〜 三国志編 〜

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《魏》

《そうそう》
字は孟徳(もうとく)
。魏の太祖。黄巾の乱で功を立て、董卓に対する軍事行動等を通して頭角を表してきた。三国で最大の勢力を築く。献帝の身柄を擁し、自身は「魏王」に封ぜられたが、死後子の曹丕が帝位についた。

なんと言っても大物です! 機知に富み、大胆かつ冷静。群雄入り乱れた中で傑出したのも納得。実力主義で、常に優れた人材を求め続けたのも成功の秘訣でしょう。そしてさらに曹操は詩人でした。それまで娯楽程度に見られていた詩を、文学としての地位に高めたのが曹操。この才能は息子たち、七言詩の創作者である曹丕、唐代以前における最高の詩人と謳われた曹植にも受け継がれたのです。強烈な個性の持ち主であり、しかも豊かな感性をも備えている。
演義では悪役に書かれている曹操ですが、実際にはスケールの大きな実力者。三国志の花形ですね。
《じゅんいく 》
字は文若(ぶんじゃく)。曹操の謀臣。祖父の代から後漢に仕えた名門の出身。若くから「王佐の才の持ち主」と謳われた。曹操の参謀として戦略の献策、人材の発掘、登用と、軍の強化に尽力した。

初めて吉川英治さんの三国志を読んだ時に、曹操配下の軍師の中で印象に残ったのがこの人でした。それは曹操が魏王になろうとした時に、「天下を安んじるのが目的だったはず」と反対を唱えたため、その後曹操に疎んじられ、ついに憂悶のうちに亡くなったと言うエピソードからでした。小説では曹操から食べ物の箱が送られたものの、蓋を開けると空であり、曹操の意を悟って毒をあおいだとありました。これはフィクションなのでしょうが、キレ者でありながら清廉、と言うイメージがあります。
郭嘉を曹操に推薦し、その郭嘉が亡くなった時、曹操から深く嘆いた手紙を受け取ったとのこと、なかなか複雑な気持ちだったのでは、などと思ってしまうのですが(^^;
《かくか》
字は奉孝(ほうこう)。曹操の謀臣。荀いくの推挙によって曹操の傘下に加わった。その優れた知略を曹操に認められながら、惜しくも38才で病死。曹操を大変落胆させた。

曹操にこれほど死を悼まれた人物もいないのでは、と思います。荀いくの推薦で初めて曹操に会った時から曹操から才能を高く評価され、その後も重用されました。 呉の孫策が刺客の手にかかって死ぬだろうと予言して、それが当たったと言うエピソードもありますが、とにかく読みが深く、ものごとの真相を掴むのがうまかったのでしょう。ただし・・・品行方正とは言えなかったらしい(笑)
傍若無人でたびたび指摘されてもいっこうに気にしなかった点も、かえって曹操には気に入られていたと言います。だからこそ、亡くなった時、曹操が手放しで嘆いたのでしょう。
《ちょうりょう》
字は文遠(ぶんえん)。曹操配下の勇将。もとは呂布の下にいたが、曹操に敗れ降伏し、その後は曹操に重んじられた。

武将の中の武将、なんとも渋い人物です。自らも呂布とともに曹操に破れ降伏したと言う過去があるせいか、張遼は攻め滅ぼす時は攻め滅ぼし、降伏させるべ時には説得して降伏させたと言います。常に冷静沈着に軍を率い、敵に動揺を見せることもなかったと。武力もかなりのもので、呉の孫権が大軍を持って攻め寄せた時に、率先して打って出、散々に蹴散らしたので、「呉の子供は張遼の名を聞いただけで夜泣きをやめる」と言われるほど勇名をとどろかしたそうです。
《しばい》
字は仲達(ちゅうたつ)。後漢王朝の廷臣だったが、のちに曹操に仕えた。曹操の長子、曹丕(文帝)、その子の曹叡(明帝)をも補佐した有能なる人物。

孔明のライバルとしてよく取り上げられる司馬懿。数度に渡る孔明の北伐をことごとく阻止します。最後にはひたすら守りを固めて、どんな挑発にも乗らなかった。おそらく周りの武将たちは戦いたくてうずうずしていたはずです。結局は司馬懿の粘り勝ち? 孔明はあえなく戦場で病死してしまうのです。司馬懿がすごいのは、たとえ卑怯と思われても、一番有利な戦い方、処し方を知り、それを遂行するところでしょう。
司馬懿と孔明、お互いに相手の実力を認めていたからこそ、自分なりの戦いを最後まで通したのだと思います。

