清  冽


〜中大兄皇子へ〜


わたしは
何も
知らない


そう何度繰り返したとて
おそらく
無駄なのでしょう


これは周到に
仕組まれた罠


迂闊にも
ふとゆるんだ心の隙を
見事に突かれてしまった


謀反の疑いを受けるには
あまりにも都合のよい立場


どのような言い分も
聞き入れてはもらえまい


いや
この運命はすでに
決められていたのか


父上が
先の帝に取りたてられた
その時から


わたしに与えられた椅子は
薄氷の上に等しい


冷徹なる皇子よ


血塗られた剣の閃きを隠し持つ
我が従兄(いとこ)よ


たとえ
わたしに野望がないとしても


あなたには
同じことなのでしょう


どれほどの後ろ盾も持たぬ
非力なわたしですら
排除せずにはいられぬほど


あなたの
帝位への夢は険しいと
おっしゃるのか


聡明なるがゆえ
遠まわりな道を選ぶ


そのことが
さらに
不穏さを増すのだろうに


いっそ
周りなど顧みず


有無を言わせぬ強引さで
頂上へと
駆け上ってしまわれたなら


どれほど
安堵する者が多いことか


けれど
政(まつりごと)とは
それほどに甘いものでは
ないのでしょう


だから
あなたは常に
様々な危惧を抱いておられる


わたしと言う犠牲は
お役に立ちますか?


この後に及んで
もはや
どんな恨み言も申しますまい


あなたが斬り捨ててしまわれた
あまたの魂たちが


あなたを
安らかなままでおくとは
わたしには思えない


人知れぬ孤独を
底無しの恐怖を
背負わされているに違いない


それでも
ひたすらに覇道を行かんとする
あなたにもいつか
憩いを許される日が来るのか


誰にもわかりはしない


そんなものは必要ないと
おっしゃるかもしれない
けれど



わたしはとても
静かな気持ちです


物狂いを装うことにも
父の無念を悼むことにも
少し疲れました


これでようやく
楽になれる


血の繋がりし者たちが
争い合えば
修羅のごとき世になるは必定


ならば
身をひく者があってもいいでしょう


負け惜しみと言われても
かまわない


ただせめて
最期の誇りだけは
示したい


わたしは決して
自らの罪を
認めるわけではないのだから


きっぱりと
頭(こうべ)を上げ
あなたを見据えて
申し上げましょう


この言葉が
誰よりもあなたの胸に
鋭く残ることを信じて


天知る
赤兄知る
我 全く知らず






※ 「天知る 赤兄(あかえ)知る 我 全く知らず」・・・ 謀反の疑いをかけられた有間皇子は、
尋問の際にこう答えたと言う。この言い回しは井上靖著「額田女王」よりの抜粋。

※赤兄・・・蘇我赤兄(そがのあかえ)。有間皇子に謀反をそそのかしたと思われる人物。
有間皇子は処刑されたが、共謀者であるはずの赤兄には何の処罰もなかったと言う。