−其の



じんわり、まといつくような闇が竹林を支配する。
その中で、娘の姿だけが、かすかに青白い光を放っているように浮かび上がって見えた。
娘の正体について悩むことなど、とうにあきらめてしまった博雅である。
人ではない、そして長く哀しい歴史を持つ一族の生き残りらしい、それだけで十分な気がしていた。
不気味でないとは言えないけれど、今は真闇になってしまうことを娘がかろうじて阻止してくれているようにさえ思える。


すぐそばで、じりっと娘の方に向き直る晴明の気配がした。
「ひとつだけ、確かめておきたい。私の邪魔をする気はないのだな?」
低く通る声。
確かに今、娘がこの竹林の霊たちに迎合してしまうのは、晴明としては絶対に避けたいところだろう。
博雅も、必死に娘の様子に目をこらす。
青白い影が頷くのがわかった。



ふっと息をつくと、晴明はさらに声を張った。
「ならば、おまえはもう一度逃げるがいい」
博雅は仰天した。
「えっ、晴明、何を言ってる?!」
博雅の驚愕を無視して、晴明は言葉を継ぐ。
「私が時を稼ごう。その間に」
戸惑うように、娘が身じろぐ気配が伝わってくる。
晴明の意図するところを判じかねているのだろう。


娘の迷いを断ち切るように、晴明の声は鋭くなる。
「おまえなら、ここから出られるはず。今度こそ迷わず逃げよ」
そして、
「ただし、ここにいる博雅も連れて行ってもらう」
「な、何をばかな・・・、おいっ、晴明!」
博雅は、晴明の衣を引っ掴んだ。
「私だけが逃げるなどと、できるわけないだろう! 逃げるなら、おまえも一緒に」
博雅の剣幕に、晴明はいつものように苦笑を含んだ声で返した。
「私がここで防いでいなければ、おまえは一歩も外には出られぬよ」
「いや、それは・・・」


博雅は、言葉に詰まった。
言われれば、その通りだろうと思える。
ここを取り囲む霊たちの呪いが、どれほど強いかは容易に想像がつく。
さきほどとて、晴明の力で、一時的に抑えることができたのだろう。
そして、その効力も、今まさに薄れ行こうとしている。
「今から、大がかりな呪を使う。おまえたちがいたのでは、巻き込んでしまう」
「晴明、だが・・・」
「離れていてくれなくては困る。わかるな、博雅。朔夜も怪我をしている。一緒に連れて行ってくれ」
やけに優しげな、それでいて有無を言わせない口調。
博雅は、もどかしげに首を振った。



確かに、今までも肝心な時、晴明が怨霊に対して直接的な呪を使う時は、博雅は邪魔にならぬよう離れていた。
呪の威力が大きければ尚更、晴明はまず他の者を遠ざける。
今回とて、この竹林の空間は狭い。
博雅たちがいては、思うように呪が使えないと言う晴明の言葉は、十分納得がいくもののはずだった。



「あまり時がない。行け、博雅!」
叱りつけるような晴明の声に気圧され、博雅は数歩後ずさった。
ここにいても、晴明の足を引っ張るだけなのかもしれない。
ためらっているひまも、もうないのだろう。
意を決して、踵を返そうとした。
けれど・・・


(本当に、いいのか、これで?)
博雅は、またもや迷いに捕らわれた。
なぜか今日に限って、どうにも嫌な予感を拭うことができない。
いつもとは違う。晴明を一人にしてはだめだと、本能が知らせている。
先ほど見た霊たちの多さ、この竹林の呪われた歴史、決して簡単に祓えるとは思えない。
もしや、晴明は我が身を犠牲にして、少しでも時を稼ぎ、自分たちを逃がそうとしているのではないのか。
(きっとそうだ。そうに違いない)
懸念は一瞬にして確信に転じた。



「ここに残る!」
気がついた時には、博雅はきっぱりと宣言していた。
「博雅?」
今度は、晴明があっけに取られる番だった。
「ここにいる、私も!」
頑是ない子供のように、博雅は言い張った。
「邪魔だと言っているだろう! 早く行け!」
晴明の声が、苛立ちを含み、高くなる。
だが、博雅は引くつもりはなかった。
負けずに、怒鳴り返した。
「自分だけ犠牲になるつもりなんだろう! そんなのは絶対に嫌だ!」