《呉》

《そんさく》
字は伯符(はくふ)。呉の初代皇帝孫権の兄。勇猛果敢で江東を支配し、「小覇王」と呼ばれた。以前戦いの時に殺した元呉郡太守の食客に襲われ、その傷がもとで26歳で没した。

呉の礎を築いて、疾風のごとく駆け抜けた生涯。それは短いがゆえになおさら鮮やかに人々の心に残ります。
孫策は秀でた容姿とおおらかな気性で、人望を集めたと言います。また周瑜との「断金の交」と呼ばれるほどの仲も、三国志では珍しいビジュアル系コンビ(?)として女性ファンの人気をさらっているらしい(笑)
戦いでは自ら先頭にたち突進奮闘する武勇が、逆に自らの命を縮めることになろうとは、なんとも皮肉な運命ですが・・・ それでも颯爽とした若き君主の姿は想像するだに爽やかです。
《しゅうゆ》
字は公瑾(こうきん)。孫策と同い年で親友。孫策の死後も孫権に仕え、よく補佐した。赤壁の戦いでは、卓越した作戦、指導能力にて曹操に壊滅的な打撃を与え、勝利を導いた。呉の人々から「美周郎」と呼ばれたほどの美貌の持ち主だが、36歳で病死。

むさくるしい男の世界(笑)かと思われていた三国志に、まさにこの人あり、と言う輝きを見せるいい男 No.1の武将。どの本にも必ず書かれているのが、「美周郎」と呼ばれたほどの周瑜の美貌です。
でも、周瑜は決して美しいだけではない、知力も武力も兼ね備えた優れた武将でした。なんと言っても1番の晴れ舞台は赤壁の戦い。これぞまさに周瑜の戦いです。演義では仙人なみの孔明が周瑜を翻弄したり東南の風を起こしたり、と派手に動き回りますが、実際には降伏派に偏りかかっていた孫権を説得した程度。後の活躍は周瑜にかかっています。水軍を指揮し操る凛々しい姿が似合いそうですね。
《りくそん》
字は伯言(はくげん)。孫権に仕え、呉の興隆に貢献した功臣。孫策の娘を妻とする。劉備の大軍が攻め寄せた際、じっくりと守りを固め、一瞬の火攻めにて大勝利を得るなど、見事な兵法を用いる。孫権の信頼も厚く、知略に優れしかも清廉な人物。

孫権に仕えた陸遜は、まずは凶作に苦しむ人々を救い、民力回復に努めたと言います。その上知略も優れ、荊州を守っていた蜀の武将関羽を油断させ、荊州を陥落させました。その後、関羽の敵討ちに大軍を率いて攻め寄せた劉備をも、半年間ひたすら防衛し、蜀軍の疲れが見えたところで一気に総攻撃をかけ大勝利をおさめました。それらの戦功で、孫権の信頼を一身に集めたかの陸遜でしたが、最期は孫家の嫡子相続の勢力争いに巻き込まれ、孫権の怒りを買い失脚、憤死しました。
清廉を貫いた陸遜の家には何の財産もなかったとか。

《蜀》

《りゅうび 》
字は玄徳(げんとく)。蜀漢の初代皇帝。漢の中山靖王の子孫と称し、漢室復興の大義を掲げてようやく61歳の時、蜀王となる。幼くして父を失い、母とわらじやむしろを作って生計を立てたと言われる。

もしかしたら、三国志の中で一番掴めない人物かも(笑) 漢王室の血をひくと言う旗印を掲げながらも、長い間自分の国も持てない。軍事的才能は曹操とはくらべものにならないくらい劣っていたわけです。ただ故郷を出る時から常に側に関羽、張飛と言う苦難をともにする臣下がいて、その後も劉備の人柄に惹かれて人は集まりました。「臥龍」と呼ばれていた、隠れたる逸材諸葛亮をも三顧の礼で迎え、このあたりから劉備の運はつき始めます。念願叶って蜀の皇帝位についたのもつかの間。股肱の関羽、張飛を失い、自らも無謀な戦いに及んだのがもとで悲運の死をとげます。
《かんう》
字は雲長(うんちょう)。劉備が若かりし頃、故郷を出る際から義弟として常に間近に仕える。長く美しい髯が有名。青龍偃月刀を武器とする一騎当千の武将。後に神様として祭られる。横浜の関帝廟もそのひとつ。

