その際に劉備に孔明の存在を教えて行ったことから、孔明の運命も開けたのではないかと思われます。 |
《後漢》
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《りょふ》 字は奉先(ほうせん)。後漢末随一の勇将。優れた弓馬の術と抜群の腕力で武勇に優れていたが、常に仕えた主君を裏切る羽目になり、最後は曹操に包囲され軍門に降る。生け捕りにされ助命を願ったが、劉備の助言に曹操も処刑を決意した。 ![]() 赤兎馬と言う名馬に乗って戦場を疾駆する勇姿こそが、呂布の桧舞台と言えるでしょう。 |
《女性》
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《そんふじん》 呉の孫権の妹。女性ながら武術を好んだと言われる。劉備が甘夫人(劉禅の母)を亡くしたと知った孫権、周瑜の画策により、親子ほども年の離れた劉備に嫁ぐことになる。 ![]() |
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《こうふじん》 蜀の諸葛亮の妻。名士、黄承彦(こうしょうげん)の娘。 ![]() |
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《ちょうせん》 三国志演義に登場する架空の美女。後漢の臣、王允の養女として育てられる。 ![]() 貂蝉は義父の苦悩を呑みこんだ上で、その使命を引き受けます。計画通り、愛する貂蝉を董卓に奪われたと激怒する呂布により、董卓の殺害は為され、貂蝉は使命を全うして命を絶ちます。(死なずに、後に関羽の妻になると言うパターンもあるのですが) 女にしかできない戦いを、見事に遂げた可憐なる美女。架空とは言え、立派なヒロインでしょう。 |