残響、そして、感情を押し殺したような沈黙の間。
晴明は否定してこなかった。
やっぱり、と博雅は思った。
いつもなら、軽くたしなめてくるところなのに。
それだけ悲壮な決意を秘めていると言うことなのだろう。
晴明らしくもない・・・そう思うと、哀しくなる。
いや、あきらめてなるものか。
博雅の胸に、ふつふつと闘志が湧いてきた。


「自分だけで背負うな、晴明。手伝わせてくれ!」
勢い込んで、晴明ににじり寄る。
博雅一人が手伝うと言っても、できることはたかが知れている。
それはわかっていたが、言わずにはいられなかった。
絶対に、晴明だけに背負わせるものかと、博雅はこぶしを握り締めた。


「いや、だから博雅・・・」
どう説得したものかと、晴明は嘆息した。
思惑が外れすぎる、こんな状況なのに。
せめて、博雅だけは助けたいと思ったのに、どうしてぶち壊すのだろう。
思い込んで言い張ったら、博雅がとことん頑固になることを、すでに嫌と言うほど経験済みの晴明だった。
(本当に困った奴だ)
あきれはてながら、なぜか心のどこかで嬉しく思っている自分にも気づいている。
そんな場合ではないのにな、と晴明は悩ましげに眉を寄せた。
(さて、どうしたものだろう・・・)



ふいに、ばさばさと羽ばたきが聞こえた。
朔夜が身じろぎして、博雅の腕をすり抜けようとしている。
「おい、危ないぞ、朔夜」
博雅の声がした時には、どさりと地面に落ちていた。
と思う間もなく、黒い影がずずっと伸び、人型に変わる。
やはりどこか痛めているのだろう、前屈みに背を丸めながら、朔夜はかすれ声を出した。


「あるじ・・・何、すればよい? 何でも、する」
たどたどしい口調ながらも、必死に訴える。
自分も、晴明の力になりたいと告げているのだろう。
その健気さに、博雅は涙ぐみそうになった。
不気味な奴と毛嫌いしていたことなど、すでに忘れている。
見た目で人を(鳥を?)判断してはいけない、とあらためて納得しつつ、博雅は一人大きく頷いた。
すると、


――― 我も、逃げぬ。


静かな決意を秘めた声が、耳に流れ込んで来た。
皆が、はっとして、目の前の青白い影に視線を移す。


――― おまえたちは、戦うのであろう? ならば我も共に・・・


「よいのか、本当に?」
晴明は、感情を消した声で問い返した。
ここの霊を祓うことは、成功すればおそらく、そのまま竹林の消滅に繋がるだろう。
娘は、自分の棲み処を、自ら滅ぼすことになる。
それでもいいのか、と念を押したのだ。


――― 構わぬ。


短い一言、けれど、娘に迷いの気配はない。
むしろ、その青白い頬には、かすかに笑みが刷かれているようにさえ見えた。
もしかしたら、自ら戦うことで、長く続いた呪縛を断ち切り、解き放たれ、娘自身救われるのかもしれない。
たとえ、棲む場所を失うことになろうとも。
博雅は、複雑な思いに小さくため息をつき、隣の晴明を窺った。



これで、ここにいる全員が留まり、晴明に力を貸すことを申し出たのだ。
後は晴明の判断に任せるだけだった。
晴明は束の間、たゆたうように俯いて思案にくれていたが、やがてすっと顔を
上げた。


「皆の力、ありがたく借りる」
静かで力強い声。
晴明自身、覚悟を決めたのだろう。
それぞれがほっとする間もなく、きびきびした声が続く。
「おかげで、五芒星の結界を張ることができる。五つの頂点に、それぞれ一人ずつ立ち、護りを固めてほしい」
え?、と博雅が戸惑った声を上げた。
「待ってくれ、晴明。ここには、四人しかいないが」
ひとつ頂点が余ってしまう。
それでは、結界にほころびができるはずだ。