関羽と言えば「義の人」と言われるほど。山の如く動かぬ劉備への忠誠心と誇り高さ。しかも戦えば、向かうところ敵なし。そこを曹操に見こまれ、捕虜となった際にも、ぜひ臣下にと望まれるけれど、そんなことになびくような関羽ではなかったのですねえ(笑) 赤壁で破れた曹操の退却路であった華容道に待っていた関羽が、昔日の恩を返すために、曹操を見逃したと言うエピソード。実は三国演義の中だけのフィクションですが、いかにも名場面と言うところですね。実際には、そんなことありえないほど峻烈な人だったのでは、とも思うのだけど(笑)
《ちょううん》
字は子龍(りしょう)。劉備の配下の勇将。「長坂の戦い」でり劉備の子、阿斗を救い出した功績は有名。常に誠実、冷静なる優れた武将で、劉備亡き後も、常に第一線で戦い、丞相である孔明を支え続けた。

誠実、真面目、冷静。趙雲の人柄を表すとしたら、まずこの言葉が並ぶことでしょう。与えられた任務を黙々と、しかも確実にこなす、槍の腕前は天下一品。猪突猛進型ではなく、むしろ理性的な判断力と戦略性をも持つ、なんとも頼りになる勇将です。
「長坂の戦い」で、群がる敵をかいくぐり、赤ん坊だった阿斗を助け出したことで、劉備の信頼はますます厚くなります。
ただひとつ難点(?)は・・・ どうも女嫌いの気があったのでは、と言う噂(笑) これは趙雲が赴任した先の元太守が亡兄の未亡人(もちろん美女らしい)との縁談を持ちかけて懐柔しようとしたのを一蹴した、と言う話しからです。あくまでも職務第一。公私混同をしない真面目で潔癖な趙雲らしいエピソードです。
《しょかつりょう》
字は孔明(こうめい)。蜀の丞相。劉備に三顧の礼によって迎えられ、「天下三分の計」を劉備に説き、蜀を平定。劉備の死後、南方征伐をして平定し、魏を打つため数度の北伐を敢行するも、戦い半ば五丈原にて病没。北伐に当たり、劉禅(劉備の子)に奉った「出師の表」は有名。

初めて吉川英治さんの三国志を読んだ時、まるで神仙のごとき清雅なたたずまい、人間離れした戦術を繰り出す様にため息をついてしまったものでした(笑)  実際には孔明は軍師と言うより、並外れて優れた政治家と言ったところでしょうか。それは決して甘い政治ではなかったようです。法を犯し怠慢な者は厳しく罰したと言います。厳格すぎるほどの政治でも民からの不満があがらなかったのは、孔明が常に公平で賞罰が客観的に見ても明確だったから。外交手腕もたいしたものだったようです。
ただし軍事戦略は、本来得意ではなかったのでしょう。劉備の死後、自ら軍を率いて北伐に乗り出しますが、逆に考えれば孔明に代わって指揮を取れる人材が蜀に不足していたから。自分の亡き後の蜀がどれほどか気がかりだったのでは、と思います。
《きょうい》
字は伯約(はくやく)。もとは魏の将であったが、孔明が北伐で出撃した際、進退きわまって投降した。その武勇、兵法の才能を孔明に見出され、孔明の片腕となって歴戦。孔明亡き後、ひたすら魏への攻勢を計るが乱戦の中、惨殺される。

孔明が晩年、自らの後継者として希望を賭けていたと思われるのが、この姜維。蜀に降伏して以来、孔明の戦略を学び、孔明を補佐し続けたのでしょう。蜀の未来は決して明るいとは言えなかった。それでも孔明の意志を継ごうとした姿はどこか悲壮でさえあります。
孔明の死後、国力の疲弊を心配した丞相らに遠征を押さえられていましたが、上から押さえつける者がいなくなると連年のごとく魏へ侵攻しました。ただし蜀の内政は乱れ、後押しもないままの孤独な戦いでした。これはまるで自らの破滅へと向かうようなもの。最後の最後まで戦いぬいて非業の死を遂げます。
《じょしょ 》
字は元直(げんちょく)。劉備がまだ荊州の新野に駐屯していた頃に、劉備に仕え重用されたが、曹操に母親を捕らえられ、やむなく劉備のもとを去り、曹操のもとへ行った。孔明とは学友であり、劉備に孔明を紹介したのも徐庶だった。