薄闇の中で、晴明がふっと笑う気配がした。
「おまえが、花を持ってきてくれたからな」
「へ? そ、それって・・・、晴明、ま、まさか・・・」
博雅の声が素っ頓狂に裏返る。
が、すぐにハッと気づき、慌てて周りを手探り始めた。
さきほど尻餅をついた時に、うっかり藤の房を落としたような気がする。
いや、その前だったろうか。


焦る博雅を可笑しそうに見遣り、晴明は造作なく足元から、花房を拾い上げた。
「あ、よかった。あったのか」
安堵の息をつく博雅に小さく頷くと、晴明は藤の花をいたわるように手のひらに乗せ、小さく呪を唱え始めた。
ふわりと、甘い香りが流れ、少しずつ強まる。
やがて、ぼんやりと淡い人影が生じた。



「み、密虫・・・」
博雅が、感極まったようにつぶやいた。
まさか、ここに密虫まで現れてくれるとは。
(すごい! 晴明の力とは、なんとすごいのだろう!)
今にも密虫に駆け寄って、あれこれ話しかけてしまいそうな(いや、手でも握ってしまいそうな)博雅を、晴明の落ち着いた声が押し留める。
「しゃべるのは無理だ、博雅。花の気に力を送って、仮の姿をここに生じさせているに過ぎぬのだからな」
「そ、そうなのか・・・、わかった」
なるほど、道理でいつまでたっても、姿がうっすら透けているように見えるわけだ。
当然、博雅の方を向いてくれるはずもなく、無表情に俯いているだけである。
博雅は、少し残念そうに、幻のような密虫の姿を眺めた。



晴明の指示のもと、五芒星のそれぞれの頂点に一人ずつ、内側に向かい合って位置を占めた。
博雅の右隣の頂点には晴明、左には朔夜。正面を向くと、密虫と娘を見ることができる。
どちらも淡い光をまとい、人の気配を感じさせない。幻のような姿だった。
それでも、皆がいるのだと言う思いが、博雅を支えていた。


すでに背後から、じわじわと邪悪な気が忍び寄ってきている。
急いで強力な結界を張らなくては、この狭い空間はどす黒い呪いに塗りこめられてしまうだろう。
そして、その結界を保ちつつ、晴明はさらに夥しい霊たちを浄化させるための、強力な呪をも唱えなくてはならないのだ。
どれほどの負担であろうかと、博雅は気が気ではなかった。


だが、まずは結界。それを成してこそ、晴明も次の手が打てるのだ。
自分たちは、そのためにここに残った。
しっかりと結界の要のひとつを担わなくてはならない。
恐ろしくないと言えば、まったくの嘘になる。
いや、それどころか、ぞくぞくと冷気を伴った恐怖感に捕らわれ、博雅は足が情けなく震えるのを感じた。
はたして、自分は耐えられるのだろうか。



ぞわり、と竹林全体が蠢いた気がした。
びくっと振り返りそうになり、博雅は必死にこらえた。
見たくない。見たら、まずい・・・
だが、後ろに目をやるまでもなく、正面から見える空間が、捻じれるように不自然に歪んで行くのが感じられる。
いよいよ、その時が来ようとしているのだ。


「皆、よいな?」
晴明が低く念を押す。
答えようにも、声は喉の奥に引っかかったようで、出てこない。
こんなにもまともに怨霊の気配の只中にいることなど、初めてだった。
今までの比ではなく恐怖感が募るのを止められない。


「博雅、恐ろしければ、目を閉じていろ」
晴明が、こともなげに言う。
そっけないが、博雅を案じてくれているのに間違いない。
「だ、大丈夫だ!」
博雅は、かろうじて強がって見せた。
「そうか、頼もしいな」
晴明の声が、軽く笑いを含む。


そう、大丈夫だ。自分一人ではない。みんながいるのだから。
必死に踏ん張る博雅の足もとに、ひやりとした気が流れてくる。
天上の闇が、さらに濃度を増した。



 <続く>