演義では劉備のいる新野に、浮浪者のようないでたちで現れ、自らを売りこむような歌を歌いながら歩き回っていた、と言う派手な登場をします。孔明と水鏡先生のもとで学んでいた頃からの友達で、一見変わり者の孔明の才を見ぬいていた一人と言われています。
母を曹操に捕らわれ、涙ながらに劉備のもとを去るシーンも印象的。その際に劉備に孔明の存在を教えて行ったことから、孔明の運命も開けたのではないかと思われます。

《後漢》

《りょふ》
字は奉先(ほうせん)。後漢末随一の勇将。優れた弓馬の術と抜群の腕力で武勇に優れていたが、常に仕えた主君を裏切る羽目になり、最後は曹操に包囲され軍門に降る。生け捕りにされ助命を願ったが、劉備の助言に曹操も処刑を決意した。

武勇では並ぶ者がないとさえ言われる呂布。暴君だった董卓の義理の息子になります。演義では、ここで董卓を誅殺しようとする司徒王允が仕向けた美女貂蝉が登場します。貂蝉を取り合う董卓と呂布。ついに呂布は王允の巧言に乗せられ、董卓を殺害してしまうのです。貂蝉は創作上の人物ですが、呂布が董卓を裏切って殺したのは事実。その後もあちこちを流浪の末、ついには曹操の前に屈し、処刑されてしまうのですが。
赤兎馬と言う名馬に乗って戦場を疾駆する勇姿こそが、呂布の桧舞台と言えるでしょう。

《女性》

《そんふじん》
呉の孫権の妹。女性ながら武術を好んだと言われる。劉備が甘夫人(劉禅の母)を亡くしたと知った孫権、周瑜の画策により、親子ほども年の離れた劉備に嫁ぐことになる。

なかなか勇ましく闊達な女性だったようです。あの時代、身分ある女性はやはり政略結婚の犠牲者。孫夫人も兄孫権に逆らうことはできず、劉備のもとへと嫁ぐことになりますが・・・ 無事婚儀がすみ、劉備が花嫁の部屋へ行くと槍や剣が並べられ、女官たちも剣を帯びているのを見て、劉備が仰天した、と言うエピソードがあります。武術を好む女性にふさわしい強烈な歓迎だと思いませんか?(笑)
《こうふじん》
蜀の諸葛亮の妻。名士、黄承彦(こうしょうげん)の娘。

もしかしたら三国志の謎のひとつに数えられるかもしれない、孔明の妻(笑)  父親の黄承彦からして、孔明に向かって「私の娘は赤毛で色黒、醜いが、才知は君とお似合いだ」と言ったくらいの器量らしい(^^; なぜ孔明が承知したのか?と思われるけれど、でも、名のある英雄たちも傾国の美女によって没落することを知っていれば、わざわざ厄介ごとを背負い込むこともないのかも。もうひとつには、おそらく、父親の言葉にもあるように、かなり聡明な女性だったことが、孔明の気に入ったとも考えられますね。
《ちょうせん》
三国志演義に登場する架空の美女。後漢の臣、王允の養女として育てられる。

吉川三国志を読んだ方にはお馴染みの美女、貂蝉。暴君董卓を謀殺せんと、王允は貂蝉に、董卓の養子であった呂布に取り入らせ、董卓と仲違いさせる計画を立てた・・・と言うと、なんだか人でなしみたいですけど(^^;
貂蝉は義父の苦悩を呑みこんだ上で、その使命を引き受けます。計画通り、愛する貂蝉を董卓に奪われたと激怒する呂布により、董卓の殺害は為され、貂蝉は使命を全うして命を絶ちます。(死なずに、後に関羽の妻になると言うパターンもあるのですが) 女にしかできない戦いを、見事に遂げた可憐なる美女。架空とは言え、立派なヒロインでしょう。